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心を包んで

「私は、あなたがこうなるまで、また放っておいてしまったのね。」 「別に、勝手に起こした行動まで責任取るとか言わないでくれる?むしろ、そのまま放っておいてくれたほうが気が楽。」 「私は、もう貴方からは逃げないわ。」 まっすぐな目で見つめられる。今まで見たこともない母親の表情に、少しだけたじろいだ。なんだって言うんだ。親の責任とかいうなら、それこそ離婚するなとさけびたかった。約束された未来を取り潰して、生活水準を下げたことのほうがよっぽど高杉にとっては罪だった。 「俺は、あんたを認めてない。心配だってされたくない。なにがちゃんとしろだ、お前が言うのかそれを!!」 「私の責任は、曖昧な言葉であなたを混乱させたこと、そしてなによりも母親としての優しさを履き違えてしまったこと。」 「俺は、あの頃が一番よかった!!尊敬していたあの人の息子としての位置だ!!一人だけ家族じゃなかったくせに、息子とか言ってんじゃねえ!!」 高杉にとって、いつも黙って微笑んでいるだけの、怒りもしない母親はいてもいなくても同じだった。世の中の、ドラマで見るような家族の形。食卓を囲んで、くだらない話で盛り上がる。息子を見て怒る母親も、沢山褒めてくれる父親も、そんなものはドラマだからだと思うくらいに日常が欠如していた。 だからこそ、坂崎家の家族の形として正しいと思っていたものが壊され、やり直しをさせられるというのは大きなショックだった。 離婚。この二文字は、突然すぎたのだ。 ごめんねと言って終わらせるには、あまりにも傷は深かった。 「なぁ、あんたが言ってる家族ってなに?こうして怒鳴り合うこと?それとも息子の言葉を黙って受け止めることが親なの?」 「それも間違いではないわ。でも、私はあなたを抱きしめてあげれなかった。怒ってあげられなかった。」 「ずっと後ろで黙ってみてたくせに、出しゃばってくんなクソアマ!」 「連!!」 病室に乾いた音が響く。高杉は初めて母親に頬を叩かれた。一体何が起きているのかわからなかった。 叩かれた頬の熱が思考を連れてくる。目を見開いたまま、ゆっくりと確かめるように母親を見た。 「痛いでしょう。力いっぱい叩いたのだから。」 「…、なにすんだ…」 「あなたを初めて叩いたわ。こんなに手って痛くなるのね…。」 弥生はじんじんと響く掌を擦ると、呆然とする高杉に視線を戻した。 「これからは、駄目なものは駄目と、きちんと示します。あなたは警察沙汰になるようなことをした。裁かれるべき行為です。」 頬を張られた痛みで思考が明瞭になる。悔しいことに、一度冷静になった頭で起こしてしまった罪がどれほどかを自覚した。 「逮捕されんのは、傷が治ってから?」 「捕まりません。片平くんがあなたを許しました。」 「なんだよそれ、施しのつもりか。」 「彼は貴方を被害者だと言ったわ。」 「だから、なんなんだよそれ!!」 自分は犯され殴られたのに、俺が被害者?まるで無関心だったあの時のきいちの目が蘇る。自分だけが踊らされていたようなあの行為。結局満たされたのは自尊心だけだった。 虚しいことだって、自分が一番わかっていた。だからこそ相手を組み敷くことで、自分よりも可哀想なやつとして扱ったのだ。そして学の代わりに報復を、と建前までつくったのに。 高杉はきいちがうらやましかった。自分の好きな人に好かれ、家族にも恵まれている。いつも馬鹿みたいなことを言ったりして周りを巻き込んだりしているのに、迷惑がられるどころかむしろ仕方ないといったふうに周りが付き合う。 期待される重圧に押し潰されてきた高杉にとっては、それはひどく輝いて見えたのだ。自分にないものを持っているなら、それが欲しかった。 幼稚で情けない嫉妬だ。 益子の番を守ったことがきっかけで、きいちがオメガであることに気がついて、酷く苛ついた。 自分が好意をよせている吉崎学を騙していたのかと。今更考えてみれば笑い話だ、あいつはもとよりオメガだということは一切言っていなかったのだから。体格からしてベータだろうと思っていた。 だから吉崎が、久々にクラスに居たきいちの変化に戸惑ったのを理由に、同じことをしてやろうと思ったのだ。 自分では、吉崎の表情は変わらない。好きな人の笑顔を向けられたことがない自分には、どうしたら自分を見てくれるかがわからなかった。 「どうしたらよかったんだよ…そんなの、誰に教えてもらえればよかったんだ…」 情けなくて、悔しくて泣いた。初めて高杉は親の前でボロボロと涙を流した。 「俺は、頑張ってた。誰も教えてくんねえから、自分なりに頑張ってたのに、っ」 どうしたら素直に、ごめんなさいと謝れるのだろうか。 どうしたら、ちゃんと正しい事がなにか、わかるようになるのだろうか。 「なぁ、母さん…俺は…っ、変わりたい…!」 「できる、変われるわ。だってあなたはこんなに素直じゃない…」 小さいときに感じた温もりだった。高杉は母に抱きしめられながら、アルファのプライドを投げ捨ててしがみついて泣いた。 本当は、弥生が一番自分のことを心配してくれていたことをわかっていたのだ。それを素直に受け取れるほど、素直になれなかっただけなのだ。 でも今は違う。心から思うことができた。 今後の自分の為にも変わりたいと。 もう、羨ましがるだけじゃない、ちゃんと自分から掴み取れるようになる為に。 この小さな体の母に、自分はどれだけつらい思いをさせたのだろう。 そう思うと、今度は母親への自責の念で涙が止まらなくなった。 「あら、やだまだ泣くの、ふふ、」 「ご、ぇん…ごぇ、んなさ、っ…!」 子供のように、ごめんなさいと繰り返して大泣きする息子を抱きしめながら、弥生は本当に久しぶりに、心から嬉しくなって笑った。

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