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46 夏季研修

「カツカレー定食でお願いします」  今日の朝から昼はカレーと決めていた。スパイスの効いたカレーの匂いに腹がぎゅるぎゅると鳴る。食堂のおばちゃんからトレイを受け取ると食堂を見渡して空いている席を探す。  今日はどこのスペースも混み合っていてなかなか空いている場所がない。仕方ない。誰かが席を立つのを待つしかないか。配膳台の前で立ち尽くしていると「岸本」と声をかけられた。 「はい」  振り返らなくてもわかる。部長の声だった。部長の声は低くて聞き取りやすい。 「佐久間が食い終わったから席が空く。少し待ってろ」  佐久間さんは家からお手製のお弁当を持ってきているらしく、昼食の時間は1番先に食べ終えるのだという。席を空けてくれた佐久間さんにお礼を言って部長の隣に座る。  今にも触れられる距離なのにどこか遠くに感じるのはここがオフィスだからだろうか。家の中でならもっとすぐ近くにいられるのに。そんなふうに思っていると「食わないのか」と急かしてくる。急いでスプーンを持って「いただきます」と呟いた。  ちなみに部長が食べているのは蕎麦だ。蕎麦に海老の天ぷらが乗っている。味わうというよりかきこむように食べている姿を見てもっとゆっくり食べましょうよと言ってしまいそうになる。家でならそう言っていた。しかしここはオフィスで2人きりじゃない。2人で暮らしているなんてことを知られたらどんな噂を流されるかわからない。だから部長はあえて俺と距離をとっている。そのおかげで俺も近づきすぎないようになった。自分をセーブするのは難しいけれど。 「夏季研修のことだが」  唐突に部長が言葉を漏らしたのを俺は手を止めて訊き入った。 「今年も本社の所有する別荘で行うらしい。といっても金持ちの持つような別荘じゃなく、林間学校に使うような宿舎だ」  清潔さは期待するなと注意を受けながら言葉を続ける。 「すでに部屋の割り振りは決めてある。何かあったときにすぐ駆けつけられるように俺とおまえは同室にしておいた。問題はないだろう?」  配慮してくれたんだ……。きゅっと胸が締めつけられる。なんか言葉にできないくらい嬉しい。こんなにやさしい人に出会ったのは初めてだ。 「ありがとうございます。助かります」 「詳しい説明は午後の全体ミーティングで百田から話があるからよく聞いておけ」  蕎麦を食べ終えた部長が席を離れていくのを俺は名残惜しそうに見つめていた。今度家で蕎麦を1から作ってみようかな……。そんなことを考えながら残りのカレーを口にした。 「えーっと、プリント全部回ったかな?」  企画室で部署の皆で百田先輩の話を聞く。1番前の席で部長が頬杖をついて座っている。  あ、眠たいんだ。  眉を顰めて目を伏せる部長を見て俺だけが感づく。あれは昼寝がしたいという合図で家ではすぐさまベッドに寝転んでしまう。しかし今は勤務中だから必死に耐えているのだろう。そんな姿が可愛くて俺はむふふとプリントを抱えて笑ってしまいそうになる。 「軽井沢の別荘で夏季研修を行うことになっているが、掃除洗濯調理は全て俺たちがやることになってる。役割分担をこの後決めます。まずは今回の夏季研修の目的を確認します」  ぺらっと1枚目の資料をめくるとでかでかと「交流会」と書いてある。 「堅苦しいことは一切なし! 夏季研修という名の社内旅行だと思ってくれ。俺もその気でがんがん酒を飲むつもりだ。一泊二日の日程で、特に観光することもない。2日目の朝食後は各自解散とする。そのまま帰るもよし。観光していくのもよし。ただし社員同士で行動すること。他の友達とかは連れてくるなよー」  くすくすとテーブルから笑い声が漏れてくる。俺も面白そうだなと思って資料を眺めていた。社会人は夏休みがない分、こうした旅行で息抜きをするのかと学びにもなった。この機会に、より営業部の人たちとコミュニケーションをとって信頼関係を築きたい。それは仕事でも活きるはずだ。 「班決めはこっちで勝手に決めたから、自分が誰と一緒に寝るのか確認しとけー。どっちが酒の介抱するのかも決めておけよ」  次第にがやがやと盛り上がる社員たちの円の中に百田先輩が入っていく。常に円の中心にいて周りに人が集まってくるタイプ。  それと比べて小鳥遊部長は一匹狼のようだった。部長のまわりには誰も近づこうとしない。みんな一定の距離を保っている。近寄り難い空気がぷんぷん匂う。けれど俺はそんな小鳥遊部長が良いと思う。上司には2つのタイプの人が必要だと感じているから。百田先輩のような親しみのある人と、小鳥遊部長のような威厳のある人。その2人がうまくバランスをとっているから部署内がうまくまわる。それを俺は働きながら肌で感じ始めていた。  夏季研修の説明会が終わって俺は自分のデスクに戻っていった。どんな服装で行こうかなとか、どんな食事になるのかなと思いながらわくわくしていると部長がじっと俺を見つめているのに気づいた。鋭い眼光で何かを見極めるように見てくる。少し気まずくなって体を背けた。どうしたというんだろう。  俺は食事担当になった。家で自炊をしていますと答えたら、百田先輩に決まり! と肩を叩かれてしまった。でも自分の特技でみんなを喜ばすことができるなら嫌な気はしない。他にも数人の社員が食事係に決まり、献立を何にしようかと話し合いもできた。料理の話をする人が身近にいなかったからすごく嬉しかった。みんなでわいわい話しながらおおよその献立を決めることができ、夏季研修が待ち遠しかった。そのために仕事も頑張ろうと気合いを入れたところだった。

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