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53 たとえばこんなふとした瞬間にも癒されている

「ごちそうさま」  そう言い残して小鳥遊は洗い物に取り組む。調理は岸本が、洗い物は小鳥遊がやるのが常だった。  岸本はゆっくりと味わうように食事をしている。小鳥遊は慣れない洗い物に苦戦しながら家事を進める。このぬるっとした泡の感触が苦手だと岸本に伝えると、ビニール手袋を買って小鳥遊の両手に装着してきた。配慮をしてくれたらしい。  小鳥遊はもくもくと食器を洗っていく。食洗機を買ってもいいと思っているのだが、倹約家の岸本に止められている。全然手洗いで大丈夫ですよ、と頑なに食洗機を断るのだ。仕方なしに小鳥遊は付き合ってやる。  その後ろ姿を眺めながら、こんな日常がいつまで続くのだろうかと考える。  俺はもう31歳でこれから新しい番を見つけることは気持ち的にもなかった。しかし、岸本はどうだろう。まだ23歳の若者はずっとこのままでいいと思うのだろうか。今後俺の地位を揺るがすくらい昇進していって、俺以上に優秀で親切なアルファに出会うこともあるだろう。  そんなときに俺とのビジネスの番の契約は岸本の未来を邪魔をする鎖でしかない。岸本が番の解消を申し出てきたらすぐにそれを承諾しよう。それが俺と岸本の幸せに繋がるのなら、それで構わない。  ただ今はこの変わり者の若者との共同生活を楽しみたいと心の底で思う。守と別れて以来ここまで俺に近づく男はいなかった。こんな俺を恐れず真っ直ぐ目を見て話してくれる。それだけで張り詰めた空気が和らぐのは、岸本が持つ生まれ持っての明るさのせいだろうか。  いいや、違うな。  きっと岸本がアルファの仮面を被りここまで生き抜いてきた過程ゆえのやさしさだろう。  シャワーを浴び終えると岸本はすぐにソファに横になってテレビを見始める。それを小鳥遊はダイニングテーブルに腰掛けて社内報を読みながら見つめていた。  なんの強制力もないこの関係がひどく心地いい。数ヶ月もこうしているとこの生活に慣れてしまう。美味い晩飯と家事の全てを行ってくれる忠犬のような男に頼りきっているのは重々承知している。それでいてたまにちょっかいを出されることにも不思議と嫌な気はしない。  何事にも積極的で底なしの明るさを持つ岸本と俺とではまるで違う。性格も思考も全て。そんな太陽みたいな岸本に甘えてしまうのは、いい歳をした自分は許されないものだろうか。 「部長ー」  ソファの向こうから名前を呼ばれた気がして、ちらと顔を上げてそちらに足を運ぶ。 「……なんだ寝言か」  彼は今どんな夢を見ているのだろう。ふにゃふにゃとソファに置いてあるクッションを抱きながら切れ長の瞳を瞼の裏に隠している。口が半開きになって涎が垂れていた。それをティッシュで拭ってやる。その間もすぴすぴと寝音を立てている。  食器の洗い物しかしない俺と違って、こいつは家のことのほぼ8割をこなしてくれる。契約上そうなっているのだが嫌がる素振りは見せない。それに甘えている自分がダメ人間になっていくような気がして少し怖くなる。岸本を失ったら俺は果たして今まで通り生きていくことができるだろうか。そんな思いさえわいてくる。  こいつといると飽きない。予想を裏切ってくる言動に振り回されるのも日々の楽しみになっていた。誰かと共同生活をするなんて守を失った頃には考えもしなかった。でも今、目の前には俺に懐く大型犬がたしかにいる。その事実が胸をあたためてくれる。もう2度と味わうことのないと思っていた安らぎをこいつは俺に与えてくれる。  だから俺は俺らしくもない優しい声を出して眠っている岸本の耳元で囁いた。どうせ聞こえないとわかっているのに、あえてそうして。 「岸本。ありがとう」  するとぱっと岸本の瞳が開いた。朧げな目をして俺の顔をじっと見つめる。  まさか聞かれてしまったのか?  俺は軽くパニックになりつつも無表情を保った。無言の時間が流れる。俺は気まずさなんて感じてませんよといったふうに岸本を見つめていた。沈黙は不思議と重くない。空気のように丸くて軽いのだ。 「あ、えっと……俺寝てましたか?」  脳が覚醒したのか岸本がうわずった声でそう聞いてくる。だから俺は静かに頷いてやった。 「えっと……俺の顔に何かついてます?」 「いや、なにも」  言った後で後悔する。じゃあなんで岸本を見つめているんだ俺は。額を押さえてゆっくりと立ち上がり寝室に向かう。  あの一夜の翌日に買ったダブルベッドで岸本と寝るようになってから、意外にも疲れが取れやすくなったことを俺だけが知っている。快く眠ることができるのは久しぶりだった。男2人で眠るなんてと当初は引いていたが、岸本を大型犬か何かだと思えばそんなに気にならなくなった。なにより人肌が近くにあるのは心地いい。岸本はあたたかいのだ。その温もりに甘えている自分がいて、それをよしとしているのもわかっていた。  ソファからやってきた岸本がベッドの端に腰かける。その距離があまりにも近くて岸本以外だったらきっと避けている。  掛け布団を引き上げる布ずれの音が耳に入った。今朝の目眩のことなどなかったかのように瞳を閉じる。岸本は俺が眠ったと思った後でいつも何かしら囁いてくるのを俺は知っている。しかしそれには答えない。答えてしまったら何かが崩れていくような気がして勇気が出ない。  また今日も「お疲れ様です」だとか「おやすみなさい」と言ってくるんだろうなと思っていたから俺は油断していたのだと思う。 「好きです……」  は?  小さな声で言い逃げをして夢の世界にすやすや入ってしまった岸本を小鳥遊は片目を開いて見た。  おい、今なんて言った?   小鳥遊は混乱して眠気が吹っ飛んでいく。当の本人はぐっすりと寝入っているのが腹立たしい。  結局その夜、小鳥遊は午前1時まで眠れなかった。岸本のとなりで初めて快眠が妨げられた日のことだった。

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