193 / 268
物理が一番話が早い
「え?」
ドタァン!!と大きめの音がして、引き戸がまるで跳開橋のように寝室の床に倒れた。
呆気にとられて見つめた先には、真顔の忍さんが仁王立ちして身震いするような冷たい目でビール瓶片手に正親さんを見つめていた。
「あぁぁああ…」
俊くんが真っ青な顔で今は亡き扉だったものを前に膝から崩れ落ちる。わかる、あとそのビール瓶もってる忍さんがトラウマなんだろうな。殴られたことあったもんねぇ。
「こんにちは。」
「こっ、んにちは…」
こんなに恐ろしい午後の挨拶、あるだろうか。
瞬き一つしないまま、低く僕に挨拶をしてくれた忍さんは、ヒュンという風を切るおとをたてたかとおもうと、何かが僕の真横を横切った。
「しの、ウッ」
忍さんを見上げて慌てて立ち上がろうとした正親さんは、小さく声を漏らすと綺麗に後ろのベッドへとぶっ倒れる。先程はすごい身のこなしで組手だの巴投げだの見せてくれた正親さんが、避けられないまま後ろに…たしかに風圧を感じるほどのスピードが出ていた。見事手首のグリップだけでコントロール抜群の投擲を見せてくれた忍さんは、うむ。と小さく頷いた。
「千代。回収。」
「御意。」
千代さんと呼ばれた細身の男性は、正親さんの秘書らしい。ただ普通に仕事をしている分には正親さんに従っているらしいが、心酔しているのは忍さんなんだそうだ。
銀縁眼鏡の如何にも出来る男風の千代さんは、軽々と正親さんを抱え上げると胸ポケットから請求書を取り出した。
「片手で失礼いたします。こちらに損害分額を明記していただき、中島にお渡しいただければ後日損害分を振り込ませていただきます。身重の中、ご心労をおかけし誠に申し訳ありませんでした。後日改めて謝罪に伺いたいのですが、ご都合は如何でしょうか。」
「あ、え、だ、だいじょうぶです…扉も多分はめ込めばいけると…」
「ケジメですので。どうかご査収頂けると助かります。社長が。」
「ひぇ、じゃ、じゃあ請求書だけ受け取りますね…」
正親さんを俵担ぎにしたまま、千代さんは丁寧に謝罪をしてくれる。僕は全然気にしないんだけど、正親さん生きてるよね?ピクリとも動いてないけど大丈夫なんだろうか。
俊くんの方を見ると、小さく頷く。いや頷かれても困るんだよなぁ。桑原家の日常ってこんなかんじ?忍さん鬼神のごとくの怒り様だったけど何したの。絶対駄々こねただけじゃここまでいかないよね?え、いくの?こっわ。
僕が疑問符を浮かべまくっていると、忍さんがガバっと抱きしめてきた。思わず背中に手を回してぽんぽんすると、大きなため息を吐く。まるで疲れたぁとでも言うような感じだ。
「ごめんなぁうちのが。仕事で駄々こねてたのは知ってたンだけど、まぁさかそっちに逃げてっとは思わなくてさぁ。デリケートな時期によぉ。大丈夫?腹張ってない?」
「えぁ、うん。はい、あ!きんぴら美味しかった!!忍さんの手料理また食べたいなぁ。」
「くっっそかわい。聞いたかよ俊。俺の義理息子がこんなにも可愛い。」
「ぐぇっ」
すりすりと忍さんに頬ずりをされながらぎゅうぎゅう抱きしめられる。忍さんはいつもいい香りがしていて、きれいで少しドキドキする。でも先程の怒れる姿を見たから余計にドキドキしているのかもしれん。お腹の赤ちゃんもさっきの音で起きたのか、ぽこんと蹴って忍さんにアピールしていた。
「あぁ!!!動いてんじゃん!?ぜってぇかわいい。俺の孫、はぁあたまんねー!!おじいちゃんですよ!?」
「忍さんすごい元気、あっすごい反応してる。」
「正親より俺のが好きかぁ、見る目あるなぁ。なぁ千代!」
「誠に良うございますね。」
