2 / 25
2 花嫁と執事
貴族の執事という人はどこまでの世話をするのだろうか。シュエシがそう思ったのは、自分の髪の手入れを執事がしているからだ。これではまるで自分が貴族になったかのような錯覚をしてしまう。
「美しい黒髪でございますね」
「あ、ありがとう、ございます」
自分はこんなことをされる身分ではない。それなのに屋敷に到着した日から毎日髪の手入れが続いていた。
「旦那様から新しくこちらの香油を使うようにと申しつかっておりますが、香りは大丈夫でございますか?」
「あの、ええと……はい、大丈夫です」
差し出された容器からは甘い薔薇の香りがする。その香りに、シュエシは土地の娘たちが「薔薇の香油がほしい」と話していたことを思い出した。
この土地は土の種類が合わないのか薔薇は育たず、娘たちが欲しがる薔薇の香油は非常に高価で憧れの品なのだという。そんな高価なものを男の自分が使うことが申し訳なくて仕方がない。だからといって、ここで断れば不審がられて男だと露呈してしまうかもしれない。
(領主様は僕が男だと気づいていないに違いない)
一度も会っていないのだから、きっと東の国の娘だと思っているのだろう。だから高価なものを使うように執事に言ったのだ。でも、自分はただの男だ。男だとわかったとき、高価なものを使わせたと怒らないだろうか。そう考えても「男なので必要ありません」と言うわけにはいかない。シュエシは大人しくされるがままでいるしかなかった。
鏡の前に座ったシュエシは、後ろに立つ執事を鏡越しにチラチラと盗み見た。執事の美しい手が紺碧の瓶をゆっくり傾けると、ほんのり薄紅色をした香油がとろりと手のひらに垂れる。明かりに照らされているからか黄金色にも見える液体を手で延ばし、その手がシュエシの髪へと伸びた。
はじめは香油を延ばすように髪に触れ、そのまま指で梳くように動く。それを何度もくり返すうちに、鏡に映る黒髪が艶やかに光り始める。
「東の国の人は黒髪黒目だと伺っておりましたが、奥様は少し違っておいでなのですね」
執事に見惚れていたシュエシは、はじめ話しかけられていることに気がつかなかった。「奥様?」と呼びかけられハッとする。慌てて鏡から視線を外し「ど、どこか違いますか?」と小さな声で尋ねた。
「一見すると黒髪でいらっしゃいますが……あぁ、やはり色が少し違っていらっしゃいます」
一房手にした執事が観察するようにじっと見ている。しかも美しい顔を髪に近づけてだ。いつもよりずっと近くに感じる執事の気配にシュエシは頬を赤く染めた。膝に置いた手に力が入り、緊張からか体が強張ってしまう。
「よ、よく、わかりません。ただ、母様 、あの、母も似たような髪でしたので」
「では、お血筋でございましょうか。黒色のところどころに紅色にも見える艶が混じっていらっしゃって、とても美しゅうございます。これは……そう、西の国で見かける血石 のようでとても美しい」
「ほぅ」と感嘆の声を漏らす執事にシュエシの顔がますます赤くなった。そっと鏡の中の執事を見る。うっとりと目を細めた表情にドクンと鼓動が跳ねた。
(なんて美しいんだろう)
細めた目はキラキラと輝き、ため息を漏らす唇はどんな美女も適わないほど艶めいている。見れば見るほど胸が高鳴り鼓動が早くなった。
慌てて視線を外したシュエシは、寝衣の太ももあたりの布をギュッと握り締めた。鼓動が執事に聞こえてしまうのではないかと心配し、そのくらい近くに美しい顔があることに再び心臓が忙しなくなる。
「これは大変失礼いたしました。お母上様もさぞやお美しい髪をお持ちだったのでございましょうね」
そう口にした執事の顔が遠のいた。代わりに半月のような形をした黒く艶やかな櫛で全体を梳き、最後に鏡の前の箱に櫛を仕舞ってから「終わりでございます」と頭を下げる。
「あ、ありがとうございます」
「敬語は不要でございますよ」
「わかっては、いるん、ですけど」
