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第2話
「よぉ、久しぶり」
いや、本当に久しぶりだ。カイルは突然再び現れた俺を見て、無言のまま両腕に下げた桶の中の水を家の傍に置いてある大きな瓶に移し替え、出てきて、桶を置き、もう一度俺を見て、怪訝な顔をした。
「具合が悪いのか」
「ちげえよ」
「じゃあ何しに来たんだ」
「ちょっと、お前さんに相談があってよ」
カイルは相変わらず怪訝そうに、腰に引っ掛けてあった手ぬぐいで汗を拭き、何も言わずもう一度家に入った。俺もその後を追う。俺がいた頃と何も変わらない家に、どこか懐かしさを感じる。
「相談ってなんだ」
「付き合って欲しい場所があるんだ」
「いつ?」
「できれば今から。えーっと、何日か」
「は?急だな、いつも、貴様が来るときは」
「頼むわ」
「……ちょっと待ってろ」
カイルは呆れた顔を見せたけれど、手早く机の上を片付け、仕事用の小屋に施錠をし、不在の小さな看板を出して馬を引いて俺についてきてくれた。
「この森には懲りたんじゃなかったのか」
「まあまだ明るい。おっかない動物たちも手加減してくれるだろうさ」
カイルの土地から手つかずの森へ入り、馬を走らせる。確かにこの森では死にかけたけれど、それが情けなくて一応身体を鍛えて護身術も嗜んだ。付け焼刃だが、襲われてもカイルを抱えて逃げきるくらいの自信はある。まあ、カイルがおとなしく抱えられるとは思わんが。あそこで一人で生きてるんだから多分強いだろう。
しばらく行くと、獣道同然だったのが整地されたまともな道になった。カイルがものすごく怪訝そうな顔をした。森を出るまで、獣道が続いていたはずだから。
「ここの森に、手を付けたのか」
「まあ、話はまとめてするわ」
道がよくなり移動速度も上がる。整備する以前よりもずっと早くに森を抜けた。森の周辺には荒れ地が広がり、さらに行けば小さな山があり、それを超えてようやく人の住む場所になるのだけれど、今は森を出てすぐに集落が形成されている。それを目の当たりにして、さすがにカイルが驚いたらしい。馬を降り、辺りを見回している。
「開墾したのか、あの土地を」
「ああ」
ちょっとだけ、自慢気な表情が浮かんでしまったかもしれない。
以前、困窮する村を救って欲しいと嘆願に来ていた村長と相談し、誰も住んでいないここを新しく拓いてみようという話になったのだ。他に行くところはなく、このままだとゆっくり死んでいく村。幸い人手はある。最初は体力に自信のある者十人ほどで山を越えて移動してきて、水を確保し、森から出てくる猛獣の対策に苦慮し、畑を作ったはいいが実らず、諦めて去る者を見送り、どうにか人が住めるまでに整えたのだ。想定よりも時間が掛かってしまったけれど、今は当時の村民全員がここに移って来ていて、相変わらず子宝によく恵まれ、あちこちで走りまわるかわいい声が聞こえてくる。
「すごいじゃないか」
カイルが俺を見上げてそう言った。それで俺は、堪えきれず、満面の笑みを浮かべてしまった。
「だろ?」
嬉しかった。領主になって自堕落で無気力な毎日を送っていた俺が、初めてそれらしいことを考え、実行した。それを、そのきっかけを与えてくれた男に褒められたのだから、嬉しいに決まっている。張り切って村の中を案内した。不良領主の俺でも、ここでは割と慕ってもらえて、村民は俺を見れば笑顔で声を掛けてくれる。それもなんだか誇らしかった。
「真ん中にこのでっかい道を作ってな、そこから各自の家の配置を決めた」
「へぇ」
「水場が近いとか、畑が遠いとか、色々揉めてよ」
「だろうな」
「子供が多いから、勉強させなきゃなんねぇし」
「ああ、それは素晴らしい考えだ」
また褒められた。嬉しい。
「あ、領主さまだ。何してんの?」
「おお、お仕事中だ」
「嘘だー」
「嘘じゃねぇよ。お客さんだ、挨拶しろよクソガキ」
