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19 えっちな脅迫 R18
終業時刻を知らせるアナウンスがフロアに響き渡り社員が帰宅し始める。その隙間をぬうようにして小鳥遊は資料室に向かう。元から人気 のないフロアなので照明も薄暗い。強ばる足を叩いて入室すると、棚に寄りかかる岸本の姿を捉えた。
「遅いですよ」
「……」
海外ブランドものと思しき腕時計を指先でとんとんとつつく岸本を横目に、小鳥遊は渋々と財布を取り出す。財布の中にはきっちり諭吉を10枚入れておいた。どうせふんだくられるのがわかっているのに、札はきちんと表を向けて並べてある。これも口止め料なら安いものだ。
社内で岸本が「小鳥遊駿輔は種のない欠陥品のアルファだ」と言い広められるよりは。ゆっくりと財布のがま口を広げるとその手を押さえつけられた。
「今日はそっちじゃなくていいです」
そっち、という言葉に意識が傾く。岸本の表情は至極真面目な顔をしている。
「金以外に要求することがあるのか」
小鳥遊は出鼻をくじかれた苛立ちとともに岸本を睨む。2人の間でばちばちと火花が散る。数秒の後、岸本は愉快そうに両手を広げた。手を広げると、鷹のように身体が更に大きく見える。
「ハグしてください」
岸本は満面の笑みだ。笑窪すら浮かぶ始末。小鳥遊は素で驚いてしまう。
「は?」
こいつ今なんて言った? 俺にハグを求めてるのか。
ありえないものを見た、と言わんばかりに岸本をジト目で見つめる小鳥遊を他所に岸本はふふん、と嬉しげだ。その表情の真意が小鳥遊には読み取れなくて恐ろしいのだ。
「いいでしょう? 俺、今一人暮らしに慣れてなくて人肌恋しいんですよ。かわいい部下のお願い聞いてくれますよね」
かわいい部下ではないな。
小鳥遊は一応心の中で訂正をしておく。断じてこの岸本雄馬という男はかわいい部下ではない。むしろ恐ろしい部下だ。一人暮らしに慣れていなくてというのは、いかにも新入社員っぽい理由だ。金の次はハグか……しかし、過激なお願いではなかったので小鳥遊はほっとする。ハグくらいなら、まぁ欧米では挨拶の一種でもあるし我慢できるか。ただ軽く服の上から触るだけ、触るだけ。
そう自分に言い聞かせ萎えた心を奮い立たせる。残念ながら、今は岸本を抑えるような弱みは握れていない。文字通り、小鳥遊は岸本の手のひらで転がされるしかないのだ。
そう考えて両手を広げる岸本の腕にじりじりと近づき、ぽんと飛び込む。体のくっつくぎりぎりのところで止まり、そっと両手を回した。軽く、ほんの少しだけ背中に触れる。
「っ」
その瞬間、息が詰まるほど強く抱きしめられた。岸本の両腕が小鳥遊の腰周りを囲う。ベルトの辺りを何度かすりすりとされ、鳥肌が立つ。こうして誰かと抱擁するのも小鳥遊には数年ぶりのことだった。
岸本はまるで大きなボーダーコリーのようだ。大型犬がのしかかってきたような重さに足が震え出す。それを必死に堪えて悪夢の時間が過ぎ去るのを待つ。岸本はその間何も話さないので、小鳥遊もそれにならい無言でいた。これは完全にセクハラである。5分ほどそのままでいると、岸本はようやく手を離してくれた。
気づけば、小鳥遊は背中に嫌な汗をかいていた。ワイシャツが肌着と密着する。早く帰ってシャワーを浴びて、風呂に浸かりたい。
「明日はまた別のお願いしますから、楽しみにしててくださいね」
岸本は満足そうに目を細めると、怪しい笑みを浮かべて資料室から出ていく。そのときふんわりとしたコロンのような匂いがして少し気分が高揚した。ヘアトリートメントの香りだろうか。あるいは制汗剤か。さすがに職場に香水を付けてくるような大柄な性格ではないと、なぜか小鳥遊は認知していた。夏祭りの屋台から洩れ出る甘い綿飴のような匂いのそれは、岸本の体から放たれたようで良い匂いだなとなんの気なしに思った。