ぽこんぽこんと忍さんに合図するようにお腹を蹴るので、僕も体が跳ねてしまった。めちゃくちゃお腹に頬ずりをしてくれるのはいいんだが、正親さんそのままでいいのか。千代さんも肩疲れないのかな。
「千代、とりあえず親父は車にのせとけ。さっき中島に言って先方にドラマの件受けますって言っといた。」
「左様ですか。それはなにより。あとの手配はこちらで請負います。吉信様も乗っていかれますか?」
「正親と呑む約束だったんだが、駄目そうだなぁ。」
「なら俺んちで飲めばいいですよ。晃さんも呼んで。忍も喜びます。」
俊くん達が話している間に、僕は忍さんに手伝ってもらって棚にしまっておいた借りていたお皿をとってもらう。さすがにもらっといて何も返さないのは悪いので、昨日作っておいた肉じゃがをタッパーに詰めると忍さんに渡した。
「忍さんみたく上手くないかもだけど、ばーちゃんのレシピ見ながら作ったの。きんぴらのお礼に食べてほしいなぁ。」
「うっわ肉じゃがじゃん。わざわざいいのに!今晩のおかず作んなくていいわぁ、サンキューな!」
「俺の肉じゃがは!?」
「俊くんにはまた作ってあげるから。」
そういえば俊くんも楽しみにしてたんだっけか。まだ材料あるので今日にでも作ってあげよう。
隠し味にバターを入れたこの肉じゃがは、俊くんお墨付の出来栄えなので美味しいって言ってくれるといいなぁ。
「そういえばなんで嫌がってたんですか?ドラマ撮影。」
「あぁ、あれ?俺が好きな俳優がでるドラマに協力したくなかったらしい。」
く、くだらねぇ…。正親さんまじで忍さんビックラブだなオイ。好きだけどラブじゃないから仕事受けろよと言ったら駄々こねたらしい。
忍さんの口から好きの二文字は自分にしか向けられたくないと言ってメンヘラ彼女のようなやり取りに辟易した忍さんが、くだらないこと言ってるとセックスしねぇと脅したところ、忍のバカ!!とか言って逃げたとか。
「逃げんのはいいけど、妊夫んち駆け込むのはなしだろ。あー情けねぇ。まじでごめんなうちのバカが。」
「正親さん…忍さん大好きすぎるんだね…はは、」
「アルファは馬鹿だからな。俊も血を引いてっから、アホなこと抜かしたらビール瓶見せて脅してやれ。」
「いやそれまじでトラウマなやつ…」
忍さんも物理でわからせるというバイオレンスな一面があるけど、そうさせてる正親さんも悪いよなぁ。というか、忍さんが好きな俳優さんよりも正親さんのが何倍もいけているので自信を持てばいいと思う。
なんだかすごく寝起きからばたばたしたが、吉信も忍さんちで呑むことに決めたらしく、千代さんの運転する車で桑原家に向かうらしい。
「さてと…」
僕は彼らを見送ったあと、肉じゃがを取り上げられて若干しょぼくれながら寝室のドアを直している俊くんの為に、もう一回作るかとエプロンを身に着けた。
「肉じゃがのお肉、豚バラでもいい?」
「!!!、まじで。むしろ豚バラでいい。」
「ふはっ、いい顔。じゃあ特別ににんじんさんはお花に型抜きしましょうねぇ。」
「おう。ドアさっさと直してくるわ。」
僕の一言で急に元気になった俊くんが可愛い。
僕のアルファも最近ちょっと馬鹿だけど、素直で扱いやすくなった気がしないでもない。
買ってもらったエプロンを身につけると、早速俊くんの為に肉じゃがを作ることにした。
ちなみに余談だが、正親さんの会社で撮影されたドラマは、特別出演としてマジの社長役で出た正親さんのおかげで視聴率が上がり、今度は逆に忍さんが持て囃されっぷりに嫉妬したらしい。正親さんはそんな番の可愛さに大喜びして、仕事受けてよかったよ、とか現金なことを言っていた。
ともだちにシェアしよう!