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7 分水嶺

 どこからかピチャン、ピチャンと水の音が聞こえてくる。唇が濡れたような気もした。不可解な感触と不思議な音にシュエシの目がゆっくりと開く。 (……あれ?)  ぼんやりとした視界に天井らしきものが映った。しかしベッドに横たわっているような感じはしない。指を動かすと敷布とは違う感触がする。何度か指で感触を確かめたところで、シュエシはようやく自分が床に横たわっているのだということがわかった。 (まだ死んでなかった)  ホッとしたような残念なような気持ちになりながら起き上がろうと足を動かす。ところが右足に激痛が走り「うぅ」と呻き声が漏れた。  右膝から下がやけに熱い。どうしたのだろうと右手を動かそうとしたところで右腕にも痛みが走った。左側は何ともないものの、力が入らないせいで横を向くこともできない。それでもと左手を動かしたところで指先が冷たいものに当たった。 (これは……)  指先で何度も撫でる。そうしてようやくコップだということがわかった。倒さないように手を這わせ中に指先を入れると、そこにはまだ冷たい水が入っている。  そういえばとシュエシは床に倒れる直前のことを思い出した。あのときテーブルに置いてあったコップを落としてしまった。音がして床に散らばった破片も見ている。破片があったあたりに視線を向けたが、そこに砕けたコップはない。 (夢……だったのかな)  コップが割れたことも、その後領主がやって来たことも夢だったのかもしれない。その手で殺してほしいと美しい人にすがったのは、はたして本当にあったことだったのだろうか。それでも自分がいま死に近づいていることだけはわかった。 (どこからどこまでが夢だったんだろう)  もしかして屋敷に来てからのすべてが夢だったのかもしれない。あの美しい執事も幻だったのではないだろうか。 (……違う、夢なんかじゃない)  美しい執事の笑顔がこれでもかと蘇った。銀色の髪も黄金色の瞳も、それに自分に触れた冷たい指の感触もはっきりと覚えている。優しく自分を見る眼差しも気遣う声も間違いなく近くにあった。  美しい笑顔が脳裏をよぎる。見たことがないほど美しい顔が自分に微笑みかけ……その顔が一瞬にして冷たいものに変わった。作り物のような美しい顔がじっと自分を見下ろしている。まるで石ころを見るかのような眼差しは凍えるように冷たく、「まだ生きていたとはな」と告げる声は低く抑揚がない。 (それでも僕はあなたが……ヴァイルさまが好きです)  たとえ嫌われていてもかまわない。シュエシの中に「ヴァイルさまが好き」という気持ちがあふれ出す。 (僕は、ずっとヴァイルさまが好きだった)  屋敷の玄関でひと目見たとき、一瞬にして心を奪われた。あのときから惹かれていたに違いない。気づいていなかっただけで、おそらく最初から好きだったのだろう。  これまでのことを思い返すだけで苦しいほどの想いが体を巡った。初恋と呼ぶには激しすぎる、恋情と呼ぶには深すぎる感情がシュエシの中に渦巻く。 (僕はヴァイルさまが好きだ)  好きで好きでたまらない。なぜそこまで好きなのか自分でもよくわからない。好きだと思うだけで体が熱くなり目眩がした。  不意に母親の顔が脳裏に浮かんだ。 『わたくしはね、おまえのお父様が大好きなの』  美しい黒髪を半月の形をした櫛で梳きながら、母親はいつもそう口にしていた。 『一生分、いいえ、来世の分もお父様を好きになったのよ』  歌うようにそう告げる母親は誰よりも美しかった。実際、シュエシの母親はどの土地にいても周囲が振り返るほどだった。東の国の者特有の黒髪に黒い瞳は夜より濃く、整った顔立ちは東の地の女神ではないかと言われることもあった。 『だからわたくしは――』  思い出の中の母親がうっとりと微笑みながら何かを囁いている。その言葉を囁くたびに櫛で梳いている黒髪に紅色の艶が混じった。シュエシはその艶を見るたびに、まるで父親への想いのようだと感じた。幼心に自分にもそんな人が現れるだろうかと思ったりもした。  その思いは両親を失ったことでさらに大きく膨らんだ。両親がいなくなってからのシュエシはいつも一人きりだった。縋る相手も想う相手もいない。自分を気にかけてくれる相手もいなかった。だからこそ母親にとっての父親のような存在に恋い焦がれた。母親が聞かせてくれた想いを自分も誰かに抱いてみたい。誰かを好きになりたい。  そんなときに美しい執事に出会った。その瞬間、恋に落ちた。 (僕はヴァイルさまが好きだ)  そう思うだけで口元がほころぶ。このまま命を失っても後悔はしない。好きだと告げることができたのだから十分だ。そう思いながら左手を動かしたところでコップを倒してしまった。  こぼれた水が絨毯を湿らせる。