「お客さん?こんにちはー」
「こんにちは」
俺に対しては不愛想でも、子供には優しいらしいカイルが、少し膝を屈めて声を掛けてきた子供に笑いかけている。
「それで?」
「え?」
「貴様の相談というのはなんだ」
浮かれている場合じゃなかった。ここからが正念場だ。俺は気を引き締めて、村長の待つ家へカイルを連れて行った。そこでもカイルは至極礼儀正しく村長に挨拶をし、部屋に通されて出された茶を褒め、俺と村長の話を黙って聞いてくれた。
「……」
「いかがですか、カイル殿」
俺の、というか俺たちの提案はこうだ。この村に、薬草栽培をやらせて欲しい。その教授を願いたい。できれば薬を作る方法も教えて欲しい。幼子や妊婦の健康管理も手伝って欲しい。当然、対価は払う。物々交換などというケチな話ではない。
「……なぜそんなことを?」
「領主さま的には、この村だけ随分特別扱いしちまったなってのがあるんだよ、仕方がなかったとはいえ。だったらもういっそ、ぶっちぎりに特別な村に仕立てちまえばいいかと思ってな」
「それが、薬学か」
「うちの領地にも一応いるんだがな、医師や薬師は。お前さんの足元にも及ばんだろう。そいつらの仕事を取り上げるつもりはないが、いい薬は領民を助ける。ここは中心地から遠いしな」
「……」
「これは商売じゃねぇ。人助けだ。だろう?お前さんのお師匠さんだって、これで多少の金を手に入れたところで叱りはしねぇだろ」
「……」
「頼む」
村長とともに頭を下げる。もっと踏み込んでいえば、こいつの求める後継者も、この村から見つかるかもしれない。あの土地や生活を手放せとは言わないけれど、隣の領地からの搾取を止めたい。あっちに無償で薬を渡すのならそれでもかまわない。でも、食料や日用品と引き換えに身体を明け渡すのは絶対に。カイルは返事をしなかった。村長はおもむろに顔を上げて、何度か頷いてから口を開く。
「うちの領主さまは、本当に出来損ないでしてね」
「おっと?村長、それは」
「先代が亡くなって継いだかと思えば、一日中酒を飲んで、女を抱いて、それもねぇカイル殿、村中からいい女を寄せ集めて来いとかまぁ下品で下劣でどうしようもない領主さまでしてね」
「ほう」
「ははは……おい、村長」
「それでも一応領主さまだから、困ったことが起きた時、陳情を聞いてもらうのは彼しかいない。仕方なく訪ねて行ったら、ご覧の通り、図体のでかい、無駄にいい男でね、これは確かに領主なんかよりヒモかごろつきの方がよほどお似合いだと思ったものです。確かその時も酔ってましたね、本当にどうしようもない」
「わかります」
「わかるな!」
「そんなダメ領主さまは、私の陳情を聞いた後、もう一度わざわざ来てくれたんですよ。ここじゃなくて、前に住んでいた村まで。それで、村中を見て回って、今すぐは無理だけど、何か考えるから、どうにか持ちこたえてくれって頭を下げてくれましてね」
恥ずかしいやら情けないやらで、俺はでっかい溜息と共にうな垂れた。村長に頭を下げた時、俺には何の考えもなかったのだ。なのに、そんな無責任なことを口走っていた。恐ろしいことだ。今こうして移住が成功しつつあるから聞いていられるけれど、この移住にだって犠牲者がないわけではない。カイルは村長の話を聞いては頷き、時々俺の方を見るもんだから、もうマジ勘弁してくださいって泣きそうなんですけど。村長は妙に楽しそうなんですけど。
「森の向こうで死んだらしいって噂を聞いて、ああ、じゃあ新しい領主さまにもう一回陳情に行かなければと考えていたら、死んでなかったらしくて、またうちの村に現れてね、この開墾と移住の話を持ってきたというわけなんです」
「そうですか」
「農作物のよく育つ土壌です。あそこに山があるので雨もよく降る。よい風も吹くし水も綺麗です。中心地へは遠いですが、思いがけずここはよい土地であると、村民一同領主さまに感謝しています」
「そうですか」
