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29 守ってやれなかった後悔
「岸本」
裏手の壁にぐったりと背を預ける岸本は抑制剤を飲み終えた後らしくフェロモンは出ていないようだった。しかし雄くさい匂いが辺りに立ち込めている。あのアルファの匂いだとすぐに感づく。
「だから言ったでしょう。あんな取引信じられないって」
心底具合が悪そうな顔に、やけくそになった様子の岸本を見て何故か胸がつきんと痛む。うっすらと汗を浮かべる岸本に触れようとした手を寸前で引っ込めた。
俺は何をしようとしてるんだ。慰めようとでも? そんなもの岸本を傷つけるだけだとわかっているのに。
「……すまない。こういう事態は想定していなかった」
じっと射抜くような目線に小鳥遊は目を伏せた。
「部長のせいじゃないですよ。俺が下手をうっただけで……」
「痛むか」
「……っ別に」
「嘘をつくな。体が震えているだろう」
ぐっと体を抱きしめるように岸本は自分の体に両手をまわした。そして小さく息を吐き出す。
「もうこんな自分が嫌なんです。毎度同じ失敗を繰り返して、ほんとに馬鹿ですよね」
いつもの自信に満ち溢れた岸本はそこにはいなかった。弱っているとすぐにわかる。これでは会社を辞めると言い出すかもしれない。それは部長として許し難いことだった。使える部下を失いたくはない一心で岸本の肩に手を置く。するとびくっと体を震わせた。相当怖い思いをしたらしい。
「岸本……このあとうちに寄らないか」
「え?」
なぜ? という目で岸本はこちらを見てきた。自分でもなぜそんなことを言い出したのかよくわからない。けれど1人で帰すのはよくないと思ったのだ。
「そんな状態で家に帰ったらもっと塞ぎ込むだろう」
「……それもそうですね」
そう呟くと身なりを整えて近づいてきた。岸本のペースに合わせて歩幅を合わせる。空に浮かぶ満月が2人を照らしていた。その光が岸本の顔を照らす。その横顔がひどく悲しげで小鳥遊は目を見張った。目の光は普段より薄まっていて、足取りも自信がなさそうだった。こんな岸本は見たことがない。
なんて悲しい顔をしているんだろう。
とぼとぼと歩く岸本のペースに合わせていると、小鳥遊の住むマンションが見えてきた。
「大丈夫か。あと少しだ」
「……はい。なんとか。シャワー貸してもらえますか?」
「ああ」
力なく歩く岸本をなんとか部屋に導く。玄関で靴を脱ぐのもやっとという感じだった。くたびれた長靴のように力が抜けてしまっている。それもそうだ。あんなふうに突然襲われたら放心状態になってもおかしくはない。そう考えた小鳥遊はすぐさま浴室に案内してシャワーを浴びさせる。着替えとタオルを用意して洗濯カゴの中に入れておいた。たぶん、服のサイズは問題ないだろう。
普段は他人に何かをするということがないのだが、何年か前に買って愛用しているコーヒーメーカーの電源を入れる。程なくして2杯分のコーヒーを用意できた。それをカップに注ぎダイニングテーブルの上に置く。ミルクポーションと角砂糖も隣に置いた。
「シャワーありがとうございました」
ややピタッとしたサイズの小鳥遊のスウェットを着た岸本が髪を拭きながら歩いてくる。とてとてと子猫のように歩いてくる岸本を椅子に座るよう促して小鳥遊はコーヒーカップに口をつけた。ならうようにして岸本もカップを手に取る。香ばしい匂いが2人の間にたちこめる。
岸本は角砂糖を2つと、ミルクポーションを1つ入れてスプーンで混ぜる。数分無言だったが、少し落ち着いたのか岸本はゆっくりと口を開いた。唇が微かに震えているのを小鳥遊は見逃さなかった。
「こんなふうじゃきっとすぐに会社にバレてクビにされますよね」
赤い目元はシャワーを浴びている間に泣いたせいだろうか。弱々しく言葉を吐く岸本が急に心配になる。今にも辞めると言い出しそうだった。
「発情期を予測することはできないのか」
オメガの知識に浅い小鳥遊はそう聞いてみる。ふるふると首を振って岸本が答えた。諦めたような目をしていた。
「だいたい3ヶ月に1回なんですけど……抑制剤は発情期前に飲んでも効果はないので発情した直後に飲まないといけないんです」
「そうか……そうなると今の状態だと厳しいかもな」
岸本は目線をテーブルに落として震える声で言った。
「病院にお願いして1番強力な抑制剤を出してもらってるんです。飲めば5分もしないで効果が出るから……でも副作用が結構あって日中は眠くて仕方ないし、お腹の調子もあんまりよくなくて」
そうだったのか。常に健康そうだと思っていたが副作用に悩んでいたなんて。部下の体調不良に気づけなかったのも自分の責任だと小鳥遊は捉えた。
普段の岸本は明るく元気で、業務中に眠そうにしている素振りは見たことがないし、体調が悪そうな日を見たことは1度もなかった。隠すのが上手いのだ。彼の人生の歩みの過程で、隠すことが当たり前の努力だったのだろう。
徹底されたアルファの仮面を被ってきた岸本に小鳥遊は少なからず同情した。この若者の未来を思うと可哀想に思えてくる。
アルファの社会に溶け込むのは口で言うほど容易なことではない。ましてや岸本のように仕事ができると思われるとすぐに難しい仕事を振られるはずだ。そんな中、自分の体調と向き合って仕事に取り組むのは茨の道のように思える。そう。彼は茨の道を進んできた男だ。もうボロボロに傷ついている。これ以上傷ついて何になるというのだろう。小鳥遊には老婆心のようなものが芽生えていた。叶うことなら、できうる範囲でサポートしてやりたいと。
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