思っていたより水が入っていたのか、寝衣の腕や肩あたりが濡れるのがわかった。その水が黒髪をわずかに濡らした。水に濡れた黒髪の一部が、ほんの少し赤みを帯びていく。 「この状況でも笑っているとはな」  不意に聞こえて来た声に、シュエシは閉じかけていた瞼を開いた。ぼんやりしか見えていなかった視界にはっきりと領主の姿が映る。 「おまえにはこの世のものでない存在を惑わす力でもあるのか? いや、ただの人でしかないおまえにそのような力はないはずだ」  低く艶やかな声もはっきり聞こえる。再び想い人に会えたことがうれしくてますます口元がゆるんだ。 「なぜ笑っている?」  問いかけもはっきり聞こえる。聞こえたのだから返事をしなくては。そう思い、口をゆっくりと動かした。 「あなたが、好きだからです」  声は掠れていなかった。最後にまた想いを告げることができた。これでもう思い残すことはない。目を閉じようとしたシュエシだが、絨毯を踏む足音に気がつき再び目を開いた。  頭のそばに領主が立っている。黄金色の瞳はじっと自分を見下ろしているが、何を考えているのかはわからない。 「……その髪」  髪がどうしたのだろうか。 (そういえば、もう随分と洗ってない)  毎日手入れをしてもらっていたときの艶やかさは失われてしまっただろう。もしかしてそのことを憂いているのだろうか。 「わずかだが血の臭いを感じる」  頭のそばに膝をついた領主が絨毯に手を伸ばした。いつも髪の手入れをしていた指が床に広がっている黒髪の一房を摘み上げる。そうして屋敷に来たときよりも長くなった黒髪を黄金色の瞳がじっと見つめた。 「クックックッ。そうか、これはまた愉快なことだ」  突然笑い出した領主にシュエシが目を見開いた。 「化け物に捧げる花嫁として、たしかにこれほどふさわしい者はいないだろうな」  黄金色の瞳が髪の毛からシュエシの顔に視線を移す。 「おまえは殺されかけてもわたしを好きだと言い、好きだからその手で殺してくれと口にした。死の間際であってもまだわたしを好きだと言う。果たしておまえの本心なのか我が力のせいなのか……どちらにしてもおまえは興味深い」  髪を掴んでいた指が離れたかと思うと、するりとシュエシの頬を撫でた。 「いいだろう、おまえをわたしの花嫁にしてやる」  一瞬、何を言われたのかわからなかった。呆けるシュエシの顔から視線を外した黄金色の視線が顔よりも下に移る。 「右足をどうした」 「え……?」 「変色し腫れている」  指摘されても頭をうまく動かせないシュエシには確認することができない。モゾモゾと上半身を動かしたものの、すぐに右足と右腕に痛みが走り顔をしかめた。それを横目で見た領主が「あぁ、動くな。触れればわかる」と告げる。  右膝の下あたりに何かが触れた。触れた感触はしたものの、感覚が鈍くなっているのか触れているものが何かわからない。多少不安を感じながらじっとしていると「折れているな」という声が聞こえてきた。 「折れて……?」 「問題ない。すぐに元に戻る」  シュエシの目の前に白い指が現れた。すぐに領主の指だと気づいたが、指の腹に赤いものが見える。何だろうと瞬きをした瞬間、口の中に指を突っ込まれた。 「んっ!」  慌てて頭を横に振るが、そのまま口の中で指が動き出した。ぐるりと口内を撫でるように動き、突っ込まれたときと同様に唐突に出て行く。 (いまのは……って、口の中が……)  なぜか甘い香りがしていた。嗅いだことがない香りと、ほんの少し舌が痺れるような感じがする。それに意識を奪われていたシュエシだが、突然右足に強烈な痛みを感じて目を瞑った。「うぅ」と呻き声を漏らし、動かない体で身悶える。ところが少しすると燃えるように熱かった部分が急激に冷たくなった。 (この冷たさは……ヴァイルさまの手だ)  あの手が足に触れている。 「腕も折れているな。だが、こちらもすぐに元に戻る」  右腕にも激痛が走った。そうかと思えばすぐに冷たくなった。 「折れた場所は元に戻った。これでもう痛みは感じないだろう」  何が起きたのかわからなかったが、それでもシュエシは小さく頷いた。 「まさかとは思ったが、わたしの血をすんなりと受け入れられるとはな。なるほど、ますます興味深い」  美しい顔がじっと自分を見ている。 「我が血を口にしても死なないおまえは、ある意味花嫁にふさわしいと言える」  冷たい指先が頬を撫でた。 「どういう存在か興味を引かれた」  領主の声を聞かなくてはとシュエシは必死に耳を傾けた。ところが段々と意識が薄れて、領主の声が聞こえなくなっていく。 「さて、この先わたしの血にどう反応するかだが……」  シュエシの目がゆっくりと閉じる。床に広がる黒髪には紅色の艶が混じり、それを見る黄金色の瞳がきらりと光った。

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