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5 一人きり
（……ここは……）
目が覚めると見慣れた天井が視界に入った。頭を少し動かしながら周りを確認したシュエシは、いつも寝ているベッドの上だということに気づく。
（……いつ、寝たんだっけ）
カーテンの隙間からほんの少し日差しが入っている。きっと朝に違いない。起きなくてはと思いながら寝返りを打とうとしたものの、あまりのだるさに体が動かなかった。
（変だな）
掛布から右手を出そうとして失敗した。手も足もくたりとして力が入らず、起き上がろうにも手をつくことすらできない。
（どうしよう。そろそろ起こしに来る時間なのに）
そこまで考えてハッとした。
（……違う、あの人はもうここには来ない）
執事だと思っていた美しい人は領主だった。そのことを思い出し、顔の近くにあった左手でなんとか首筋に触れる。
あのときここに冷たい唇が触れた。その後とんでもない激痛に襲われた。一瞬噛みつかれたのかと思ったものの、それにしては鋭く長いものだった気がする。もしかして何か道具を使ったのだろうか。
（そうだ、あれはきっと僕に与えるための罰だったに違いない）
売られるのではなく生贄になるのでもなく、痛めつけられる罰が選ばれたのだ。もしかしたら今日も同じような罰を与えられるかもしれない。
シュエシは激痛を感じたところを指先でそっと撫でた。あれだけの痛みだったのに、いまはもう痛みを感じない。肌を擦ってもかさぶたのようなものが剥げる感触もしなかった。
（もしかして夢……？ いや、そんなはずはない）
あれだけはっきり感じた痛みと恐怖が夢だったとは思えない。鏡で見れば何かわかるかもしれないと足を動かしたときだった。股間のあたりに違和感がある。濡れているような、それでいて何かがくっついているような奇妙な感触がした。
（……まさか）
息を吸い、お腹のあたりにあった右手をゆっくりと動かした。なかなか動かなかった指の関節が曲がり、手首が動き、少しずつ腕が動き始める。ちょうど指に触れていた寝衣をゆっくりとたくし上げ、その下にある小さな下着に指を伸ばした。
下着の前面に濡れた痕跡を感じる。しかもほとんど渇いているのかごわついていた。下生えが少し引っ張られるような感覚に、シュエシは何が起きたのか理解した。
（やっぱり夢じゃなかった）
首筋に強烈な痛みを感じたことも、途中から快感を得ていたことも夢ではなかった。それどころか下着を汚すほどの状態になっている。精通したときでさえこんなことはなかったのにと衝撃を受けた。
（もしかして……ベッドに運んでくれたのはあの人、だろうか）
脳裏に美しい執事が浮かぶ。
（……あの人が領主様だったなんて）
貴族然とした姿は初めて見るもので、冷たく自分を見る黄金色の瞳も初めて目にした。相変わらず見惚れるほどの美しさだったが、その顔に浮かんでいたのは静かな怒りだったような気がする。
（騙していたから当然だ）
もっと早くに自分は身代わりなのだと、本当は男なのだと言うべきだった。いや、言ったところで結果は同じだったかもしれない。それに屋敷に来たときから身代わりだとわかっていたから執事に扮していたと言っていた。シュエシは執事だった想い人の姿を思い浮かべ、領主となった顔を思い出し、静かに泣いた。
一度目が覚めたシュエシだったが、体のだるさと絶望から結局起き上がることができなかった。次に目が覚めたときには部屋は暗く、カーテンの隙間から差し込んでいた光も消えている。
（夜になったんだ）
寝ていたからか体のだるさは少し収まった。なんとか体を起こし、ゆっくりとベッドから下りる。
シュエシがまず手にしたのは着替えの寝衣と下着だった。着ていたものを脱いで新しいものに着替えると、汚れた下着を手に浴室へと向かう。湯船に溜まったままの水を桶にすくい、その中に下着を浸した。そうしてゆっくりとこびりついた粗相の跡を洗い落とす。
洗濯が終わると喉が渇いていることに気がついた。寝室の椅子に下着を干し、居間に続く扉を開ける。
（……そのままだ）
薄暗い中、テーブルには中途半端に残っている朝食が並んでいた。引いた椅子もそのままになっている。シュエシは鏡が置いてあるテーブルに近づき、いつも置いてあるランプに明かりを灯した。それを手に部屋をぐるりと見回す。
領主が来たときと何も変わっていない。カーテンは開いたままで、いつもなら夕暮れ時に灯る明かりは一つも灯っていなかった。
テーブルに近づくと紙が目に入った。「朝食後に旦那様がいらっしゃいます」という文字が目に留まり、思わず指先でなぞる。そうしたところで優しかった執事に会えるわけでもないのに、シュエシの頭には美しく微笑む顔ばかりがちらついた。