「カイル殿の話を、領主さまはよく聞かせてくれました。とても立派で、尊敬していると。この村とうまくいい関係が作れればいいのだけれどと」
目の前の冷めた茶を一気に飲んで、諦めの境地でカイルを見る。結構ざっくばらんに全部ばらされたな。確かにこの村をつくることは一生懸命やったけど、領民のために働いたけど、それと同じくらいカイルのために、ない頭搾って考えた作戦なんだよな。だからあまりよく言われると居心地が悪い。
村長はもう一度カイルに深々と頭を下げた。
「どうか、我々を助けていただけませんでしょうか」
「……少し、考えさせてください」
カイルの返事は当たり前だった。即答するのは難しいのだ。彼は、人知れずあの場所で静かに暮らし、薬を作り、後継者を待ちながら、日々の細々なことに自分を犠牲にして過ごしてきた。
俺は村長に礼を言ってカイルと共に辞し、カイルはもう少し村を見て回りたいと言った。もちろん否やはない。歩き出した俺をカイルはじっと見つめて問う。
「貴様は、こんなことを考えていたのか」
「まあ……そう……だな」
「そうか」
カイルは俺が見習わないとやべぇなって思うほど、村の中をつぶさに見て回った。畑もだし、人々の生活もだ。森の中で多少の狩りができるから、畑での農作物と併せてこの村の食料事情はいい。それらを明快な基準で村民全員で分け合っている。しっかり食べてよく働く。わかるか、カイル?食べるものを餌にお前さんに何か要求する人間は全員敵だ。食は、生きることだからな。生きるか死ぬかを選ばせるようなやり方に従うな。俺は腹の中で、ずっとそういうことを考えながらカイルの後をついて回っていた。
「カイルさん!こんにちは!」
カイルはすっかりこの村の奴らの注目の的だ。見慣れない茶色の目に茶色の髪という風貌もさることながら、病気を治せる薬を作ることのできる人間で、それなのに印象が柔らかいからだ。俺に対しては相変わらず辛辣で乱暴な口をきくのに、それも初対面から問答無用でそうだったのに、ここの連中は俺のように馬鹿なことをしないからか、カイルは出会う人みんなに会釈をしたりするし声を掛けられればきちんと応対する。今もまた、寄ってきたガキに振り向き、膝に手を当てて腰をかがめてどうしたのと微笑んで声を掛けている。え、なに?俺にもしてよそういうこと?
「こんにちは。何か御用かな」
「あのね、これ、僕が今朝とったの。あげるね!」
「え?いいよ、君が食べなさい」
「僕はもう食べたの。ちょっととりすぎたの。カイルさん、これ嫌い?好き嫌いしたらダメなんだよ!」
「……ありがとう、いただくよ」
「はいどぉぞ!」
ガキの親らしき女が少し離れたところで笑ってこちらを見ている。村長の家で会ったことのある女だ。あの村長は、やることが早い。
「貰ってしまった……」
「おお、いいじゃねぇか」
「……」
「嫌いか?」
「いや、申し訳ないなと思っただけだ」
「なんで。あのガキがひもじい思いをしているわけじゃねぇし、喜んでもらえた方が俺としてもありがてぇが」
「喜んでる」
「そりゃよかった」
村の中をうろついていたら、日が暮れた。今夜泊まる家に戻る道すがら、あれこれと食べ物を渡された。ちなみに、俺が一人の時も食事の用意はしてもらえるがこういう感じではない。家に折詰を持ってきてもらえるということであって、笑顔と共にいろんな人からいろんなものをあちこちで差し出されるわけではない。俺一人の時は。村の端にある、畑に一番近い場所。他の民家とは離れて一つだけ無人の家を作ってある。カイルをそこへ連れて行き、ようやく二人で誰にも聞かれずに話ができるようになった。カイルのおかげでとても豪華になった食卓を囲む。
「ここは?」
「客間つーか、誰か来た時用の家。俺もこっちに来たときはここに泊まってる。ここは遠くてな、日帰りは難しい」
「なるほど」
「お前さんも今日は泊っていけよ」
今のどうだった?さりげなかった?大丈夫??
