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終業時刻を知らせるアナウンスがフロアに響き渡り社員が帰宅し始める。その隙間をぬうようにして小鳥遊は資料室に向かう。元から人気 のないフロアなので照明も薄暗い。強ばる足を叩いて入室すると、棚に寄りかかる岸本の姿を捉えた。
「遅いですよ」
「……」
海外ブランドものと思しき腕時計を指先でとんとんとつつく岸本を横目に、小鳥遊は渋々と財布を取り出す。財布の中にはきっちり諭吉を10枚入れておいた。どうせふんだくられるのがわかっているのに、札はきちんと表を向けて並べてある。これも口止め料なら安いものだ。社内で岸本が「小鳥遊駿輔は種のないアルファだ」と言い広められるよりは。ゆっくりと財布のがま口を広げるとその手を押さえつけられた。
「今日はそっちじゃなくていいです」
そっち、という言葉に意識が傾く。岸本の表情は至極真面目な顔をしている。
「金以外に要求することがあるのか」
小鳥遊は出鼻をくじかれた苛立ちとともに岸本を睨む。2人の間でばちばちと火花が散る。数秒の後、岸本は愉快そうに両手を広げた。手を広げると、鷹のように身体が更に大きく見える。
「ハグしてください」
岸本は満面の笑みだ。笑窪すら浮かぶ始末。小鳥遊は素で驚いてしまう。
「は?」
こいつ今なんて言った? 俺にハグを求めてるのか。
ありえないものを見た、と言わんばかりに岸本をジト目で見つめる小鳥遊を他所に岸本はふふん、と嬉しげだ。その表情の真意が小鳥遊には読み取れなくて恐ろしいのだ。
「いいでしょう? 俺、今一人暮らしに慣れてなくて人肌恋しいんですよ。かわいい部下のお願い聞いてくれますよね」
かわいい部下ではないな。
小鳥遊は一応心の中で訂正をしておく。断じてこの岸本雄馬という男はかわいい部下ではない。むしろ恐ろしい部下だ。一人暮らしに慣れていなくてというのは、いかにも新入社員っぽい理由だ。金の次はハグか……しかし、過激なお願いではなかったので小鳥遊はほっとする。ハグくらいなら、まぁ欧米では挨拶の一種でもあるし我慢できるか。ただ軽く服の上から触るだけ、触るだけ。そう自分に言い聞かせ萎えた心を奮い立たせる。残念ながら、今は岸本を抑えるような弱みは握れていない。文字通り、小鳥遊は岸本の手のひらで転がされるしかないのだ。
そう考えて両手を広げる岸本の腕にじりじりと近づき、ぽんと飛び込む。体のくっつくぎりぎりのところで止まり、そっと両手を回した。軽く、ほんの少しだけ背中に触れる。
「っ」
その瞬間、息が詰まるほど強く抱きしめられた。岸本の両腕が小鳥遊の腰周りを囲う。ベルトの辺りを何度かすりすりとされ、鳥肌が立つ。こうして誰かと抱擁するのも小鳥遊には数年ぶりのことだった。岸本はまるで大きなボーダーコリーのようだ。大型犬がのしかかってきたような重さに足が震え出す。それを必死に堪えて悪夢の時間が過ぎ去るのを待つ。岸本はその間何も話さないので、小鳥遊もそれにならい無言でいた。これは完全にセクハラである。5分ほどそのままでいると、岸本はようやく手を離してくれた。気づけば、小鳥遊は背中に嫌な汗をかいていた。ワイシャツが肌着と密着する。早く帰ってシャワーを浴びて、風呂に浸かりたい。
「明日はまた別のお願いしますから、楽しみにしててくださいね」
岸本は満足そうに目を細めると、怪しい笑みを浮かべて資料室から出ていく。そのときふんわりとしたコロンのような匂いがして少し気分が高揚した。ヘアトリートメントの香りだろうか。あるいは制汗剤か。さすがに職場に香水を付けてくるような大柄な性格ではないと、なぜか小鳥遊は認知していた。夏祭りの屋台から洩れ出る甘い綿飴のような匂いのそれは、岸本の体から放たれたようで良い匂いだなとなんの気なしに思った。
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