52 / 75
52 間抜けな狼
ミーティング中に突然の眩暈に襲われた。それを米原が面白そうに笑うのを小鳥遊は睨みながら見ていた。こいつはよく細かいことに気づく習性がある。そしてそれを指摘してくるのだ。要するにお節介な性格なのだ。
「部長最近飛ばしすぎですよ。ちゃんと寝てますかぁ?」
気の抜けるような声で米原が顔を覗きこむ。こいつは人のパーソナルスペースを理解していないのか度々ぎょっとする距離に近づいてくることがある。今も目と鼻の先に米原の形のいい鼻筋があった。ぱっと顔を背けて椅子に座り込む。変な奴に好かれるのは困る。岸本でさえ手を焼いているというのに。
最近たしかに仕事が忙しく残業が続いていた。31歳ともなれば体にガタがくるような年なのだろうか。いや違うなと小鳥遊は思う。若い頃のように勢いと若さだけで乗り切れないことが増えたのだと本当は理解していた。しかし体は勝手に動いてしまう。心の中では無理をしないようにセーブをかけているつもりでも、長年の慣れとは恐ろしいもので習慣的に無茶をしてしまう。
「家でゆっくり休むのも仕事のうちですよ」
米原に言われると何故か癪に触る。こいつの掴み所のない雰囲気のせいだろうか。おまえにだけは言われたくないという反骨精神が出てきてしまうのだ。
次のミーティングまで時間があったのでしばらく仮眠を取ることにした。基本空室になっている備品倉庫室に足を踏み入れる。すると微かな物音が聞こえてきたので耳を澄ませた。
「はっ……んぁ……やっ」
嬌声とわかった頃には大股で声のする方に走っていた。
──岸本。
頭の中にアルファに襲われる岸本の姿が浮かんだ。
「うわっ!」
小さな体躯の男に被さっていた男を薙ぎ払う。棚に背を預けていた男の服は乱れていた。やはりコトの最中だったようだ。小鳥遊は鋭い眼光で大きな体躯をしている男を睨む。
「部長……」
小柄な男が顔を青白くさせて服を整えている。その体はぷるぷると震えている。まさか、無理やり襲われたのだろうか。だとしたら不憫でならない。
「宮島。こんなところで盛っている暇があるのか」
ごくっと生唾を飲み込む音が大柄な男から聞こえてきた。岸本と同期の新人だった。最近はすっかり仕事に慣れたのかオメガの社員に盛るほどになっているとは……。呆れて叱る気にもなれない。
「おまえは早く仕事に戻れ」
名前も知らないオメガの社員にそう告げると、彼は小走りでその場から退散していった。目の前で下を向く宮島を見つめながらふと、自分が安堵していることに気づく。
襲われていたのは岸本ではなかった、という事実が体の緊張をほぐしていった。契約した以上あいつを守らなくてはならない。
「宮島。今回は上には報告しない。だが次は……わかるな」
「はい。すみませんでした。2度としません」
表だけは良い顔をする。そんな若手の社員を何人も見てきた。宮島もそのうちの1人なのだろう。心の底では俺のような男を嫌っている。こんな堅物、と思っているに違いない。大きくため息をついて宮島を部屋から出す。彼はもう一度深く頭を下げてフロアに戻っていった。
ようやく1人で休める。
そう思ったら体の力がかくんと抜けた。書類整理用のデスクに上半身を預け目を閉じる。これだけでもずいぶん眩暈が落ち着いた気がする。
今夜の晩飯はなんだろうか。
岸本がエプロン姿でキッチンに立つ姿を何度も見てきたが、本当に料理上手だと思う。今まで食べてきた献立にハズレはないし、栄養バランスもばっちりだ。おまえは栄養士か何かかと疑ってしまいそうになる。昨日は鯖の味噌煮だったから今日は肉だろうか。あいつは野菜を摂れとうるさいからな……思い出してふっと軽く笑い声が出てしまう。
よし。やるか。
美味い晩飯にありつくために今日も働いてやろう。そんな気持ちで部屋から出ていった。
「部長お疲れ様です」
向かう方面は一緒なのだが他の社員にばれないように帰るタイミングをずらしている。買い出しや晩飯の準備は岸本が全てやるので、たいてい先に家に着いているのは岸本だった。
家の中の匂いに安心しながら靴べらをつかって革靴を脱ぐ。きちっとしめたネクタイを緩めながら寝室に向かった。スーツを脱ぎ捨てスウェットに着替える。
「部長ちょっと味見してくれませんか?」
ひょっこりとキッチンから顔を出す岸本を見てそちらに向かう。味噌の匂いが充満していた。
「味噌汁の味なんですけど、薄いか濃いか確認してください」
お椀に少量入った液体を口に含む。特にこれといって違和感は覚えなかった。昆布で出汁をとっているのかまろやかな口あたりにほっと一息つく。
「このままで問題ない」
「わかりました。じゃああとは盛り付けだけですから、先に小皿を運んでくれますか?」
軽く頷いて食器棚から新婚気分で守と共に選んだ藍色の小皿を取り出す。それをダイニングテーブルの隅に重ねた。2人分の食器を見て不思議な気持ちになる。まさかこの皿を使う日が来るなんて。
「じゃあ、いただきます」
葱と豆腐と油揚げの味噌汁に、かぼちゃのマスタード和え、舞茸と豚肉炒めと、フルーツたっぷりのヨーグルトが食卓に並ぶ。まずは肉を口に運んだ。じゅわりと脂が出てきて舞茸の風味とよく合う。冷房の効いた室内で熱い味噌汁をすすっているとこめかみから汗が垂れてきた。
「どうですか、美味いですか?」
岸本はおそるおそるといった様子でこちらを伺う。小鳥遊はゆっくりと口を開いた。
「美味い。また作ってくれ」
いつものようにそう言うと岸本の表情が晴れる。その顔はご主人様に褒められた犬のようで見ていて気分がいい。岸本は褒めて伸びるタイプなのだ。もっと褒めればもっと上手いものを作ろだろう。
ともだちにシェアしよう!

