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57 それぞれの運命の番
それは秋口に入りかかったある日のことだった。9月の残暑の残る空気に少しだけだが秋の風が吹く。夏の足音は次第に秋へと移ろい変わっている。
小鳥遊と岸本はいつものように食堂で昼食をとっていた。そんなときだった。本部長が慌てた足取りでやってきたのは。ぜえぜえと大きく息を切らしている。
「おおー! やっと見つけた。小鳥遊、岸本。今ちょっといいか?」
息を荒げてこちらに向き直る横溝本部長を不審がりながら2人は話を聞く。
「午後からうちの娘の授業参観があるのをすっかり忘れていたんだ。だから急で悪いが俺の代わりに会議に出てくれないか? 俺でなくても先方は構わないと言ってくれてなぁ。せっかくならうちの若手社員に会ってみたいとおっしゃられてな」
小鳥遊は形のいい眉を上げてみせた。岸本は上司の反応をうかがう。
「そういう理由ならいいですが……どんな会議なんですか」
「あー、あれだ。新しい住まいづくりについてリブハウスの社長と軽く意見交換をだな」
「リブハウスってうちのライバル会社じゃないですか。大手の住宅販売会社でしょう?」
たまらず岸本が本部長に言う。
リブハウスはスバルホームズと並ぶ日本の3大住宅販売会社のひとつだ。ちなみにもうひとつは|大手《おおて》住販と呼ばれる明治に創業した老舗の会社になる。
「そんな会議に我々が出席していいんですか」
岸本の慌てぶりを横目に小鳥遊が聞く。すると本部長は「いいからいいから」と言って何がなんでも引き受けさせようとしてくる。
「とにかく俺には時間がないんだよ。詳しいことは俺のデスクの上に資料が置いてあるからそれを見て話し合いに参加してくれ。なに、堅苦しい会議と違って意見交換だ。緊張する必要はない。じゃあ、あとは頼むぞ」
課長は竜巻のように颯爽と食堂から出て行ってしまう。取り残された2人は同時にため息をついた。本部長の無茶振り具合は年々ひどくなっているような気がする。
しかし仕事は仕事なので昼食を済ませた2人は本部長のデスクに向かった。よほど急いでいたのだろう。資料が乱雑に散らばっている。岸本はそれを整理しながら上司の顔を仰ぎ見る。すでに仕事モードに入った小鳥遊の顔をまじまじと見つめた。真剣な瞳で資料を読み込んでいる横顔は凛々しく美しい。
やっぱりかっこいいんだよなぁ。
意見交換は午後2時からの予定だったので、タクシーを呼びつけ直接オフィスに向かうことにした。30分ほどして到着した。
ひとつのビルの上から下までリブハウスのフロアになっているらしい。規模でいえばスバルホームズより大きい。コマーシャルの数も多くユニークなそれは業界でも評判がいい。
なんでも長年社長の席をがんとして譲らなかった元社長に代わって息子の若社長が就任してからというもの、新しい試みを取り入れているらしく社内は目まぐるしく変わっているのだという。
他社から「リブハウスの大改革」とも呼ばれているほどだ。それほどに敏腕社長なのだろうと小鳥遊は予想する。
「岸本おまえは俺の後ろでただ見てればいい。余計な口は挟むなよ」
凛とした顔で小鳥遊が言うのを岸本はゆっくりと頷いて聞いた。手汗がじわりと滲む。こんな大事なときに発情期が来てしまったらどうなってしまうのだろうという不安からだった。スーツのポケットには抑制剤の入った小瓶を詰めてある。この薬の出番がなければいいが。岸本の背中には冷たい汗がびっしりと濡れていた。
「行くぞ」
タクシーを降りて堂々とそびえ立つ9階建てのビルの真下に立つ。上空ではびゅうびゅうと風が吹いている。小鳥遊のあとに続いて岸本もエントランスに足を踏み入れた。
まず2人を出迎えたのはアメリカで人気を博しているある画家の絵だった。壁一面に同じ画家の絵が何枚もかけられている。現代アートには特に詳しくない小鳥遊でも見たことのある絵だった。まるで画廊のようだと思いながら受付の男性社員に声をかける。
女性じゃないのは珍しいなと思っていると、ややうわずった声を出して男が応じる。
「スバルホームズの方ですね。お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
男が立つと小鳥遊の頭ひとつ背が低いのがわかった。まだ案内に慣れていないのかひとつひとつの動作がぎこちない。エレベーターに通され無言で乗り込む。
ここの受付はオメガの社員のようだ。天然パーマがくりくりとしていて、まるで小動物のようだ。声も小さく鈴の音のようだ。緊張した面持ちで階数を表示する電光板を見つめている。
「こちらのお部屋です。ただいま社長をお呼びしますので少々お待ちください」
通された部屋はパーテーションで区切られた部屋のようだった。白いデスクと薄緑色のチェアが置いてある。やけに狭い部屋だなと思いながら窓の方を見た。最上階ともなればかなり地上とは距離がある。
ちらりと横を見れば、岸本は硬い表情で俯いている。かなり緊張していると見えた。やはり大きな会社の社長と挨拶をするのは初めてのことで不安もあるのだろう。小鳥遊はその不安を自分が解消しなければと胸に刻んでいた。
そのときガチャとドアノブが回る音がして小鳥遊と岸本は音のした方向を見やる。その瞬間、2人の体内にぶわっと火の粉が上がるような熱を感じた。暖炉の中の火が爆ぜたような衝撃が2人を襲う。
「綿貫、ドアを閉めろ」
艶のいい黒髪をオールバックにした体躯のいい男が後ろをついてきた小柄な男に命じる。小柄な男は胸を押さえながらなんとかドアを閉めた。4人の間に緊張が走る。
おもむろに岸本が声を上げた。
「うっ……あ」
「岸本っ」
熱に浮かされたような瞳。汗ばんだ額。この表情は何度も見てきた。発情期だ。
小鳥遊は自身の激しい心音を聞きながら岸本のポケットから抑制剤の入った小瓶を取り出す。手が震えてうまく持てない。そんな自分に苛立ちがつのる。そしてようやく苦戦して掴んだそれを摘んで岸本の口に入れた。持っていたペットボトルの水を口に流し込む。
その間も小鳥遊の胸の鼓動は止まらない。ばくんばくんと今にも弾けそうなくらい鳴り響いている。その熱は下半身にも急速に集まりそうで、意識を追いやった。他社のオフィスで発情など社会人のマナーとして許されるものではない。
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