64 / 75

64 離れた距離

「まーたしけた面してんなぁ。小鳥遊」  小鳥遊のデスクに身を乗り出してきた百田が言った。またお猪口を傾ける仕草をしてくる。小鳥遊はそれを無視すると企画書の作成に打ち込んだ。最近気に入っているブルーライトカットの眼鏡のブリッジを静かに押し上げる。  今日は岸本が有給休暇をとったため不在だ。それに安堵したのは他ならぬ小鳥遊だった。岸本を目にするだけで、小鳥遊には天海の姿が目に浮かぶ。今頃、2人で出かけているのだろう。泊まりの可能性もある。  綿貫からは相変わらず食事の催促のメールが後をたたない。小鳥遊は仕事が多忙で、体調が悪くてなどバラエティ豊かな行かない理由を伝えた。綿貫は諦めが悪いのか何度もメールを送ってくる。それが憂鬱で週末は気が気ではなかった。 「仕事とプライベートは分けるのが鉄則だろ」  しつこく言ってくる百田に構っている暇はない。小鳥遊はトイレに行くため席を立った。百田はようやく諦めたのか自分の席に戻っていく。今晩の酒の相手がいなくてつまらなそうだ。  家にいても、仕事をしていても小鳥遊の脳裏には岸本の姿が浮かび上がる。もう終わったことだと言い聞かせても、残像は消えてくれない。  手放したからこそわかる。岸本に頼っていた自分自身の情けなさを。いいように使い倒した。自分の躾が行き届いた部下で、家事全般をしてくれる忠犬のような奴。それが岸本だった。  翌日の朝礼で岸本が土産の温泉饅頭を部署の皆に配っているのを見て、小鳥遊は舌打ちしそうになった。  なぜこんなにも苛つくのか。理由は明白だ。よかれと思って別れを切り出した自分の方が、岸本に依存していた。それが答えだった。  自分で淹れたコーヒーに口をつける。生ぬるい液体が喉に染み渡る。  岸本と番を解消して2ヶ月半が経つ。平日は仕事で忙しくしていられるが、休日はそうではない。自分のスペースに空いた穴を埋めるので必死だった。以前よりもパーソナルジムに通う回数が増えて筋肉もついた。だが、満たされない。  夕食は作るのすら煩わしく、デリバリーを頼むのが常になってしまった。身体に良くないとわかっていても、つい油物を口にしてしまう。それでもまだ満たされない。それほどまでに岸本の存在は大きかった。  最終手段として、自分の運命の番の可能性があるとされる綿貫と食事に行った。しかし、会話は弾まず綿貫に性的に惹かれることもない。奢った飯代だけでも腹が立ってくる。  はたして自分はこんなにも感情的な人間だっただろうか。  岸本と過ごすうちに、ひた隠しにしてきた感情が顔を見せたのだ。岸本の前だけは、部長の肩書も、種無しのアルファというレッテルもいらなかった。ただ、小鳥遊という男だけを見せることができていた。  2つ隣のデスクに岸本が座っている。手を伸ばせばすぐに届きそうな距離なのに、ほんの数メートルが遠く感じられた。

ともだちにシェアしよう!