29 / 31
29
2人きりだというのに、岸本はいつものように底意地の悪い顔も口調もしない。相当参っていると見える。
見かねた小鳥遊はふらつく岸本の肩に手をやってトイレまで連れていく。すると、また仄かな甘い香りが漂ってくるのを感じた。以前岸本から薫るコロンのような甘い匂い。その瞬間、小鳥遊の心臓が一際強く跳ね上がる。ばくばくと心臓が高ぶり体が熱くなる。血液が全身を駆け巡り身体が火照っていく。以前の恋人とそうなって以来の激しい衝動に胸を押さえた。心臓の鼓動がうるさい。トイレにこもった岸本は一向に出てくる気配はない。この香りは間違いなくオメガの発情期に放たれるフェロモンの匂いだった。小鳥遊は緊急性を察知して周りの客たちの様子を見た。
既に店内にまでフェロモンが漏れてしまっているのか、アルファと思しき客たちがざわめき出す。この場はまずいと悟り小鳥遊はトイレのドアを強く叩く。数秒後、倒れ込むようにふらりと出てきた岸本をおぶって外に飛び出した。互いに180センチを超える身長のため、岸本の肩に腕を回して引きずるのはさほど難しくはなかった。しかし、相当鍛え上げているのかワイシャツ越しに触れた上腕二頭筋が発達している。間近で見れば胸板も厚い。そうこうしているうちに目当ての場所へたどり着いた。その頃には流石の小鳥遊も息も絶え絶えといったところだった。
ビジネスホテルに岸本を連れ込みベッドの上に下ろす。以前の恋人と別れてからというものオメガのフェロモンに当てられたことがなかった小鳥遊はひどく動揺していた。身体の熱はいっこうに冷めない。
「部長……すみません、鞄のポーチから薬の入った瓶を出してもらえませんか」
意識朦朧としたまま弱々しく呟く岸本に応じて小鳥遊は鞄を漁る。白いメッシュポーチに入っていた小瓶を岸本に手渡した。触れた指先がピリッと熱を生む。岸本を押し倒したい衝動を、ぎゅっと手のひらに爪を食い込ませて耐える。それは赤く跡になり始めている。
洗面所に向かっていく岸本の湾曲した背中を眺めていた。甘ったるい香りが室内に充満していく。小鳥遊はいてもたってもいられず部屋の中をうろうろと歩き回る。薬を飲み終えた岸本が戻ってきてゆっくりとベッドに沈み込んだ。その顔は青白い。
「あーあ。バレちゃいましたね」
だいぶ顔色がよくなった岸本が自嘲的な笑みを浮かべて言う。その声は少し震えているようだった。小鳥遊はそれを直立してる見据える。
ともだちにシェアしよう!