カイルはそうだなと呟き、村民が用意してくれた食事を見回している。大丈夫っぽいな。俺のシタゴコロ、気づかれてないよな。
「こんなに豪勢な食事をいただくのは申し訳ない」
「ああそれ、ここの畑で張り切って収穫したやつだし、果物も野菜も。肉は森でとってきたやつの保存食な、塩漬け。嫌じゃなければ食ってやってくれ」
「だから」
「お前さんに褒めてもらいたいんだよ。あと、自分たちの農業の実力見せつけて、だから薬草も育てられますよって言いてぇだけだから。領主以下村一丸となっての作戦の一つだから」
「……」
「好き嫌いあるか?」
「ない」
「えらいね。俺はだめだな、これ。代わりに食ってくれ」
「自分で食わんか、罰当たり者が」
「えー……知ってるか、これ、苦くて」
「食え」
「はぁい」
もそもそとそれを口入れると、カイルがよしと頷いてくれたので、頑張って飲み込んだ。そしてカイルは、全部おいしい、とてもすごいことだと感心してくれて、俺は鼻が高かった。
「さっき見せてもらった限り、ここの畑で、俺の育てている薬草全部は無理だと思う。村の人の食料のための畑だし、それを減らしてまで薬草を育てる意味がない」
「ああ、そこまで欲張りじゃねぇよ。一つか二つ。お前さんがしょっちゅう摘んできては薬にしてた、あれはどうだ?」
「ああ、あれならいいかもしれない」
「ここでも育つようなら、あの種類は栽培と収穫をここの人間に任せて、お前さんは空いた手と場所で別のを育てればいい」
「……」
「森の中の道の整備も進める。往来に危険が減れば、お前さんの所へ収穫した薬草を届けることも楽になる」
「……」
「難しくない薬の処方を教えてもらえると助かる。熱さましとか、化膿止めとか、そういう汎用性の高いやつだ。もしそれをこの村で作れたら、お前さんはもっと難しいのを」
「つまり」
「うん?」
「一つか二つ、薬草の栽培方法とそれから作る薬の製法をこの村に渡せということか」
「……ああ」
「それで、俺は」
「お前さんは、お前さんにしかできないことに注力したらどうかって話だ。でも、薬草の栽培も薬の製造も、抵抗があるなら教えてくれなくとも構わない。ただ、森の中の道の整備が終わったら、あっちじゃなくてこっちにも薬を売りに来て欲しい。ガキはよく具合が悪くなる」
「売り買いはしない」
「おお、そうだったな。お礼はちゃんとするから、薬を譲って欲しい」
沈黙が降りる。
あの日、カイルの家から自宅へ戻る途中、俺を運んでくれた郵便屋の女に手は出さなかった。なんだかものすごく、面倒に思ったのだ。その代り、色々話を聞いた。初めて通る隣の領地内の様子をちょこちょこ解説してもらい、その合間にカイルの話を聞きだす。カイルは決して好き好んで野外で男に身体を開いていたわけではないと察した。あれは間違いなく搾取であり犯罪だ。腹立たしいことにその原因の一端は俺だった。いつもより贅沢な肉や野菜を求めた結果、いつもより代償を求められた。あの土地の人間は、カイルの薬の恩恵を受けながら、謝礼を渡すどころか彼の尊厳まで踏みにじっていた。幼いころからあそこに住むカイルは、「そういうものだ」と言われれば抵抗できなかったのかもしれない。絶対に許さない。この男は、もう渡さない。
「この話は」
「うん?」
「俺にばかり、利がありすぎる。何を企んでいるんだ」
「お前さんは自分の値打ちを低く見積もりすぎだ」
利があるのはこちらの方だ。カイルにはそう感じないかもしれないが、こちらからの要求は大きい。でもきっとカイルは相応の対価は受け取らないだろう。無報酬の方が安心するように教え込まれている。しかしその辺も村長とは打ち合わせ済みだ。断られても、色々な口実をつけて、手を変え品を変え、農作物その他をカイルに押し付けまくる予定だ。さっきの印象だとガキどもにやらせればうまくいくだろう。それでも、この村にとっての恩恵は余りある。
