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66 1匹の狼と1匹の大型犬

 小鳥遊は目覚めの悪い朝を迎えていた。夢に岸本が出てきたのだった。「起きてください。部長」そう言って、俺の体の上に乗り出す。ぺろぺろと顔を舐めてくる大型犬のように、岸本が甘えてくる。夢の中では、俺はそれに応えていた。だからより気分がおかしくなりそうだった。  出社してからも岸本の甘え姿がチラつき、仕事に集中できない。普段はしないミスを連発し、百田にだけではなく米原にもからかわれる始末。部長としての威厳がなくなってしまう。岸本はそんな俺を少し不思議そうに眺めているだけだった。  最寄り駅までの帰り道。ひどく疲れてしまい今日は早くベッドに突っ伏したい気分だった。しかし途中で、あの匂いが身体を襲った。オメガの発情期に発するフェロモンの匂い。そしてこれは特別な匂いで、何度か嗅いだことのあるものだった。  嗅覚を頼りに沿線の電柱の下で倒れている男を見つける。電灯の下でびくびくと震えている姿には見覚えがあった。 「岸本っ」  不意に顔を上げた岸本と目があった。ひどく怯えた顔をしている。俺は体の昂りを無視して、いつも岸本が抑制剤を入れているポーチをバックから抜き取った。俺の口付けだが仕方ないかと思い、持っていたミネラルウォーターのキャップを外す。岸本は錠剤を静かに飲み込んだ。息は上がり、目元が潤んでいる。暴走してしまう一歩手前のようだった。  俺は一安心して胸を撫で下ろした。これで誰かに襲われる心配もなくなる。 「部長……」  やや落ち着きを取り戻したのか、岸本に名前を呼ばれて我に帰る。白い息が洩れた。  俺は何をしているんだ。自ら遠ざけた相手を甲斐甲斐しく助けるなんておかしいだろう。これじゃあ岸本から離れた意味がなくなってしまうじゃないか。  小鳥遊は岸本と少し距離を取る。ゆっくりと岸本が立ち上がった。目には力が戻り、いつもの様子に戻っていた。 「少し、歩きませんか」  岸本の提案に声が出せずついていくことにした。岸本がそんなことを言うなんて信じられない気持ちで後ろ姿を見る。ここからでは表情が見えない。  冬の冷たい空気が辺りに満ちている。小鳥遊と岸本の吐く息が白く染まった。  お互い何も話さない無言の時間が流れる。それを心地良いと思うのが、小鳥遊には不思議に思えてならなかった。この空気が嫌いではない。むしろ落ち着くような。満たされるような。  そこまで考えて、小鳥遊は頭を振った。  こいつには天海がいる。俺たちは終わったんだ。  自分に言い聞かせていると、何故かまた胸が苦しくなった。 「小鳥遊部長」  唐突に、岸本が喋った。 「最近様子がおかしいですよね。顔もやつれて見えます。ちゃんとご飯食べてますか?」 「……あまり良い食事を取っているとは言えないな」  街頭に照らされた2人の影が近くなる。岸本が歩みを遅くしたのだ。 「仕事中も、心ここにあらずですよね」 「お前には関係ないだろう」  いや、大いに関係ある。原因はお前だ。  しかし小鳥遊はそれを少しも見せずに強がる。 「お前のほうはどうなんだ。天海とは上手くいっているのか」 下手な逃げの質問だと重々承知していながらの問だった。 「昨日、別れました」  何? 耳を疑うような台詞に足が止まる。 「なぜだ岸本……天海は運命の番じゃなかったのか?」 「あの人は間違いなく俺の運命の番でしたよ」  と、岸本は淡々と話す。もう既に整理がついていることらしい。しかし、納得がいかないのは小鳥遊の方だった。 「天海とならきっとお前の理想の人生が歩めたはずだ」 「もう、いいんです」  それよりも、と岸本は口を開く。 「小鳥遊部長は綿貫さんと上手くいったんですか?」 「いや……興味がわかなかった」  口籠もりながら答えると、岸本が少し笑うのが雰囲気でわかった。 「お互いダメでしたね」 「……ああ」  もともと、運命の番というものを信じていなかった俺には、痛くも痒くもない話だった。  前で動いていた影が止まる。小鳥遊もならうように足を止めた。沈黙が数秒。雪が降り始めた。街を染める白い雪が、小鳥遊と岸本の肩にとまる。視界が白い雪と岸本の顔でいっぱいになる。 「俺、小鳥遊部長のこと最初は嫌いだったんです」  突然の告白を始めた岸本の背中を見つめる。相変わらず姿勢が綺麗だ。背筋をぴんと張って堂々としている。逞しい容姿はアルファにしか見えない。これも岸本がオメガであることを隠すために身につけた技術と努力のかたまりかもしれない。努力家な岸本は努力している姿を決して他人に見せたりしない。 「怖くて、気難しい人で、優しくなくて。俺だけ新人研修の内容も違いましたし、最初は戸惑いました」  小鳥遊はじっと岸本の言葉に耳を傾けた。そう思っていたのか。全く気づかなかった。彼は堂々とアルファらしく振舞っているように見えたから。 「それから色々あって同居して……この前家を追い出されて……なんかもう全部夢みたいなんです。俺みたいなやつが他人と同居するとか、ありえないことなんです。小鳥遊部長とが初めてなんです。初めていっしょに人と暮らしました。それがもう、なんていうかほんとに幸せであったかくて、たいせつなんです」

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