俯くシュエシの肩に執事の手が伸びる。ドキッとしたまま固まるシュエシをよそに、手入れ用にかけられたケープを取ると再び執事が頭を下げた。
「明日も同じ時刻に起こしにまいります」
ケープを手にした執事は、「おやすみなさいませ、奥様」と告げると部屋を出て行った。
執事の姿が見えなくなってからもシュエシの胸は騒がしいままだった。体も妙に火照っている。しばらくぼんやりと扉を見つめ、「ふぅ」とため息をついてからベッドに入った。ところが美しい執事の顔がちらついてなかなか眠ることができない。
(あの人はこんな僕にも優しくしてくれる)
それに母親のことを褒めてもくれた。美しい黒髪は母親の自慢だった。シュエシも母親の豊かな黒い髪が大好きだった。懐かしい母親の黒髪を思い出すのと同時に、濡れるとほんのり紅色に光っていたことを思い出す。
(自分の髪を見ることがなかったから気づかなかったけど、僕も母様と同じ髪をしていたんだ)
土地の者たちに髪について指摘されたことはない。そもそも両親を失って以来、誰かに気にかけてもらうことがなかった。そんな自分を気にかけてくれる執事の言葉がうれしくてたまらない。まるで両親が生きていた頃のような、それよりも胸躍るような気持ちになる。
(僕にも優しくしてくれる人がいる)
シュエシの口元に笑みが浮かんだ。
この日を境に、シュエシはますます執事を意識するようになった。朝起きたときから夜寝るときまで執事を目で追いかけてしまう。かといって直接見るのは恥ずかしく、物陰から伺うか鏡越しに見るかといった具合だ。言葉を交わすときも緊張してうまく言葉が出てこない。それが自分でも気になって、ますますオドオドした返事になってしまう。
「お茶の用意ができてございます」
「あ、ありがとうございます」
「敬語は……あぁいえ、なんでもございません」
最後まで言わない執事にシュエシが不安な表情を浮かべる。もしや注意を聞かない自分に呆れたのだろうか。それともいよいよ見限ったのだろうか。頬を赤くしながら俯いていたシュエシの顔がサッと青くなる。
「口うるさい執事だと、どうぞお怒りにならないでくださいませ」
「え……?」
思ってもみなかった言葉に顔を上げた。
「貴族の奥様らしくと、つい諫言 めいたことを申し上げてしまいました。これも奥様のためにと……いえ、これではよくありませんね。すでに言葉遣い一つにもうるさい執事だと疎ましくお思いかもしれませんが……」
聞いたことがない沈んだ声に、シュエシは慌てて「そ、そんなことありません!」と声を上げた。
「とてもよくしていただいているのに、疎ましいだなんて……その、こんな自分にいろいろしてくださって、か、感謝しています。それなのに注意を聞かないのはぼ、じ、自分のほうです。悪いのは、自分です」
言いながら、段々と声が小さくなっていく。シュエシは再び俯きながら膝の上で両手をグッと握り締めた。お茶のよい香りはいつもと同じなのに、部屋の空気はずっと重苦しい。こんなことでは執事が世話係をやめてしまうかもしれない。そう考えるだけでシュエシの胸がズキンと痛む。
「奥様にそう言っていただけること、執事として光栄でございます」
先ほどとは違い、いつもどおりの声が聞こえて来た。チラッと視線を上げると、そこには毎日見惚れている美しい笑顔を浮かべた執事の顔がある。
「感謝申し上げるべきはわたしのほうでございます。このように奥ゆかしくしとやかな奥様の世話ができること、屋敷に仕える者として光栄に存じます」
神々しささえ感じる微笑みにシュエシは再び顔を赤くした。「こ、こちらこそ」とつぶやいてから顔を伏せる。
(なんて優しい人なんだろう。美しくて優しくて……とても素敵な人だと思う)
シュエシの心にポッと明かりが灯った。それが少しずつ大きくなり胸の奥に熱が生まれる。執事のことを考えるだけで肌が熱くなる。同時に自分が執事にどう見られているかが気になって仕方がなくなった。
(みっともない姿は見られたくない。いまさらかもしれないけど、でも……)
