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30 ビジネスの番契約

「小鳥遊部長にお願いがあるんですけど……」  覚悟を決めたような目で岸本はこちらを見つめてきた。先程と違ってその目は鋭い。小鳥遊は背筋を伸ばして話を聞くことにした。今から岸本はたいせつなことを話そうとしている。  俺にできることならなんでもやってやろう。こいつは仕事だけは光るものがあるし部下の手駒に欲しい。もちろん、横溝本部長に言われたように岸本がいれば小鳥遊の評価も上がる。人事部にはいいアピールができるだろう。 「俺と番になってくれませんか?」 「っ」  その言葉に息をのんだ。きっと一生縁のないものだと思っていたから。小鳥遊は目を瞬かせる。まさかそんなお願いをされるとは思ってもみなかったのだ。種のない自分が、アルファとして欠陥品の自分が誰かから求められる。そんなふうな未来を描いたことは1度もなかった。それなのに、目の前にいる岸本は。 「部長と番になれば俺の発情期は理論上なくなって働きやすくなります。それに部長のためなら俺なんでもしますから……」  ガタっと椅子を引いてすぐ隣に立つ岸本の目は真剣そのもので、小鳥遊はなんと答えてやればいいかに迷う。岸本にとってはメリットが多いのだろう。俺は種のないアルファだから間違って行為に及んでも子どもはできない。それに職場の上司として身近にいる信頼できる大人が岸本には俺しかいないのだろう。目を潤ませてこちらを見つめてくる瞳をまともに見てしまったら、もう戻ってこれない場所に引きずり込まれそうだ。 「……俺にはどんなメリットがあるんだ」  意地の悪い質問だとは思う。だが聞いておかなければ検討することもできない。 「家事手伝いに仕事も精一杯取り組んで部長の評価を上げます。それと部長が望むなら性欲処理にでも使ってください……俺にはそれしかありませんから」  最後の言葉は尻すぼみになってはっきりとは聞こえなかった。予想していたよりも岸本の自己評価は低いらしい。それがもったいないと感じて小鳥遊は言葉を発した。また、今まで岸本の弱みを利用してきた馬鹿なアルファへの怒りもふつふつと燃え上がってきた。俺が隣にいれば、岸本にそんなことはさせないのに。 「おまえは優秀な部下だ。そこまで自分を卑下するようなことを言うな」  しばらく間ができて岸本は顔をくしゃくしゃにさせて泣き出した。男泣きというより子どものような泣き方だと小鳥遊は思う。うぉんうぉんと泣く大型犬のようだ。泣いている顔を見るに見れなくて迷いつつも、手のかかる部下だと思いながら小鳥遊はそっとその肩に手を置いた。肩はか細く震えていた。 「うっ……ぇ……う」  大泣きする岸本は膝から崩れ落ちるようにして小鳥遊の肩に顔を埋めた。肩が涙や鼻水で濡れていくのも不思議と気にならなかった。なんとなく背中をとんとんと叩いてやるとまた大声で泣き出すものだから、どうしたものかと頭を悩ませる。しばらくは涙が止まるまで泣かせてやるのがいいと思って、好きにさせた。 「すみません……」  たっぷり10分ほど泣き終えた岸本が申し訳なさそうに謝る。小鳥遊はティッシュを手渡しながら言った。目元もぐちゃぐちゃだ。長い睫毛に涙の粒が残っている。 「俺には不都合はないがおまえのほうは心配じゃないか? もし俺がお前のうなじを噛んだとして、他のオメガに浮気なんかしたらおまえは一生他のやつとは添い遂げられないんだぞ」 気遣うように話す。デメリットも伝えなければならないと思った。 「……運命の番とかそういうの信じてませんから、俺。それに今は仕事を優先して考えたいんです」  岸本の意思は固いようだった。小鳥遊は目の前で番になることを申し込んできた若者をもう一度よく見つめる。もし番になったとして、その関係はいったいなんと呼ぶのだろう。ビジネス番とでも言うのだろうか。小鳥遊が苦手な家事手伝いをしてくれるというのは非常に助かるし料理の腕も悪くない。優秀な部下を永久的に自分の手元に置けるのは大きかった。  本部長の言っていたように岸本の評価が高くなればなるほど小鳥遊に昇進の機会が増える。冷静に考えたところ、小鳥遊にもそれ相応のメリットはあるとみた。

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