「薬のあるなしは、現実問題としてももちろんだが、安心するだろう」
「まあ、そうだろうな」
「子が熱を出して、どうしたらいいかわからないっていうときに、お前さんの薬があればそのありがたさは金に換えがたいものがあるし、もしお前さんが診てくれたらそれこそ有り金全部渡したくなるほどありがたい話なんだ」
「そういうときの感情につけこむのはよくないことだ」
「そこはお前さんの我慢のしどころだぜ」
「あ?」
「嬉しい、ありがとうっていう気持ちを受け取って欲しいって言ってるんだ。別に本当に有り金全部渡すわけじゃねぇだろう。食いものだったり、多少の金銭だったり、そういうのを受け取ってもらえないと、次が頼みにくくなるじゃねぇか」
「身体の具合が悪い者が、薬屋に遠慮など必要ない」
「そりゃお前さんの勝手。こっちはな、優しくて優秀なお薬屋さんと末永く仲良くしたいんだから、対等でいたいわけ」
「対等……?」
「こっちはお前さんを頼りにする。助けてもらう。だからそれに応えてくれるお前さんを大事にしたい」
そう、大事にしたい。
あの時本当に世話になったという恩もあるし、結構な境遇にあったにもかかわらず素直に生きてきたお前さんを大事に思うから。公私の別が曖昧になりそうな自分を必死に律して、できる限り冷静に話を進める。
「……俺はあの土地を離れるつもりはない」
「もちろんそれでいい。たまに見に来て指導してもらえるだけで十分だ」
「……」
「でもあれだろ?ここの村民がどんな奴らかわからねぇとな。だから、なんだ、二、三泊していけよ」
カイルは黙り込んでいたけれど、やがてこっくりと頷いた。よし。これでようやく第一段階だ。ちょうどこの村の皆さんの渾身の作である食事をようやく終えた。うん、ちょっと多かったね。おいしいけどさ。カイルの人気は大変なものだなぁ。
「酒もあるけど、飲むか?」
「そういう類の酒は飲んだことがないから」
「そうか。じゃあまあ、一口だけどうだ?家で作る果実酒。季節によって違う果物で仕込むんだと」
「甘いのか」
「え?知らん。飲んだことない」
「は?」
「領主さまんちは、こういうことやらない家だからな」
小さなぐい飲みを探してきて、それぞれにきれいな色の酒を注ぐ。警戒しているのか、小さく首を傾げて、目の前に置いても手を出そうとしないから、先に一口飲んで見せた。お?侮っていたけど結構うまいな。片眉を上げて黙る俺の顔を、隣からじっと見つめられて少し居心地が悪い。
「うん、うまいぜ。思ったより甘くない。そこそこ強いから、お前さんは水で割ったほうが飲みやすいかもな」
「そうか」
意を決したかのようにぐい飲みを手にして、口元に当ててほんの少しだけ傾ける。唇をンパンパして、未知の味を理解しようとしているのか真剣な顔をしている。そしてまた少し首を傾げた。かわいいね、お前さんは。
「どうだ?」
「……おいしい」
「そりゃいい。割るか?」
「このままでいい」
「ほどほどにな」
酒に耐性がなく具合が悪くなる体質の人間もいるのだし、自分の上限を知らないのなら少しずつの方が楽しめる。カイルは頷きながら、おいしい、ともう一度呟いて、ぐい飲みを口元へ運んだ。俺は、そんなカイルの様子を肴にうまい酒を煽る。
「髪、伸びたな」
「……そぉね」
酔ったわけではないだろうが、しばらくするとカイルが片頬杖をついて俺の方を眺めて、そんなことを言い出した。髪。まあ、そう、伸びるわな。カイルんところで厄介になっていた時から、ほったらかしだし。たったそれだけで、俺は落ち着きを失くすほどにドキドキした。目を泳がせる俺を眺めていたカイルは、回りくどいなと呟いた。
