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終業時刻を知らせるアナウンスがフロアに響き渡り社員が帰宅し始める。その隙間をぬうようにして小鳥遊は資料室に向かう。元から人気《ひとけ》のないフロアなので照明も薄暗い。強ばる足を叩いて入室すると、棚に寄りかかる岸本の姿を捉えた。
「遅いですよ」
「……」
腕時計を指先でとんとんとつつく岸本を横目に財布を取り出す。がま口を広げるとその手を押さえつけられた。
「今日はそっちじゃなくていいです」
「金以外に要求することがあるのか」
2人の間でばちばちと火花が散る。岸本は愉快そうに両手を広げた。
「ハグしてください」
「は?」
こいつ今なんて言った? 俺にハグを求めてるのか。
「いいでしょう? 俺、今一人暮らしに慣れてなくて人肌恋しいんですよ。部下のお願い聞いてくれますよね」
金の次はハグか……しかし、過激なお願いではなかったのでほっとする。ハグくらいなら、まぁ欧米では挨拶の一種でもあるし我慢できるか。
そう考えて両手を広げる岸本の腕に飛び込む。体のくっつくぎりぎりのところで止まり、そっと両手を回した。軽く、ほんの少しだけ背中に触れる。
「っ」
息が詰まるほど強く抱きしめられた。大型犬がのしかかってきたような重さに足が震え出す。それを必死に堪えて悪夢の時間が過ぎ去るのを待つ。5分ほどそのままでいると、岸本はようやく手を離してくれた。
「明日はまた別のお願いしますから、楽しみにしててくださいね」
怪しい笑みを浮かべて岸本が資料室から出ていく。そのときふんわりとしたコロンのような匂いがして少し気分が高揚した。甘い綿飴のような匂いのそれは、岸本の体から放たれたようで良い匂いだなとなんの気なしに思った。
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