その日からシュエシは一人きりになった。一度だけ廊下に続く扉に近づいたものの、取っ手に触れることはできなかった。もし鍵が開いていたら逃げ出せたかもしれない。しかしシュエシには行くところがなかった。屋敷を出たところで生き延びるすべがないのなら屋敷に留まっても同じだ。
（少なくとも恩は返せているみたいだし）
シュエシがそう思ったのは屋敷に人の気配がなかったからだ。領主は追加で花嫁を寄越せと命じていないに違いない。このまま自分が屋敷に留まれば恩を返すことができるのかもしれない。
（……それなら勝手に死ぬわけにはいかない）
そう思い、テーブルに残ったままの朝食だったものを少しずつ口にした。スープは腐る前に飲み干し、果物は傷んだところ以外を口に入れる。パンは比較的もつだろうと、鳥がかじるほどの量で少しずつ食べ進めた。
もともとシュエシの食事は日に一度か二度だったため、一日三度の食事が与えられる屋敷での生活は贅沢なものだった。それが前の生活に戻ったのだと思えばつらく思うこともない。
（いつまで身代わりでいられるかな）
領主に会ってから十日が経った。最後に食べ物を口にしてから五日が経つ。幸い、水差しの水だけは毎日新しいものがテーブルに置かれていた。水だけでもしばらく生きられると聞いたことがあったシュエシは、水差しの水で空腹をまぎらわせた。
ふと、水差しの水を交換してくれていた執事の姿が頭に浮かんだ。もしかしてあの人が持って来てくれているのだろうか。そう思ったものの、すぐに否定する。領主は怒っていた。そして罰を与えた。首に傷痕は見つからなかったものの、何かを突き立てられたのは間違いない。そこまでしたのに生かそうとするだろうか。
（もし生かしたいなら水ではなく食べ物を置いておくだろうし）
シュエシは現状を悲しむより執事を、領主を騙していたことを悔やんでいた。だからといって、じゃあどうすればよかったのかと考えてもわからない。
（……寝よう）
椅子から立ち上がり、のろのろと寝室に向かう。そうして倒れるようにベッドに横になった。カーテンを閉めることがなくなった窓を見ると、いつの間にか外が真っ暗になっていた。それでも時々明るくなるのは雲の合間から月が覗くからだろう。そんなことを思いながらゆっくりと目を閉じた。
その後もシュエシは一人きりの状態が続いた。領主に会ってからどのくらい経っただろうか。十二日目までは数えていたものの、段々頭がぼんやりして数えるのをやめてしまった。はじめは着替えていた寝衣や下着も洗う気力がなくなり、少し前からは同じ物を着続けている。それでも以前のように匂わないのは服やベッドが上等なものだからだろうか。
（そういえば、水差しの水の味が変わったような気がする）
どのくらい前からか、ほんのりと甘い匂いがするようになった。味は水のままだが、飲むと鼻を抜ける匂いが違う。もしかしたらあの水のおかげで生きているのかもしれない。
水のことを考えたからか喉が渇いているような気がしてきた。ベッドから立ち上がろうとするものの、よろけてしまい慌てて棚に手をつく。そのまま壁を伝うようになんとか居間まで歩き、テーブルへと近づく。
コップを取ろうと手を伸ばしたところで体がぐらりと揺れた。テーブルに手をつこうとしたものの、それより先に床に転がってしまう。同時にガチャンと音がしたということはコップを落としてしまったに違いない。
（片付けないと）
起き上がろうとしたシュエシだが、床に打ちつけた右側がうまく動かなかった。右手を動かすとビリッとした痛みが走る。それでも手をつき下半身を動かそうとしたところで右膝の下あたりがズクッとした。激痛は一瞬で、すぐに膝から下が燃えるように熱くなる。
シュエシは動くことを諦めて床に横たわった。視線を頭の上に向けると割れたコップが目に入る。破片に陽の光があたりキラキラ輝いていた。
（なんだか疲れたな）
眩しい光も真っ暗な夜もどうでもよくなってきた。絨毯の上で寝転がっているいまも夢うつつのような気がする。恩を仇で返してはいけないという思いが唯一のよりどころだったが、それもどうでもよくなりつつあった。
（なんだか眠たくなってきた）
うつらうつらしてくる。まるで水の中に浮かんでいるような感覚のなか、ゆっくりと瞼を閉じた。
カチャリ。
久しぶりに扉が開く音がした。シュエシは音につられるように、閉じかけた瞼をゆっくりと開いた。
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