「何?」
「音に聞こえた色狂いの領主さまでも、さすがに果実酒ごとき口にしたくらいじゃ、薹の立った薬屋相手でも言い出しにくいか」
「……は?」
「ここまで意味なく接待してもらえると思っていない。足りない分の補い方は知っている。貴様も見ただろう」
「おい、俺は」
「身体で払えと言えばいい。そもそも、俺はほかに持ち合わせはない」
俺は黙ってカイルのぐい飲みを遠ざけた。
「もうその辺にしておけ。初めてにしては飲みすぎだ」
「酔ってない」
「今日話したいろんなことは、全部、俺とあの村長で長い間相談して決めたことだ。どうやったら村を守れるか。たまたま知り合ったお前さんに助けてもらえたらありがたいと思った。お前さんにだけ何かしてもらおうなんて、誰も考えていない。こちらはお前さんに誠意と敬意がある。それをもって対等に付き合いたい」
「……」
「お前さんの人生に、やりように、俺は口を出す立場じゃない。でも、あんまりおかしなことを言ってくれるな。我々は、お前さんを本心から歓迎しているんだ。俺の素行はともかく、それを疑われるのは心外だ」
「……」
「村との取引の話が済むまでは、お行儀良くしていろと村長からも言われている」
「……俺が、悪かった」
「いや……なあ、今お前さんは何を考えてる?薬草や薬のことを、ほとんど知らない俺たちに教えることは無理だと思うか?」
「そうでもない。何十何百とある中の一つくらい、誰かと共有したところで問題はないだろう。貴様が提案したあの薬草から作る薬は、例え作り方や処方を間違えても、身体にほとんど悪影響のないものだし、むしろあんな面倒なことを自分たちでやると言い出したことに驚いている。俺に作らせて、現物を持って来いという方がよほど楽だろう」
「そうか。では、それに対して村が対価を渡したいという話はどうだ」
「そこには正直まだ抵抗がある。でも、貴様の言う通り、対等でいるべき相手には、そういうことが必要なのかもしれない」
「うん」
「……俺は、健康を害した人には優しくすべきで、自分にしかそれができないのであれば、そのことを金に換算するのはおかしいと習った。できない人から金をもらうなと。できる人が黙ってやればいいと。でも」
「うん」
「作り方を教えて欲しいなど、誰も言わなかった。だから、多分この話は前提が違う。俺にしかできないことじゃなくなるから」
「うん」
「そうやって、俺が助けなくてもみんなが健康に過ごせるようになることが一番だと思う」
「それは違うだろう」
「あぁ?」
「お前さんが教えてくれて、一緒に考えてくれるなら、薬草の栽培も薬の製造もうまくいくだろうが、お前さんの手は離さんよ。いてくれないと困る。難しい薬も必要だが、それは我々には手に余る。無理だ。お前さんにしかできない」
「それも教えてやる」
「そういうことは、いつか現れる弟子にしてやれ。俺たちはただ、お前さんが手を煩わせている部分のうちの、手伝えそうなところを少し手伝うから、助けて欲しいとお願いしてるんだ」
「……」
「お前さんが一日のうち、薬草畑で過ごす時間がどれだけ長いか俺は知っている。それが減れば、お師匠さんの残した書き物を読む時間が作れるんじゃねぇか?お前さん自身の書き物をする時間も作れる。すげぇ広い畑に同じのがたくさん植わってて、それを何日も掛けて収穫して、干したりなんだしてただろ?あれだって、この村から手伝いを出せばすぐ終わる。なあ、俺はそういうことを言ってるんだ」
「だから何度も言っている。貴様のそういう提案が、俺には過分だと」
「んー、じゃあ、そういう季節ものの手伝いをした後は、この村のガキどもに勉強を教えてやってくれ」
