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21 偽りのΩ
小鳥遊が驚いたのは岸本の緊張している姿だった。正座に慣れていないのか、ぷるぷると震えている。そうしてぎこちなくお酌をしてくれるが、その手が微かに震えているのを小鳥遊は見逃さなかった。
緊張? 不安? 不慣れ?
こんな一面もあるのかと知って少し興味がわいた。常に100点を出し続けてきた岸本の小さな弱点かもしれない。小鳥遊はそう思い、脅しへの対処法として岸本の弱みを発見することから始めようと考えた。完璧そのものだと思っていた部下の意外な一面に百田も笑っていた。
そのおかげで空気が柔らかくなり、他の2人も話しやすそうだった。2人はだいぶ会社の雰囲気に慣れてきたようで、小鳥遊はここまで信頼を得た百田の指導手腕を素直に感心していた。
「おいこらあ、たかなしぃ、なんなんだよ、てめえ、おら、なんとかいえよぉ、こンの仕事馬鹿があ、おれだってなあ、おれだって、契約とるために死ぬほど努力してんだよ。くそがあ。おれもいつかたかなしを越える契約とってきて
港区のラウンジで接待されてぇわ。ラウンジ嬢バンザイ」
「俺で憂さを晴らすのはやめろ。いい大人の癖にみっともないぞ。うちの会社は実績がいのち。悪態ついてないで、さっさと寝て忘れてまた仕事に打ち込め。新人の研修だってまだまだこれからが大詰めだってのに。後輩に見られたらみっともないな。天下の桃太郎」
百田と桃太郎の響きが近かったので軽くジャブを打ってみた。締めの言葉は完全に煽りだが、もはや百田の意識は曖昧で呂律もまわっていない様子だ。聞こえていなかったのだろう。
酔いも深まり悪酔いした百田を背の高い岸本と引きずってタクシーに押し込む。これがいつもの小鳥遊の飲み会ルーティンだ。
「小鳥遊ーおやすみー」
タクシーの窓からぶんぶんと大きく手を振る百田を遠い目で見つめながら新入社員の3人に解散を告げる。
岸本以外の2人はすぐに駅に向かっていったが、1人だけぽつんとその場に立ち尽くす姿を見て小鳥遊は違和感を覚える。目が虚ろでふらついている岸本の肩を支えると、酔いが回ったのかしんどそうに目を伏せていた。見たところ、息が荒く呼吸が苦しそうだ。もしかしたら無理して飲んでいたのかもしれない。それを見抜けなかったことに小鳥遊は少しイラついた。いつ何時も部下の様子を監視・監督するのが上司の役目だと自負していたからだ。
「おい。大丈夫か」
岸本の顔を覗き込むように声をかける。息をふっふっ、と荒らげて顔は白く青ざめている。いつものような自信に満ち溢れた彼の姿はそこになかった。小鳥遊にはまるで別人のように見えた。
「すみません、酒は得意じゃなくて……」
こほこほと咳き込み、目を伏せる岸本の睫毛は長くてアーチ型にカールしている。睫毛の陰が岸本の目元に翳り、クマができているように見えた。
急にか弱い雰囲気を醸し出す岸本に驚きつつも、「少し休憩していくか」と馴染みのカフェに連れていく。
夜遅くも開店しているそこは人のいいマスター目当てでサラリーマンから主婦、老夫婦まで幅広い年代の客で賑わっていた。酒以外にもフードの提供が好評で、特にフィッシュアンドチップスやベイクドポテト、オニオンリングなどの軽食が人気だ。だがしかし、今の状態では油物を摂取したらさらに岸本の顔色が悪くなるような気がして、ミネラルウォーターだけを注文した。
マスターが具合の悪そうな岸本を見て、1番静かそうな隅のテーブルに案内してくれた。席につくと岸本は大きなため息をついた。ちらり、と横にいる岸本を見れば目元が赤く染まっている。本当に酒に弱いらしい。マスターにおしぼりをもらって岸本に差し出した。
「ありがとうございます」
岸本は猫が毛繕いをするように、おしぼりを額にあてて、しゅんとうなだれていた。熱を冷ますようにミネラルウォーターもちびちびと飲み干す。目も虚ろで1人にさせるには小鳥遊の良心が傷んだ。心の奥がぴりぴりと痺れるような痛みだ。
「楽になるまでここに座ってろ」
いつもの岸本らしくない姿になぜか心がざわめき出す。大きなガタイがやけに頼りなく見えた。だらん、と伸びた腕には有名な海外ブランドの腕時計がのぞく。シルバーのそれは店内のオレンジ色のモダンライトに照らされてきらきらと光の粒を放っている。
「すみません……ちょっとお手洗いに」
気分が悪くなったのだろう。掠れた声で呟くと岸本は足取りおぼつかない様子で手洗いに立った。今にも倒れそうな勢いである。
2人きりだというのに、岸本はいつものように底意地の悪い顔も口調もしない。相当参っていると見える。
見かねた小鳥遊はふらつく岸本の肩に手をやってトイレまで連れていく。
すると、また仄かな甘い香りが漂ってくるのを感じた。以前岸本から薫るコロンのような甘い匂い。その瞬間、小鳥遊の心臓が一際強く跳ね上がる。ばくばくと心臓が高ぶり体が熱くなる。血液が全身を駆け巡り身体が火照っていく。
以前の恋人とそうなって以来の激しい衝動に胸を押さえた。心臓の鼓動がうるさい。トイレにこもった岸本は一向に出てくる気配はない。この香りは間違いなくオメガの発情期に放たれるフェロモンの匂いだった。小鳥遊は緊急性を察知して周りの客たちの様子を見た。
既に店内にまでフェロモンが漏れてしまっているのか、アルファと思しき客たちがざわめき出す。この場はまずいと悟り小鳥遊はトイレのドアを強く叩く。数秒後、倒れ込むようにふらりと出てきた岸本をおぶって外に飛び出した。
互いに180センチを超える身長のため、岸本の肩に腕を回して引きずるのはさほど難しくはなかった。しかし、相当鍛え上げているのかワイシャツ越しに触れた上腕二頭筋が発達している。間近で見れば胸板も厚い。そうこうしているうちに目当ての場所へたどり着いた。その頃には流石の小鳥遊も息も絶え絶えといったところだった。
ビジネスホテルに岸本を連れ込みベッドの上に下ろす。以前の恋人と別れてからというものオメガのフェロモンに当てられたことがなかった小鳥遊はひどく動揺していた。身体の熱はいっこうに冷めない。
「部長……すみません、鞄のポーチから薬の入った瓶を出してもらえませんか」
意識朦朧としたまま弱々しく呟く岸本に応じて小鳥遊は鞄を漁る。白いメッシュポーチに入っていた小瓶を岸本に手渡した。触れた指先がピリッと熱を生む。岸本を押し倒したい衝動を、ぎゅっと手のひらに爪を食い込ませて耐える。それは赤く跡になり始めている。
洗面所に向かっていく岸本の湾曲した背中を眺めていた。甘ったるい香りが室内に充満していく。小鳥遊はいてもたってもいられず部屋の中をうろうろと歩き回る。薬を飲み終えた岸本が戻ってきてゆっくりとベッドに沈み込んだ。その顔は青白い。
「あーあ。バレちゃいましたね」
だいぶ顔色がよくなった岸本が自嘲的な笑みを浮かべて言う。その声は少し震えているようだった。小鳥遊はそれを直立してる見据える。
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