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16 すべての始まりは忘れものだった
「部長。書類の確認とアポ取り終わりました」
5月の半ば、ようやく社内の空気に慣れてきた新人たちと同じ場所で働く。
岸本は3人の中でもずば抜けて要領が良かった。さらに気もきいて就業前の朝の朝礼の10分前にはコーヒーを淹れてくる始末。小鳥遊はいつも自分でやっていたのだが、勝手に岸本が始めたので止めずにいた。おまえはお茶汲み用員のオメガ社員ではないだろうと思いながらコーヒーを啜る。香ばしい匂いに頭が冴えてくるのを感じる。
ふとフロアを眺めれば岸本も同じようにコーヒーを飲んでいた。甘いものが好きなのか、ちらりと見えたカップの中身はコーヒー色というよりも、ミルクたっぷりのコーヒー牛乳のように見えて、なんだか弱点を見つけたような気がして小鳥遊は年甲斐もなく心の中で小さくガッツポーズをした。
朝礼を終えて毎朝恒例の簡単なストレッチを皆でしながら業務につく。このストレッチは首や肩周りの筋肉をほぐし血流を良くさせる効果があるらしい。このストレッチのおかげで、デスクワークに伴う肩こりや偏頭痛などが改善されたので、小鳥遊は真面目に取り組んでいる。いつもと同じルーティンの中で、小鳥遊はその日も何事もなく1日が過ぎていくと思っていた。
俺があんな忘れ物をしなければ。
1週間の最後とあって気が抜けていたのかもしれない。小鳥遊には大きな仕事を終えたり、翌日が休みの日には少し注意散漫になることがある。これは気疲れや身体の疲れからくるSOSで、自分の身体が自分の脳へこれ以上働くな、と警告しているのである。
マルチタスクをこなす日々は安泰とは言えない。毎日何かしらの締切や目標があるし、プレッシャーもある。そんな中で仕事へ全力投球していては、肩を痛める。
そこで小鳥遊は、仕事へのメリハリを付けることを心がけている。今日も夕方のコーヒーブレイクを挟み、最後の一仕事終えてパソコンの電源を落とし、帰る途中にある歯科医院に向かうため保険証を確認していたときだった。定期検診のためだった。両親から歯を大切にしなさいと厳しく育てられた小鳥遊は3ヶ月に一度の定期検診に毎回律儀に通っている。
小鳥遊は急病の際、どこの病院にも行けるように持っている病院の診察カードを常に持ち運んでいた。ほどほどに分厚いカードケースを広げながら今日行く歯科医院のカードを探す。フロアには|人気《ひとけ》が少なく、見れば自分の部署には岸本しか残っていなかった。ごそごそとデスクのあたりを掃除しているのかいっこうに帰る気配はない。何かを探しているのだろうか。
「戸締り頼むぞ」
少し近づいて声をかけた。
「はい」
口では返事をしているが、まだごそごそと手を動かす岸本を不審に思い声をかける。
「なにかあったのか」
「家の鍵を落としてしまったみたいで……たぶんこの辺だと思うんですが」
小鳥遊はデスクを一通り見て、スッと3番目の引き出しを引いた。クリップやホチキスなどが入っているところをごそごそと探ると、銀色の鍵が顔を出した。なぜこんなところにと思ったがそれを聞くほどの余裕はなかった。
小鳥遊でさえ、もし自分が家の鍵をなくしたら、おそらくこの辺りに無意識に入れてしまうかもしれない、という場所を示しただけだった。もうすぐ歯科検診の予約時間が近づいている。小鳥遊は時間を急かされるのがとても嫌なタイプだ。早くここから立ち去りたい。
「今度からは無くすなよ」
「すみません。ありがとうございます」
お辞儀をする岸本を置いて早足でフロアから出て行く。エレベーターを待っている間も時計をちらちらと確認する。小鳥遊は遅刻が許せないタイプの人間だった。
エントラスに出ると小走りで外に出る。そのまま走って歯医医院の入っているビルに向かう。そのときはまだ重大な忘れ物をしていることに気づいていなかった。
「保険証と診察券をお願いします」
受付の優しげな女性がそう伝えると、小鳥遊はバックに入れていた診察カードと保険証の入ったカードケースを取り出そうとする。しかし、そのケースはどこにもない。半ば息を切らしてきたせいで額に汗が滲む。
しまった。社に置いてきてしまったか。
受付の女性に謝り1度取りに戻ることにした。幸い次の時間帯の予約がキャンセルで空いたらしく、すぐに診察をしてくれるという。普段はそういった急な予定変更はできないが、今日はたまたま空きがあったようだ。それにほっとして一息ついた。
社に戻るとなぜかまだ明かりがついているのが見えた。人がいる様子はない。さすがにこの時間帯には、ホワイト企業で働き方改革を押し出しているうちの会社の奴は残業などしないはずだが。
訝しみながらも時間もないので自分のデスクの上を探す。引き出しを開けて中のファイルの隙間に入っていないか、そして再度自分の鞄の中を探すもどこにも見当たらない。もしやと思って薄い希望を持って岸本のデスクに向かうと、カードケースがデスクスタンドに収まっていた。小鳥遊が外に出た後で岸本が忘れ物に気づき保管しておいてくれたのかもしれない。やはり仕事と同様しっかりしているんだなと感心する。ほっとしてカードケースの中身を確認し、さぁ戻ろうと思ったところで運悪く電話が入る。
見れば産婦人科の番号だった。なぜこんなときにと思って無視しようと思ったが、緊急のことかもしれないと思い至り電話に出る。フロアには他の人間の姿はないので、小鳥遊は油断していた。
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