「はあ?」
「お、我ながらいい案だな……たまにでもよ、ガキってのは頭やらけぇから、教えたこと覚えんだろ」
「……」
「お前さんの仕事の邪魔はしない。無理のない範囲で、たまにでいい。森の中の道を整備したら、日帰りできなくもないだろうしな。まあ、いつでもここに泊まっていって欲しいが」
「貴様は」
「ん?」
「貴様はこの村の住人ではないだろうが」
「……そぉね」
それが俺にとっては今一番でかい問題だったりする。カイルに助けてもらって以降、俺は領主としての仕事を精力的にこなすようになった。側近は獣に襲われて頭を打ったのかもしれないなどと医者に話していた。俺は健康だ。なんといっても、カイルに面倒を見てもらったんだからな。まあ、恋の病を患っちまったから、アレだけど。酒も女もやめた。というか、そんなものにうつつを抜かしている暇がなくなった。潰れそうな村を助けることと、ほかにもそういう助けを求める村や領民がいるんじゃねぇかと考えたら、本当に時間が足りなかった。幸いというか辛うじてというか、喫緊に対応すべきはあの村だけだとわかって、そこからはぼんやりと考えていた話を具体的に詰め、さすがに側近たちに内緒にはできないからそれについての提言を受け、いつも溜息交じりに嫌味しか言わない側近が思いのほか協力的だった。
「私はあなたと違って、まともでまじめです。ちゃんとした領主さまの仕事の手伝いに、手間を惜しむ道理がありません」
まあ、口の減らねぇやつではあるが、頼りになった。そんな側近でも、俺があまりに家を空けることにはいい顔をしない。だからこれから先、俺がカイルに会うことは、なかなか難しい。でもほら、初恋って叶わないんだろ?じゃあしょうがねぇな。それでもやるべきと思ったことはやるしかねぇだろ。そんな風に、諦めつつ割り切りつつ、カイルにこうやってもう一度会えるのを楽しみにしてた。ようやく再会を果たし、これは参った、手放したくねぇ、諦めきれねぇって、心臓が叫んでいたとしても、俺は領主さまだからしょうがない。
「……貴様は」
「ん?」
「よくそんな風に、次々にいろいろ思いつくな」
「んー」
正直なところ、お前さんを口説き落とすのに必死なだけなんだけどな。なんつーか、この村の奴らとかも含めてうちの領地の人間全員、それなりに楽しくやって欲しいわけ。贅沢はできなくてもさ、ほどほどに、少なくとも明日の飯や、次の雨に絶望するような、そういうのはなくしたい。それとは別の感情で、カイルにはもっとのびのび自由に生きていて欲しい。誰からも縛られず強要されず、自分の意志で人を助けたり己を律する。そうやっているカイルが、俺は。
「明日、もう少し村の中を見て回ってもいいか」
「ああ、歓迎するぜ」
「俺はたぶん狭量で、物事を大局的に見たりできないんだと思う」
「そんなこたねぇだろ」
「いや。貴様の話を聞くたびに、そう思う。俺のことを否定もせずに、誰も損しない無理しない方法を提案してくれる」
「……」
「俺のやり方は、さっきもそうだが、ずっと間違って」
「待て」
あまりよくない方向だ。俺は慌ててカイルの言葉を遮って話を止めた。そんなことは望んでいない。
「俺はそんな御大層な人間じゃない。素人の思い付きだ。それに照らしてお前さんがどうこうなどと思われては困る」
「……」
「お前さんは立派で、賢くて、……めちゃめちゃ優しいから、そこに付け込んでるんだ」
「……そうなのか」
「優しいから、うちにも優しくしてもらえたらいいなって思ってるんだ」
「そうか」
「あの手この手で、お前さんを篭絡しようと目論んでいるわけだ」
「村一丸となってという話か」
