59 / 75

59 偶然と必然

「岸本さん、でしたっけ?」  話し合いを終えて綿貫がまだぼーっとしている岸本に声をかける。はっとして岸本は振り返った。目をぱしぱしと瞬かせている。 「はい」 「さっきの抑制剤ありがとうございました。おかげで落ち着きました」 ぺこりと丁寧にお辞儀をする綿貫を岸本は曖昧な様子で頷く。 「あ、えっと……」  自分がオメガだということを表すようなことをしてしまったのかと思うと頭が痛む。しかし緊急時だったため今更後悔しても遅い。 「大丈夫です。僕は口が堅い方ですから誰にも言いません」  大きな目元を緩ませながら綿貫が言うのを小鳥遊はなんとなく聞いていた。守と雰囲気が似ている。つい守ってしまいたくなるようなそんな可憐さがある。儚くて、いつ消えてしまうかわからない。 「それでは仕事の話は終わりましたし、我々の話をしましょうか」  姿勢を正して天海が言うのを小鳥遊は黙って聞いていた。これが岸本との契約の終わりなのだろうと思って軽く目を閉じた。意外にも早かったな、とそんなことを思いながら耳だけはしっかりと音を拾う。今1番聞きたくない言葉たちだった。 「入室した際に岸本さんは発情しましたね。そして私は本来ならあなたを襲っているところでした。しかし性的興奮は覚えなかった。つまり私の体には性の鎮静化が起きていたんです。それが何を意味するのかわかりますか?」  岸本が唾を飲み込む音が聞こえてきそうだった。岸本の目が見開かれている。  知らないわけがないだろう。岸本。認めろ。認めてはやく楽になれ。俺なんかと偽りの番になんかならなくていい。ビジネスの番はもう終わりにしよう。 「運命の番──あなたと俺が?」  天海は軽く笑った。少し照れ臭そうに頭をかいて。 「そうらしい。でもそれは私たちだけじゃなかったようだ。あなた方2人も運命の番なのでしょう」  小鳥遊と綿貫の視線が交わる。しかしそれは一瞬のことで小鳥遊は目を逸らした。 「小鳥遊さん、そうなんですか?」  期待と喜びに満ちた目で綿貫が小鳥遊を見つめる。たしかに胸の鼓動は速くなったが性的興奮は覚えなかった。もともとオメガには耐性があるといっても岸本のように我慢がきかない相手もいる。しかし小鳥遊は綿貫に対してはそれほど好意を持てなかった。それは守と雰囲気が似ていたからかもしれない。  しかし綿貫はどうだろう。もしかしたら天海の勘違いという可能性もある。それに俺はまだ綿貫にそういった特別な感情を抱かない。 「どうでしょうね。俺は何も感じませんでしたが」  この期に及んでなにを言っているんだろう、俺は。岸本と離れたくないとでも? そんな馬鹿な。自己中心的な人間なのだろうか、自分は。 「そうですか……運命の番は僕の憧れですからその可能性が1パーセントでもあるなら嬉しかったんですが」  綿貫が前髪に手をやりながら苦笑している。微かに泣きそうに歪む顔が、声が、守を想起させる。    ああ、守と同じ笑い方をしている。  小鳥遊はじっとお互いを見つめ合う天海と岸本の様子を見た。お互い何かしら感じているのか無言でも柔らかい空気がそこにはある。そこに入り込む余地はなかった。2人は、もう2人しか見えない世界へと入っていった。  意外にもあっけなく終わるんだな。  小鳥遊の頭に浮かんだのはその一言だけだった。契約なんて面倒くさいものから離れられるならいいに越したことはないのだが。これからは1人でベッドに横になれるし、好きなものを好きなときに食えるようになる。好き嫌いを我慢する必要もない。栄養を気にする必要はないし、念願の食洗機だって買える。俺のやりたいようにやれる。  しかし、なぜだろう。指先から砂粒が溢れていくような虚しさを感じる。守を手放したときと同じような気分になり、小鳥遊は静かに目を伏せた。失うときの悲しみほど呆気ないものはないと小鳥遊は感じる。  よかったじゃないか。岸本にとっても俺にとっても。  天海と岸本は無言で互いを見つめ合っている。そこには言葉など必要がないらしい。目と目でお互いの気持ちがわかるような、そんな空気が流れている。小鳥遊と岸本とではたどり着けなかった境地に2人はいるのだ。邪魔をすることはできなかった。  小鳥遊もとびきり熱い眼差しを感じた。綿貫からの視線。憂うような、気を引きたいんだろうなとわかる女のような目をしている。簡単に目と目を合わせられるはずなのに、小鳥遊はそうはしなかった。綿貫からの好意を受け取りたくなかったのだ。  社内に戻ってからも岸本は心ここにあらずといったふうにぼんやりとしている。  無理もない。突然あなたが運命の番ですと言われたら驚くほかないだろう。  しかし小鳥遊は違った。運命の番なんてものを心の底から軽蔑している。前に岸本は運命の番なんて信じていないと言っていたが、まだじゅうぶんに若い。価値観などすぐに変わるだろう。現に岸本は頭の中がそれ一色のはずだ。  天海という絶対的な信頼のおけるアルファと出会い、未来は輝いている。小鳥遊はもう手離す覚悟はできていた。2人の通じあった様子を見て、もうかなわないと感じたのだ。ビジネスの番が運命の番に勝るはずはないのだと。  仕事を終えて帰路につく途中、小鳥遊は頭の中が凍えるように冷たくなっていた。岸本の顔が頭に浮かぶ。犬のように笑う顔も、オメガらしい悲痛そうな顔も、ときどき見せる悪戯っ子のような笑みも全部が頭の中でたゆたう。全部が全部、たいせつな思い出になった。過去になった。現在は終わるだろう。未来は消えた。白露のように。  いつからだろう。俺が岸本に目を奪われたのは。  別れ際になって初めて動揺している。ビジネスの番だというのに、いつしか岸本のことばかり考えるようになっていた。  初めはいい部下を持ったと思った。一癖あるが俺に逆らうことはしない従順な僕《しもべ》のようだとも思った。逆らわないということは手なづけやすいということだった。岸本をどんどん鍛え上げれば、横溝本部長に良い評価を認めてもらえるし、百田との競走でも優位に立てたはずだ。  今思えばなんて歪な関係だったのだろうと振り返ることができる。上司と部下が同じ屋根の下で生活を共にする。それが現実になった。それが当たり前の日常になった。その居心地がよくて慣れてしまっていた。慣れることほど、悲しいことはないとわかっていたのに。岸本の声に、言葉に、表情に安心していた自分がいた。  今だって家の鍵を開ければすぐに声がかかってくるはずだ。キッチンからは美味そうな料理の匂いが漂ってきて、すぐに飯を食うことができる。「おかえりなさい」という柔らかい声は小鳥遊を包み込む。小鳥遊ひとりでは考えられなかった生活だ。それがいつしか終わりを迎える。わかっていたことなのに、理解することができないでいた。

ともだちにシェアしよう!