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55 主人の帰りを待ってくれている忠犬・岸本

 玄関のドアを静かに開ける。時刻は午前1時。さすがに岸本も眠っている頃だろうと思って足音を立てないように冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してがぶがぶと飲み干した。空きっ腹に酒をおさめたせいか、ひどく腹が減る。  冷蔵庫の中を漁るように見渡していると、メモの載せられたタッパーがあることに気づく。スマホのライトの下で確認するとこんな文言が残されていた。 『今日の晩飯の残りです。食べてください』  中を開くと鮭のムニエルが入っていた。ハーブの香りを感じながらレンジに入れる。程なくしてチンと高い音が鳴る。冷凍されていたおにぎりを解凍し静かなダイニングテーブルでがっつく。この仕事に就いて以来、早飯をするのが癖になってしまっていた。 「う……」  空腹はおさまったが頭痛は治らない。こめかみをさすりながらソファに横になる。今日はもうここでいい。このまま寝てしまおう。そう思った瞬間、ぱっとリビングの電気がついた。あまりの眩しさに目を瞑る。うぐ、と潰されたみたいな音が自分の喉から飛び出た。 「小鳥遊部長……」  眠たげな目を擦りながら岸本がやってくる。とてとて、と子犬のようなおぼつかない足取りがいたくかわいく見えた。  なんだ。主人の帰りを待っていてくれたとでもいうのか。  そう思うと笑みが込み上げてくる。乾いた声を上げて小鳥遊はソファから身を起こす。スーツを脱ぎ捨てた。ネクタイを緩め深く深呼吸をする。 「酒臭いですよ。珍しいですね部長がこんなに飲んでくるなんて」  寝起きなのか目が薄ぼんやりとしか開いていない岸本を見て軽く微笑んでやる。すると驚いたように目を丸めた姿が純粋に可愛らしくて、気づけば岸本の前に立ち尽くしていた。 「な、なんですか」  あー。焦った顔もいいんだよなこいつ。  じりじりと壁まで追い詰めて囲うように両腕で壁をつくった。岸本は耳まで真っ赤にさせて俯く。くす、と小鳥遊は微笑を洩らした。  らしくない岸本の姿が面白くて、たまには俺からも反撃してやろうと顎を掴む。そのまま上を向かせた。驚きと期待に満ちた瞳と目が合う。その期待に応えてやろうか、わざと気づかないふりをしてやろうか一瞬だけ悩む。しかし、悠長に考える暇はなかった。微かに震える岸本の唇がてらてらと光っている。熟れた桃のような唇が旨そうで吸い付きたくなって、そのまま唇を重ねた。 「んむっ」  ただ触れるだけのキスに岸本は心底驚いたらしい。小鳥遊の肩に手をかけて引き離そうとしてくる。抵抗されると燃えるというのはこのような状態のことを言うんだろう。小鳥遊はそれをがんとして許さず唇を食む。角度を変えて何度も、岸本の鼻息が荒くなるまで唇をむさぼった。ひどく酒臭いかもしれないが今だけは許してくれ、岸本。 「ん……」  しかしすぐに諦めたのか抵抗するのをやめた。壁に背中を預けてキスに甘んじている。無抵抗の印に岸本は静かに目を閉じた。少し背の高い男にキスをするのは疲れる。軽く踵を上げてのしかかるように体重を預ける。酔っ払いのキスなんてすこぶる臭くて嫌だろうに、岸本は俺が崩れ落ちないように腰を支えてくれている。岸本は晴れときどき紳士でもある。  なんて心地いいんだ。  俺はぼうっとしながらそんなことを考えた。この心地よさが気持ちよくて次第に目が霞んでいく。このまま眠ってしまいたい。意識を手放してしまいたい。 「……部長ってほんと」  何かを言いかけた岸本だがすぐに口を閉ざしてしまった。俺の体をぎゅっと抱きしめてくれる。その温もりが優しくて、逞しくて、泣きたいくらいにあたたかくて俺は目を閉じた。  そのあとはどうなったのかよく覚えていない。翌朝目が覚めるとベッドに2人で横になっていた。岸本が運んでくれたのかもしれない。スーツからスウェットに変わっている。おそらく着替えさせてくれたのだろう。  起床して顔を洗い自分の顔を見る。微かに目元にクマが浮かんでいる。パックを付けて寝癖直しのためにドライヤーをする。それから何食わぬ顔をして朝食の席についた。岸本がキッチンでがちゃがちゃと食器を漁っている音が聞こえる。家庭的なメロディだ。  何も言ってこないな……。  小鳥遊は朝のニュースに目をやりながら目の前に運ばれてくる白米と納豆を見つめていた。朝起きた直後、岸本はいつものように「おはようございます」と言ってきた。小鳥遊もそれに応えてそれ以上の話はしていない。  酒に酔っていたとはいえあんなことをしてしまうなんてと軽く背筋が凍るような思いがしたが、キスを受けた本人はいたっていつもと変わらない様子でいる。もしかしてあれは夢だったんじゃないかとさえ疑う。しかし岸本の唇の感触は忘れられない。柔らかくて甘い匂いがした。オメガのフェロモンとは違う岸本の体から放たれる匂いだった。甘い綿あめのような、頭を緩やかにする匂いだ。 「小鳥遊部長。昨日、鮭のムニエル食べてくれたんですね」  小鳥遊がタッパーを洗っていると岸本はそんなことを聞いてくる。小鳥遊は小さく頷いた。 「ああ。助かった」 「美味かったですか?」  いつも聞いてくるのは何故なんだろう。そう思いながらも「美味かった」と呟けば岸本は嬉しそうに微笑む。横に引き伸ばされた唇に自然と目がいってしまう。ほんとうにどうかしている。今はもう岸本の唇にしか目がいかない。釘付けというのはこのようなことを言うのだろう。  休日の朝から昨夜のキスのことを引きずっている自分がひどく滑稽に見えた。ちらりと岸本の様子を伺うが、焦っていたり困っているふうには見えない。もしかしたらそこまで重要なことだとは受け止めていないのかもしれない。そう考えるとうだうだと一人で悩んでいる自分が馬鹿らしくなってきて、きっぱりと忘れてしまおうと思った。

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