「そうだ。でも、どんな手を使ってでもいいとは誰も考えてない。そこまで落ちぶれてない。だから、そうだな、そこだけ褒めてくれ」
「わかった」
「うん」
「この話を飲んでもいい」
「本当か?!それはありがたい」
「──まず一種類、薬草の栽培と、それを使った薬の作り方を教える。こちらで育てられそうで、あればあるだけいいという種類がいいだろう。俺のところで人手が必要な時は、この村の人に手伝いを頼む。栽培を任せっぱなしにはできないから、時々俺の都合がついたらこちらへ来て様子を見るし、そのついでに俺のわかる範囲で子供に勉強を教える。体調の悪い子や妊婦や村人がいれば、それは言ってくれればいつでも診るし薬もいくらでも渡す。道の整備はありがたい」
「お、おお」
「俺は今より空いた時間で、別のことに精を出す」
「うん」
「隣の領地へ薬は、今までどおり渡すし、呼ばれれば患者も診る」
「……うん」
「まとめてみたらわかるだろう。この取引に、俺の負担が全くない。不公平では?領主さま」
「え?どこが?」
「……?全体的にだ」
「そうか?わからん」
「……?」
「本当に、今の話で進めていいか?」
「……?ああ……」
「ありがとう。恩に着るよ。報酬を受け取る、ってのが抜けてるが、そこんとこも頼むぜ」
「礼を言うのはこちらの方だ。何度も言うが、非常に不公平だ。だからいつでも反故にしていい」
「俺はお前さんに惚れてるんだ」
「……は?」
村長にはとっくにばれていて、多分側近も気づいていて、それで何度も釘を刺された。きちんと領主としての務めを果たさない限り、私情を打ち明けるなと。ただでさえ我々とは違う価値観で生きている人間に、余計な情報を与えて判断を鈍らせたり混乱させたりするのは最低の悪手だと。それはそうだ。この話に俺の劣情が混じるとなれば、隣の領地の奴らと同じ範疇に入れられかねないし、俺のせいで全部拒否されかねない。でももういいだろ?今はっきり言質取ったもんな。
「お前さんに、惚れてる。今お前さんが、村との取引を承知してくれたから話してる。これは村との話とは全く関係ない、俺は領主でもなんでもなくて、ただの無駄に図体のでかい男の戯言だ」
「……」
「いずれこの村の人間はお前さんを慕うようになって、お前さんを大事にするだろう。今までその機会がなかっただけでお前さんはそうされて当たり前だ。いい奴だからな。誰でもそうだけど、何かできても、何かできなくても、そんなことを理由に理不尽な扱いを受けるなんておかしい。もしもお前さんが薬作らなくなったって、その値打ちは変わらねぇ。でも」
「……でも?」
「お前さんに惚れたのは俺が先。お前さんのいいところを発見したのは俺が先。誰よりも、先だ。言っときたかったんだよ、それだけ」
「……」
「安心してくれ。さっきも言った通り、お前さんを手籠めにしたりするつもりはねぇよ。そういうんじゃ、ねぇから」
怪訝そうな表情のまま固まって、カイルが俺を見ている。短くない年月を、虐げられていた。こいつを俺が救うとか、そんな話じゃなくて、ただ、あんな森の奥で一人でいるこいつを見つけられたのが嬉しくて有難くて、心底よかったなって思える。浮かれてこんな告白さえしなければもっと格好がついたかもしれないが、我慢できなかった。見返りなんか要らない。ただ伝えたかった。この先例えば、カイルが誰かと恋に落ちたって、そいつよりも俺が先に惚れたんだって。そこに意味なんかなくたっていいんだ。
「さぁて、寝るか。大丈夫さ、部屋は三つもある」
「……ああ」
「着替えもあるぞ。風呂もある」
もう少しだけ一緒にいられたらそれでいい。
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