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23 再びの脅迫
「小鳥遊部長。帳簿の整理終わりました」
「わかった。次は役員会議用の資料を百田のところの新人と一緒に作ってこい」
はいと軽く頭を下げて企画室に向かっていく岸本の様子を、小鳥遊はちらりと目に入れていた。かなり落ち着いている様子だ。
あの取引の一件から1ヶ月が経っていた。初めの頃の脅しが嘘のように岸本は真面目に仕事に取り組み、小鳥遊とは一線を引いている。それがある意味不気味で、小鳥遊はまた岸本が豹変するのではないかという恐怖に怯えていた。まだ奥底の見えない岸本という人物に不安を拭えないのは事実だった。
でもまぁ取引は守ると言ったし、そこまで深く考えることでもないか……。
自分に無理やり納得させてパソコンに向き合う。小鳥遊の受け持つ20人ほどの部下の業務の進捗を確認していると、横溝本部長に声をかけられた。
「小鳥遊。ちょっと」
なんだろうと思って休憩室に向かう本部長の後ろをついていく。自販機に寄ると本部長自ら冷たい缶コーヒーを買ってくれた。有難い。
「岸本のことだが……すぐに使えそうか?」
伺うような視線に、小鳥遊は自信を持ってゆっくりと頷く。
「はい。入社してまだ4ヶ月ですが、本人の熱心な勉強姿勢のおかげでだいぶうちの仕事に慣れたようです」
「そうか。あの3人の新人の中じゃ1番星ってところか。優秀な部下を持ってお前、内心大喜びしてるんじゃないか?」
小鳥遊の腕を小突いてくる軽妙な本部長に、小鳥遊はふっと軽く微笑む。岸本の表の顔だけ見ればそう感じるのだろうが、裏の顔を知っている小鳥遊は素直に喜べない。だから曖昧に笑った。
「優秀すぎて末恐ろしいです。人あたりもよく、コミュニケーションスキルもずば抜けて高いですし。百田のようなタイプの営業マンになるんでしょうね。部署の人間とも良好な関係を保てているようですし。ぜひ先陣を切って契約を取ってきてほしいです」
そう。俺とは正反対だ。あいつは人の輪にいつのまにか溶け込めるタイプで、そのまま円の中心になれる。遠くからそれを眺めている一匹狼の俺とはまるで違う。人を惹き付ける何かがあるのだ。俺には無い何かが。たぶんそれは今まで生きてきた生活環境や学生時代の頑張りなども反映されているのだろう。
小鳥遊は昔から大人数の中にいるより、少人数の中で人をまとめるのが得意だった。高校生の頃は生徒会長として学校行事に熱心に取り組んでいた。大学ではオープンキャンパス実行委員長として、受験生の親御さんや学生に学校内を案内する担当を任されていた。自分を成長させてくれた大学の授業やカリキュラム、サークル活動やバイトについての質問に幅広く答えていた。それを見た学部の教授から「小鳥遊くんは人とコミュニケーションをとるのが上手なようだから、営業なんかをすればさらに才能が開花するだろうね」と言われたことがきっかけでスバルホームズへの入社を決めたのだった。岸本を見ているとまるで若い頃の自分を見ているような気になるのだ。
「じゃあしっかり指導してやれよ。おまえの昇進にも関わってくるだろうからな」
ぽんぽんと横溝本部長に肩をたたかれ、お辞儀をする。
「はい。コーヒーありがとうございました」
休憩室を後にして長い廊下を歩く。すれ違う社員たちと挨拶を交わしながら自分の部署へ向かった。ふと、ガラス張りの企画室の前を通りかかって室内の様子を伺う。
見つけた。放っているオーラが他の2人の新人と違いすぎる。自信に満ち溢れていてそれでいて実力もある。健康的で若々しい相貌をしている。
そんな岸本を見るとオメガだとは到底信じられない。あれは何かの夢だったのではないか、という気さえする。しかし、小鳥遊には見えないような茨の道を歩いてきたに違いない。粘り強く、強かに、ただ前だけ見て歩いてきたに違いない。彼は戦士のようにも見える。彼なりに凄まじい努力をしてきたのだと思う。若い奴の上昇志向ほど使えるものはない。
小鳥遊は今後の指導方針について考えを巡らせていた。だからすぐには気づかなかった。こちらを見つめる岸本が軽く微笑んでいるのを。強い視線を感じて目を上げると、ほんの5、6メートル先に岸本が立っている。犬に例えたら尻尾をぶんぶんと振っているような喜び方。業務中だからか近づいてはこないが嬉しそうにこちらを見つめてくる。
小鳥遊はそれを軽く受け流すことができた。上司と部下の関係に必要のないものは見て見ぬ振りをすること。それが小鳥遊の鉄の掟だった。
「小鳥遊部長」
「……なんだ」
仕事を終えてフロアから出ようとすると岸本に名前を呼ばれた。今日は早く帰って長風呂でも楽しもうかと考えていた矢先だったので、不機嫌に答えてしまう。しかしそんなものを気にするような素振りは岸本にはない。生粋の人たらしたる岸本は上司の不機嫌にも上手く流せるスキルを身につけている。
「飯でも食べませんか?」
「……予定があるから行けな」
スッと岸本が小鳥遊の懐に入り込む。その1歩が大きくて、小鳥遊は上半身を仰け反らせた。女狐のように妖しく光る目がこちらを見据えていた。
「まだ話すことありますもんね?」
ちらちらとスマホを見せつけてくる岸本にこめかみが震える。そこには以前岸本を咥えたときの写真が映っている。他の社員がいなければ殴りかかっているところだ。
やはり甘かったか。こいつは取引を守るような誠実な男じゃない。一瞬でも信じた自分が馬鹿馬鹿しい。俺の判断ミスだ。
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