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「もしもし、三井産婦人科の四谷と申します」 以前通院したことのある産婦人科の受付事務だろうか。はきはきと話している。 「はい。小鳥遊です。どういったご用件でしょうか」 こんな忙しい状況でかけてきた電話に、だらだらと付き合う義理はない。小鳥遊はすぐさま電話の要件を聞き出したかった。 「当院では定期的に性病検査と精子の運動状態を見る検査を行っております。何年もご予約がない患者様に診察のご案内をしているのですが、いかがですか?」  なんだ。セールスじみたものじゃないか。もう何年前になるだろうか。ここで検査をしたのは。考えていると、ふと前に付き合っていた恋人の声や仕草を思い出してしまいそうになり頭を横に振る。いいや、忘れろ。小鳥遊は苛々としながら「いいえ」と伝える。すると、電話越しにカタカタとキーボードを押す音が聞こえてきた。 「ご本人の確認のために前回の検査結果の内容をお聞きしてもよろしいですか?」  押しの強い営業だなと思いながらも早く電話を済ませたいので静かな声で伝える。その声は怒りで低く震えていた。 「無精子症と診断されましたが……もういいですか」 小鳥遊の声音に電話口の女性は、ようやく機嫌が悪いことを悟ったらしくそこからは事務的なやりとりにとどまった。 「大変失礼致しました。またなにかありましたらお気軽にご相談ください」  壁時計を見つめて大きくため息をつく。やっと切れた緊急性のない電話にイライラとする自分に嫌気が差した。もとはと言えば、己が迂闊にもカードケースを忘れたせいだ。それにこの時間では予約の時間には間に合いそうもない。歯科医院にキャンセルの電話を入れようとしたそのときだった。  チャリンと高い音がフロアに響いたのは。驚いて後ろを振り返ると、フロアの入り口に大きな影が見えた。ゆっくりと床に落とした物を拾うとその影はなぜか小鳥遊の方へ近づいてくる。 「……岸本。まだ帰ってなかったのか」  まさか聞かれていないよなと冷や汗が小鳥遊の背中を伝う。どくんどくんと忙しなく胸が鼓動し始めた。岸本の表情は逆光でよく見えない。 「部長、アルファなのに種がないってほんとですか」  ああ、終わった。  一番、この世の誰にも知られたくない秘密を岸本は察知したらしい。小鳥遊は薄笑いを浮かべて首を振る。ここは不審に思われても、たとえ信頼を失ってでも嘘をつくしかない。そうしなければ、アルファとしての自分の価値が無くなるような気がしたためだ。 「昔、一時期そういう病気になっただけだ。今は健康そのもので──」 嘘だ。もうずっと、それは生まれつきの症状だと診断されている。しかしそれをまだ知り合って間もないアルファの部下、岸本に知られたくない。この問題には人を遠ざけたい。決して知られてはいけない秘密なのだ。 「嘘つかないでください」  いつにも増して真剣な目で見つめられ、小鳥遊は声が出なくなる。こんなに真面目な顔をしている、冷静で落ち着いている。そんな岸本を見るのは初めてだった。それは優しさでくるものではなかろうというのはわかりきっていた。岸本の威圧的な瞳が食い入るようにこちらを見つめてくる。そんな目で見つめられるのは初めてのことで、小鳥遊は息をひそめて成り行きを待つ。

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