翌日も終業時刻の直後に呼び出された。今日は3階の喫煙所で待っているという。岸本が煙草を吸うイメージがわかないから、意外だった。フットサルに力を入れていたと聞くから、アスリート並みに煙草を吸わないとばかり思っていた。これも偏見かと小鳥遊は内省する。
岸本はまだ入社したばかりなのに人気のない場所をよく理解しているのでそれがまた末恐ろしい。いつそんな穴場を見つけたのか気になるところではある。まさか業務時間中にうろついてたりなどしていたら、小鳥遊が鉄拳を食らわせてやるところだ。
昨日に引き続き小鳥遊の足取りは重たかった。また意味不明なお願いをされるのではないかと気が気ではない。一応今日も財布に10万を突っ込んできたが、岸本の言いなりになっている自分に浅い笑いが込み上げてくる。いつから従う側になったんだ、自分は。
「今日は早いですね」
煙草をふかしながら岸本が言う。紫煙の薫る空気に息が詰まった。小鳥遊は非喫煙者で煙草の匂いが苦手だった。電子ではなく紙だったのにも驚きを隠せない。煙たい喫煙所は狭く、暗い。
「偉いですよね。毎回ちゃんと律儀に来て」
煙草の火を灰皿に押し付けながら、岸本が言う。じゅう、と火が細かく爆ぜる音が聞こえた。
「おまえのせいだろう」
呆れてものの言えない小鳥遊は、うんざりとした表情を浮かべた。
「それだけ皆には知られたくないことなんですね」
ニヒルな笑みを浮かべた岸本は、からかうのが楽しいとでもいうように目を細めている。まるで女狐のように弧を描く瞳。いじわるそうな目だと心の底から思った。
「……今日はなんだ」
小鳥遊が早く済ませて帰ろうと思っているのがばれたのか、岸本はゆっくりと間を持たせる。その時間すら惜しい小鳥遊は、早く済まそうと覚悟を決める。
今日は帰ったら男子バレーの世界大会の準決勝が放送されるのだ。学生時代、高身長を買われて男子バレー部に所属し、中学・高校・大学でキャプテンを務めてきた。日本代表選手の中には高校の頃のチームメイトもいる。古豪の強豪校と呼ばれたバレー部だった。そんな思い入れもあり、今日はなんとしてもリアルタイムで試合を見たいのだ。酒もつまみも冷蔵庫の中で待っている。
「最近仕事が忙しくてリラックスできてないんですよね」
首の後ろをかきながら岸本が呟く。
「おまえの時間の使い方が下手だからだろう」
律儀に指摘されたことを不快に思ったのか、岸本は眉をひそめている。形のいいきりりとした眉だ。眉毛サロンに通っているのか、綺麗に整えられている。
「誰かさんが期待してくれるおかげで家でも勉強してるんですけど」
それは意外だった。やはり仕事の方は真面目にやっているらしい。ならばプライベートもその真面目な皮を被っておいてくれればいいものを。
誰かさんというのは、小鳥遊を含め本部長や百田のことだろう。これは期待できるなと考えているとおもむろに岸本が自身のベルトを外し始めた。状況の理解ができなくて固まっていると、岸本は
「だから舐めてくれます?」
「……っ馬鹿言うな。見たくもない」
ジーっとジッパーを下ろす音が聞こえて慌てて目を逸らすと、岸本が目の前に迫ってきた。やや身長差があるせいで小鳥遊は上を向かなくてはならない。この地味な身長差がうざい。
「拒否するなら社内メールで一斉送信しますけどいいんですか?」
スマホを片手に見せてくる。画面を見ると「小鳥遊部長は種無しのアルファです」という文字が打ってあった。宛先は社内の連絡網のメールアドレスだった。背中がヒヤリとして立ち尽くす。それだけは阻止しなければ、と小鳥遊の体がこわばる。
なんて用意周到なやつなんだろう。
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