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後日譚 母さんのピアス
「ちぃー?ちはやさーん」
「………。」
「ありゃ、まだ寝てる?」
凪が今日はトレーニングでいない。
なんて最高の一日だ。本当は朝早く目を覚ましていたのだが、母さんがおこしにきてくるのを見越して寝たフリをしていた。
母さんの優しい手が俺の髪の毛を避ける。高校生にもなってと、笑いたければ笑えばいい。
「ふひ、ちーちゃんの寝顔かんわいぃ…」
あんたが可愛いんだよ!!!!と声を大にして叫びたいのを堪える。額にちゅっと柔らかいものが当たって、思わず目を開いた。
「あ、おはよぉ。」
「か、かか、母さん、今キスしました?」
「おでこ丸出しでかんわいくてつい。やだった?」
「まったくもって嫌ではないですね!」
「あはは、ならよかった。」
ほらごはん食べよー、と俺の眼鏡を渡してくれる。手を握りおこしてくれると、よろけたふりして母さんに抱きついた。
「おっと、強く引っ張りすぎちゃったかな?」
「いえ、足がもつれただけです。」
「そ?じゃあリビングにいくよー!」
「ふふ、はい。」
母さんは毎日楽しそうでいい。くるりとリビングに向かうと、背中に俺をひっつけたまま扉を開ける。
リビングには誰も居ない。正真正銘母さんとふたりきりだ。
「今日は朝から凪くんもいないからさあ、ちぃは僕と二人なんだぁ。」
カチャカチャと食器を取りだす母さんのよこで顔を洗うと、珈琲の瓶の蓋をぐぬ…としかめっ面で格闘する姿にすこしだけ吹き出した。
「だはぁ、やばいよちぃくん。僕の握力じゃあ珈琲は飲めなさそうだ。」
「これは由々しき事態ですね、僕が開けましょう。」
「えっ、かったいよ?ちぃあけれる?」
「母さんより筋力ありますし。ほら、」
カポ、と蓋を開けると、母さんはすごーい!と褒めてくれた。前日の夜にしっかりと珈琲の蓋を締めておいたお陰ですね。そうでしょうそうでしょうと誇らしげに微笑むと、わしゃわしゃと楽しそうに僕の頭を撫でてくれる。子供の頃からこの人はいつも全力だ。
「ちぃ、砂糖いる?」
「ブラックで。飲めるようになりたいんです。」
「大人の味だよぉ、僕まだ飲めないもの。」
「なおさらのめるようにしなくては。」
用意されたトーストの上にハムエッグをのせたそれは、半熟たまごになっていた。朝から少しテンションが上がる。
凪は固めに焼いたもの、父さんと俺は半熟、母さんはパンにはマーガリンのみ。それぞれ違う食の好みに合わせてくれる母さんは、いつもすごい。いわく、家事しかしてないし、楽させてもらってるからこれくらいはね。とのことだ。
父さんは母さんを外に働かせるのは良しとせず、完全に家に囲っている。
それでも文句も言わずに、みんなの帰りを待つのは楽しいよと言う。
母さんが出歩くのは駅前と葵さんのところくらいだった。
「あ。俊くんの靴下洗ったら穴空いてたんだよねぇ。繕っといたんだけど、可哀想だから靴下買いに行かなきゃ。」
「穴は開けたままでもいいのでは?」
「だって気になんない?僕はやだなぁ。旦那さんにはかっこよくしてあげたいし。」
「なら買いに行きますか?俺もいますし、親子二人でデートしましょう。」
「えっ、バイトもない日?なら行こっかな。」
にっこり微笑みながら、内心はお祭り騒ぎである。凪はトレーニングウェアがほしいと強請ってたまに買いにつれてってもらっているが、俺はそのついでに母さんが消耗品を買ってきてくれるので、悲しいことに出かける口実がなかなか出来なかった。
素直に誘えと言われればそれまでだが、そうするともれなく凪もついてくる。
正真正銘の二人切りは少ない。
「息子とデートかぁ。何着てこっかなぁ。」
「そういえば父さんが新しい服を買って入れてましたよ。クローゼットに」
