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60 ビジネスの番を解消するときのお前の顔が忘れられない
「部長、おかえりなさい」
部屋の奥から出てきた岸本を見つめる。ぱたぱたとスリッパの足音を立ててこちらに向かってくる。
はやく言ってしまえ。言えば俺は楽になれる。このもどかしい気持ちから逃れられる。自分の本当の気持ちから逃げられる。今逃げなければ、これ以上はもう勝手にひとりで傷つきたくない。小鳥遊はゆっくりと口を開いて軽く息を吸う。
「岸本」
「なんですか、部長?」
心配そうな顔をして俺を見る岸本が不憫になった。俺はこれからお前を傷つける言葉を放つのに。わかっているのに、胸がツキンと痛んだ。
「もう終わりだ。岸本」
「え?」
岸本は持っていた布巾を床にはらり、と落とした。一歩、一歩踏みしめるように俺に近づいてくる。その表情は怒っているようにも、泣き出しそうにも見えた。目元が潤んでいる。
「終わりって何がですか。勝手なこと言わないでください」
はぁ、とわざと大きなため息をつく。嫌われるのなら一瞬で嫌われたかった。岸本を侮辱する言葉は一言だけにしたかった。
「俺とおまえとの番の契約を終わらせる」
岸本の瞳は一瞬色を失ったように見えた。そして、わなわなと肩を揺らし始めると叫ぶように言った。拳を作った手がふるふると震えている。顔はくしゃくしゃだった。泣いてる赤子のようだった。
「俺、何かしましたか? 部長に嫌われるようなこと、しましたか?」
俺が帰ってくるまでテレビを見ていたのだろう。ニュース番組の音が部屋に響く。それが今はひどく虚しく感じられた。それは無機質なBGMとなって鼓膜に響く。
「お前とのセックスには飽きたってことだ」
「っ!?」
あえて突き放すように淡々と言う。岸本は大きな衝撃を伴って、静かに項垂れた。そして、へらへらと笑い始めた。
「そんな冗談、部長らしくないですよ。わかりました。今日はツンデレの日なんですね。俺、頑張りますから。部長のこと気持ちよくさせますからっ」
岸本は、あははと空笑いをして俺を見つめる。その空虚さが、振る舞いが、無理をしている様子で見ていて辛かった。
「そういうのに腹が立つと言っているんだ」
我ながら雷を落としたようだと思った。その一撃は岸本にとって大きかったのか、ぴたりと笑い声を引っ込めた。岸本の表情は抜け落ちている。
「部長は俺のことなんだと思ってるんですか? からかって楽しんでるんですか?」
切羽詰まった顔で俺に歩み寄る岸本を視線から外す。岸本がゆっくりと伸ばしてきた手を俺は勢いよく払った。
岸本は目を見開いて動かなくなる。
「前からお前のことが邪魔だと思っていた」
口に出すたびに、胸が締め付けられる。まだ足りない。もっと強い言葉を。そう思っても言葉が出てこない。
「お互い運命の番に出会えたんだ。そっちを試す方がメリットは大きいだろう」
岸本は俯いていた顔を上げた。初めて見る本気で怒った顔をしている。
「たかがビジネスの番じゃ物足りないってことですか?」
「ああ」
俺の乾いた答えに岸本は何も言わなかった。ただ、目を吊り上げて俺を睨む。
「……っ」
何か言いたいのに何も言えないのだろう。唇がわなわなと震えている。俺は今すぐにでもその唇を奪いたかった。でも、それはできない。まだ23歳の岸本には未知なる世界が広がっている。天海が本当に運命の番ならば、俺といるよりずっと良い人生を歩めるはずだ。
ビジネスの番なんてものよりずっと豊かなものを岸本は得る直前にいる。その邪魔だけはしたくなかった。
「出て行け」
岸本の顔を見るのが辛くて床を見下ろしていると、ぽたぽたとフローリングに雫がこぼれるのが見えた。岸本は声を押し殺して泣いていた。俺が泣かせた。その事実が痛いほど胸に突き刺さる。
そこからはよく覚えていない。岸本は何も言わずに、自分の荷物をキャリーケースに詰め出した。入りきらないものは俺の家に置いていくようだった。ドアが勢いよく閉まった後で、俺はようやく椅子に座れた。
テーブルの上には岸本が作った夕食と、岸本の香りだけが残っていた。冷めたドリアにスプーンを入れる。口に入れてから、はは、と小鳥遊も空笑いをした。ニュース番組は鳴り続けている。
「しょっぱ」
冷めているドリアを食べきり皿洗いをする。ビニールの手袋に指を入れているときに、はらはらとシンクに水滴が落ちた。瞳が熱くなり、頭が熱を持つ。ぼんやりとする。音も色も匂いもぼんやりと霞んで何も感じなくなった。それは全て岸本が与えてくれていたものだった。
1人の部屋はこんなに広かっただろうか。こんなに物静かだっただろうか。こんなに無色だっただろうか。小鳥遊は台所の床に座り込み、咽び泣いた。たいせつな存在をまた失った。それは守を失ったときの何倍も痛くて、辛くて、脆かった。
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