朝起こされるとき、みっともない寝顔をしていないだろうか。そう思ったシュエシは掛布を頭まで被って寝るようになった。食事のとき、食べている姿を見られているのだと思うと料理の味がわからなくなる。わざわざ東の国で使う箸を用意してもらったというのに、それさえ満足に操ることができず食事の時間ばかりが長くなった。何をしても執事の視線が気になり、よけいにモタモタしてしまう。
そんなシュエシがもっとも緊張したのは湯浴み後の髪の手入れだった。姿を見れば緊張し、髪の毛に触れられれば息が止まる。見なければいいのについ鏡越しに美しい顔を見てしまい、視線が合えば耳まで真っ赤にした。
(もっと見たい)
見れば緊張するのに、なぜか執事の姿を見たい気持ちが抑えられない。かといって正面から見る勇気もなかった。それならと、部屋の片付けをしている後ろ姿や給仕をしている横顔をこっそり眺めるようになった。
(僕はどうしてしまったんだろう)
毎日こんな状態では、さすがのシュエシもおかしいと気づく。髪以外にも触れてほしいと思っている自分に気づき困惑した。
(絶対に変だ)
ベッドに入ってからも執事の顔がちらついて離れない。美しい微笑みを思い出すだけで胸が苦しくなる。そのせいで眠れなくなるというのに、目を瞑っても執事の姿ばかり思い返してしまう。
そうして翌朝起こしにきた執事を見ては胸を高鳴らせた。どうしても執事の顔が見たくて掛布の隙間から覗くこともあった。視線が合えば動けなくなり、「おはようございます」と微笑む執事に返事をすることさえできない。
「今日もよい天気でございますよ」
朝日を浴びる執事を見るたびに、シュエシは神の使いではないかと思った。銀色の髪はキラキラと眩しく、黄金色の瞳も太陽にように輝いている。あまりにも眩しく美しい姿に、シュエシは朝から顔を赤くし体を火照らせた。
(今日も綺麗だな……ヴァイルさま)
起きてからもシュエシの視線は執事を追いかけた。そうしながら密かに執事の名を心の中でつぶやく。
(いつか呼んでみたいけど……駄目だ)
言えばきっと恥ずかしさのあまり倒れてしまう。鼓動が激しくなりすぎて息が止まってしまうかもしれない。それなのに心の中では「ヴァイルさま」と何度も名前を思い浮かべる。
そうこうしているうちに夜になった。今夜もいつもどおり執事による髪の手入れが始まる。
(もう慣れてもいいはずなのに……)
毎晩のことだというのに、手入れが始まると緊張のあまり全身が強張った。香油の甘い薔薇の香りが広がっても肩がカチコチに固まってしまう。そんな状態でも視線は鏡越しに美しい顔を追ってしまう。
(今夜もとても綺麗だ)
髪を見ているからか少し伏せられた目元は美しく、長い睫毛が明かりにきらりと光る。睫毛も銀色だということに気がついたシュエシは、執事のすべてが神に愛されているに違いないと思った。
(僕とは違って、この人は神様に愛されてるに違いない)
だからこんなにも美しく、そして優しいのだ。そう思いながら目を閉じ、執事の指の動きにうっとりとしていたときだった。
「ひゃっ」
突然耳たぶに冷たいものが触れて変な声が出てしまった。
「失礼いたしました」
「あ、いえ、大丈夫、です」
触れたのは執事の指だった。鏡越しにそれはわかったものの、人の指とは思えないほどの冷たさに驚く。
(まるで死んだ父様や母様みたいだ)
あまりの冷たさに、シュエシは天に召された両親のことを思い出した。
二人とも病気にかかってからというもの床 から起き上がることができなくなった。そんな二人の世話をシュエシ一人でやっていた。二人はあっという間に食べる量が減り、話す言葉も少なくなっていった。不安に駆られたシュエシは、それでもいつか元気になると信じて世話を続けた。
ある日、早朝に目が覚めたシュエシは母親の手を握ろうと肌に触れた。しかし触れた手は異様に冷たく、飛び起きたシュエシは母親が死んでいることに気がついた。慌てて触れた父親はまだ温かかったものの、その父親もちょうどひと月後に天に召された。