「あんま着てくとこないからなぁ。ならそれ着て、…なんかやな予感がする、」
「…イヤな予感とは」
母さんが立ち上がってクローゼット収納に向かうのを追いかける。一部屋丸々俺と凪と母さんのスペースになっているウォークインクローゼットは、猥雑に積み上げられたスペースが凪、整頓しているのが俺、服が少ないのか母さんとわかりやすくなっている。
そのなかの親父が掛けておいた服を母さんがラックから引き抜くと、やけにいい生地のチャイナ服が出てきた。
「うっっっわ」
「酔っ払って購入したのでしょうか。たしかに母さんに似合いそうですね。」
黒の薄い生地のそれは、素肌で着たらそうとうセクシーになりそうだ。親父の性癖からしていかにもそういう事に使うに違いない。母さんは、やけにいい生地なのが余計に嫌だとため息を吐く。
「というか、凪たちと同じクローゼットにこんなもんかけないでほしいよねぇ。」
「これなんか似合いそうですけど。」
母さんの体にそっと当てたのは、薄手の生地に刺繍が施された上品な白のバンドカラーのブラウスだ。
着丈が長めなので黒のスキニーに合わせればよさそうで、禁欲的なのも実にいい。これも悔しいことに親父が購入したもので、あの人がどんな顔でこれを買いに行ったのか、むしろなんでサイズまで把握しているのかそこは怖くて追求はしないほうが良さそうである。
「ええ、じゃあそれにするぅ。」
「僕はどうしようかな、」
「ちーちゃん中国マフィアみたいなごっこしよ!」
「中国マフィア?」
だってこれぽくない?とバンドカラーのシャツを当てて見上げる。おそらくマオカラーのことを言ってるのだろうけど、母さんの語彙が広くないことも知ってるので、お陰様で察することは得意になった。
「なら柄シャツ羽織ってカラーサングラスかけますか。」
「そーそー!そんなかんじ!!わは、ダボダボのズボンはいてさぁ、オペラシューズはこ!」
「いいですよ、母さん俺の入れ墨見るの好きですねえ。」
「インテリヤクザみたいでとってもかっこいい。」
親としてだめかな?と苦笑いしながら首を傾げるので、母さんの性癖に刺さることができて何よりという気持ちも込めて思わずぎゅうぎゅうと抱きついた。
「母さんならいくらでも見てくれて構いません。」
「メキシカンスカルとぉ、ツバメさん。まだあるの?」
「みたいですか?」
「なんかまたエッチなとこに入れたんでしょ!」
「ふふ、項に一つ。」
黒いタンクトップ越しにぺたぺたと墨を触る。母さんの手をとり、そっと項に触れさせる。細い指がそこをなぞる感触が擽ったくて、すこしだけ口がもゾリと動いた。
「ちーちゃんアルファなのに項に入れ墨とかエッチぃ。」
「母さんとお揃いが良かったんです。歯型」
「俊くんに噛んでもらう?」
「そんな恐ろしいこと言わないで…」
親父に噛まれるくらいならまだ凪に噛まれる方がいい。本音は母さんの小さな口でがぶりとしてもらいたいのだけれど、そんなことさせたら躾をされそうなのでこれにした。
薄いブルーの丸メガネを手に取ると、母さんは俺にかけさせた。黒のタンクトップに朱に蓮華の柄シャツ。緩めの黒のボトムを腰履きに履いたいかにもなコーディネートだ。
「ちぃー!!適度に胡散臭くてかっこいー!!」
「ふふ、そうでしょうそうでしょう。」
「あー、僕の息子が何着ても似合うぅ」
「母さんも禁欲的で汚してしまいたくなりますねえ」
「白だからね、汚さないように見張っててね!」
「いいですよ。あーかわいい。」
ぴょんぴょん跳ねて抱きついてきた母さんを抱き止めると、髪の毛をすくって緩めのシニヨンにする。母さんは癖毛だ。首筋にかかるくらいの長さの髪がゆるくウェーブしていて可愛い。
俺の髪は前下がりに整えてもらっているので、後ろは刈り上げて歯型の入れ墨を晒している。
「こんな格好で目的が俊くんの靴下だからねぇ。」
「僕が迷子にならないように手を繋いでくれますか?」
「いーよぉ、ままとお手々繋ごうねぇ。」
にこにこしながら小さい母さんの手を握りしめる。母さんとおそろいの黒のオペラシューズに足を通し、日傘を指した。季節はまだまだ日差しが強い夏である。
「でもさぁ、最初にちぃが入れ墨いれてきたときは、まじでグレたと思ったね。クソジジイとか言われたら僕泣くかもと思ったもん。」
「母さん治安悪い雰囲気の男好きでしょう?父さんとか。」
「うん、すきだけどねぇ。俊くんてやっぱ顔面の治安悪いの?」
「息子から見ても悪いですねえ。昇り龍とか入ってそうですもん。」
「俊くん痛がりだから墨は入れないと思うなぁ。」
繋いだ手を揺らしながら歩く。ぎょっとした目で二度見される位には俺も治安が悪いらしい。凪もピアス大好きだし、おそらく親父の厳しさの反動からきているのだろう。母さんは似合ってればいいスタンスなので何も言わないが。
「でも母さんもピアス開けてるんですねえ。痛いの嫌いでしょう?」
「ああ、これ?これはねぇ、んーーーーーー、いう?」
「その間を聞いてしまうと、知りたいですね。」
「んー、中学の時に先輩にぷつって」
「あ?」
「うわあ、今言ったこと後悔しても遅い?」
「遅いですね。」
まさかの回答に頭が痛くなる。こんな可愛らしい母さんの耳たぶにピアスを開けた、ある意味処女をちらしたと言っても過言ではなさそうである。そんな不届き者がいたとは。
「それ、父さん知ってるんですよね?」
「え?知らないよ。聞かれてないもん。」
「僕がはじめて?」
「ちぃがはじめて。」
「ほほう。なるほどなるほど。」
それはなかなかに、ううん。本題はそこではない。母さんはクレープ屋さんをみてふらふらとそっちに行きたがる。クレープもいいですけど先にお話しませんか、あ、買うんですね。
「あまぁい!」
「僕も大概母さんには甘いですね。」
「さっきちぃが僕のこと母さんっていったらおねえさんびっくりしてたねぇ」
「ああ、親子には見えなさそうですね。名前呼びにしましょうか。」
「千颯って?」
「きいち、ですよ。」
がぶりと母さんが食べているチョコバナナクレープを齧る。おげ。安っぽいクリームの甘さだ。
母さんはもくもくと小さな口でクレープを食べながら、口元を抑えて飲み込んだ。
「きいちかぁ。なんかドキドキするからあだ名にして。」
「なら、きぃ。」
「千颯がちぃだから?」
「そんなところですね。」
「なるほどぉ。」
母さんは幸せそうにもくもくとクレープを食べている。たまにこちらを見る雄の愚民どもはあれか。先日絞めたやつもちらほらいるな。駅前だからたむろしていたらしい。視界に入ってくるな。無言で睨みを聞かせていると、母さんがにこにこしながらクレープを差し出す。
「ちぃ、一番美味しいとこあげるねぇ?」
「ぐっ、」
「あり?いらない?」
「たべまふ。おいひいれふ。」
まくりと母さんが好きなクレープの生地が多いところをがぶりと食べる。普通はクリームやらチョコレートメインな所だろうと思うだろ。ちげえ。母さんはどっちかって言うと生地が多いところが好きなのだ。ちなみにおでんではちくわぶが一番好きらしい。わけわからん。かわいい。
「あや、おくちにクリームついちゃったねぇ。」
「きぃがとってくれますか、自分じゃわからないので。」
「ん、とれた。はいかわいい。」
指先でクリームを拭うとぱくりと舐めとる。はいかわいい!お陰様で俺の情緒は死にそうである。
凪に内緒ね、パフェたべたの。というが、母さんクレープです。
「で、先程の話の続きですが。その先輩というのは?」
「名前忘れちゃった。その先輩もピアス空いてて、褒めたらぷちんって。」
「端的すぎません?いきなりですか?」
「いや、ほら僕いじめられてたじゃん?」
「いじ、っこんな可愛い子を!?!?」
「ちぃちゃん声おっきいよ」