執事の指はあのときの二人のように冷たかった。柔らかい感触はしたものの、ゾッとするような冷たさに体が強張る。
「随分と体が強張っていらっしゃるようですが……あぁ、これはいけません。首まで硬くなっていらっしゃる」
「ひっ」
急に首筋を撫でられ肩が震えた。
「揉んで差し上げましょう」
「えっ? あの、……っ」
シュエシが断る前に冷たい手が首筋に触れた。そのまま肌を押すように指先に力が入る。触れられたことよりあまりの冷たさに背筋がブルッと震えた。
「あ、あの、っ」
「首から肩にかけても硬くなっていらっしゃいますね。ですが、やはり首が一番ひどくていらっしゃいます」
「あの、大丈夫、……っ」
首筋を冷たい指先で押され、おかしな声が漏れそうになった。慌てて唇を噛み締めたものの「んっ」と小さく声が漏れてしまう。
たしかに髪の毛以外にも触れてほしいと思っていた。ところが実際に触れられるとどうしていいのかわからなくなる。体は強張り鼓動はとんでもないことになっている。揉んでいた手が肩に移ったことで少しホッとしたものの、今度は大きな手の感触に首まで赤くなった。
(どうしよう、どうしたらいいんだろう)
本当はいますぐにでも手を離してほしい。しかし執事は善意で揉んでくれているのであって、自分が勝手に興奮しているだけだ。浅ましい自分の都合で拒絶するのはあまりに申し訳なさすぎる。
シュエシが悩んでいる間に冷たい手が再び首筋へと戻った。直接触れられる感触に肌がぞわっと粟立つ。同時に体の奥が熱くなった。段々と冷たいのか熱いのかわからなくなってくる。
「ふぁっ」
冷たい指に耳たぶを摘まれた瞬間、シュエシの唇から漏れたのは鼻から抜けるような声だった。慌てて奥歯を噛み締めながら俯く。しかし耳たぶを摘む指が止まることはなく、くにゅっと揉まれるたびに肩が震えた。
突然うなじがゾクッとした。それが背中を震わせ腰までゾクゾクしたものが走り抜ける。気がつけばシュエシの下半身はモゾモゾと動き、そうせざるを得ないくらい熱が集まっていた。
(おかしい、僕の体は変になってしまった)
腰のあたりがゾクゾクしてたまらない。お腹の奥が熱くてどうしようもなかった。このままでは大変なことになる、そう思うのにやめてほしいと言うこともできない。口を開けばきっとおかしな声が出てしまう。
とにかく手を止めてほしくて、鏡越しに背後に立つ執事を見た。見た瞬間、シュエシは後悔した。
鏡に映る執事は美しくも妖しい雰囲気を纏っていた。黄金色の瞳は宝石のように煌めき、その目を見ただけで鼓動が激しくなる。美しい顔を見ただけで体が熱くなり頬が一気に赤くなった。
(ぼ、僕は何を……っ)
シュエシは執事に情欲していることにようやく気がついた。気づいた瞬間、全身がカッと熱くなった。執事にそんな意図はないのに耳たぶを揉む指に官能を覚え、首筋に触れる手に淫らな感情を抱いてしまうなんてどうかしている。
シュエシはいやらしい自分を恥じた。こんなにも熱心に世話を焼いてくれる執事に申し訳なくて目を瞑る。それなのに体はますます熱を上げ、おかしな声を漏らしそうになる。
「随分とお顔の色がよくなられました」
「っ!?」
あまりにも近いところからの声にハッとし、慌てて鏡を見た。耳元に唇を寄せる執事の瞳と視線が合い動けなくなる。
「頬もこれだけ薔薇色になられたのでしたら、もう大丈夫でございましょう」
そう囁く執事の唇が一瞬だけシュエシの耳に触れた。それだけで体は熱く震え、下腹部に集まった熱がドクドクと脈打つ。
「それでは奥様、おやすみなさいませ」
いつもどおりケープを持ち頭を下げた執事は、頭を上げてからふわりと微笑んだ。そうして足音を立てることなく部屋を出ていく。残されたシュエシは椅子に座ったまま呆然としていた。いつの間にか下半身に集まった熱が股間を覆う寝衣をゆるく持ち上げている。
(僕は……)
淫らに疼く体にシュエシはますます動けなくなった。
ともだちにシェアしよう!