中学の頃の母さんの写真を見たことがある。晃さんに見せてもらったものだ。息子からしても魅力的な、それはそれは可愛らしい容貌だった。凪はタイムスリップしてえ!!とかいっていたが、してどうするつもりなのか。一線を踏み越えるつもりなら殴ってでも止める。
「んー、気に触ったのかなぁ。」
ふにりと耳朶に触れる。右耳のちいさな穴。
「中学のときにね、その先輩に告白されたんだよねえ。でも、なんとなく違うなって思って断っちゃった。」
もしかしたらあの時から俊くんって決めてたのかも、そう続ける母さんの頬は薄桃色に染まる。
「その先輩もね、小学校の事件のこと知ってる人でね、」
「事件?」
「ほら、初キスが担任ってやつ?」
「それ僕知りませんが。」
「俊くんも多分初キスはその人だよ?」
「なんですかそれ、そんなにやばいやついたんですね。」
六村という先生は結果的に干されたらしい。が、あろうことか母さんは襲われかけたらしい。自分の蒔いた種だというが、そのことは親父にも言っていないという。
「僕は未遂だけど、上の先輩がね。」
「なるほど。それで、事件を知ってるというのは?」
「その先輩のお兄ちゃんだったんだよ。告白してきたの。」
「それは、また…」
何という、難儀なめぐり合わせか。
いわく、六村が捕まったあとにすべてを話したという。勿論、母さんにしたことも。
告白をしてきた先輩は後になってその事実を知り、手のひらを返した。俺の妹を身代わりにしたことを許してやるからと言って、痛いのは嫌だと抵抗する母さんにピアスを開けたという。
「ヤらせるかピアスかなら一択じゃない?まああるよね、黒歴史。」
「…腸が煮えくり返りそうです。」
「でもいいんだ。結局それも問題になって先輩は希望校行けなかったし。」
「それも…とは?」
「何かに付けて弱い者いじめしてたらしい。僕も人との関わり方が下手だったからさ、社交辞令で、ピアス褒めたら巻き込まれちゃった。」
右のホールには一つだけリングのピアスが揺れている。
「外そうとは思わなかったんですか?」
「俊くんがさ、羨ましそうに見ててね。」
「は?」
「僕の好きな人がかっこいいって思ってくれてるのかもーって、考えたら気にならなくなっちゃった。てへ」
「ああ、なるほど…」
自分にとっての傷を羨んでくれたから。親父は事実を知らないまま、母さんを救ったのかと思うとかっこよすぎて少し苛つく。
俺はまだそんなふうにできない。母さんは父さんに事実を言わない理由が、なんとなくわかる気がした。
「秘密がある男って、かっこよくない?」
「きいは、僕の一番ですよ。愛してます。」
「息子ぉー!僕も愛してるぅ!」
「それ、父さんにももっと言ってあげてくださいね。」
「…照れるじゃん?」
「ずるいなぁ、父さんは。」
互いが愛してるをあまり言わない。そんな夫婦だが実のところはすきすぎて恥ずかしいからという理由らしい。
言いすぎて、薄っぺらくなっちゃうのはなんかやだもん。母さんはそう言って笑う。
お酒の力でも借りないと言えませんとも続けた。
「さ、買いに行くんでしょう。靴下。」
「うん、ちぃのパンツも買お。治安悪いやつ。」
「ティーバックでも履きましょうか。」
「それは風紀が乱れるやつ!」
ちぃにはまだ早い!というが、こんな見た目になっても子供扱いは変わらない。まだガキだからというのもあるが、背伸びをしても母さんが大人にさせてくれない。
180もある俺の頭を、可愛い可愛いと言って撫でてくれるのだ。
「買ったら凪たち待ちますか。」
「あ、もうそんな時間?凪くん何時に帰ってくるんだっけ。」
「あと一時間後には駅に着きますよ。」
それまでは俺だけの母さんですね。手を繋ぎながらそういうと、今だけねと返してくれる。
俺の母さんは優しくてきれいで、今日も可愛い。
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