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第37話
「マディーラ様?」
声を掛けられて
自分の意識がここになかった事に気づく
庭に植えた花の手入れをしていた
鋏を持ち
部屋に飾る花を選んでいた……つもりだった
マディーラは顔を上げて長年傍にいてくれる従者を見る
心配そうな顔をしている
ディラは優しく微笑んだ
「……なんでもない」
「お加減がお悪いのでしたら」
「いや。……でも少し、疲れたな。お茶を」
「かしこまりました」
昨夜はグリフォードに抱かれて
いつの間にか眠り込んでいたらしい
陽が高くなってからようやく目が覚めて
グリフはすでに出かけた後だった
寝台で身体を起こし呆然とした
何か粗相があっただろうか
国王陛下のお相手であれば
もちろん事が済めばその寝所を辞するのが当然だ
そのように習った
けれど愛しあう者どうしであれば一緒に眠って一緒に目覚めるのではないのか
どちらかが先に起きても相手が起きるのを同じ褥で心待ちに
そう、いつかの朝のように
なのにきっと従者が調えてくれたのだろう夜着を纏って
マディーラは一人で寝台にいた
「グリフォード様は、夜這いの作法で辞されたのです」
「……夜這い?」
「想いを伝えるために、夜な夜な通うことです」
「では今夜もグリフは帰ってきてくれるのだろうか」
「今の世では、時間のあるときに通うのが一般的なようです」
「……グリフは忙しい。だから、自分の部屋で、眠ったのか。仕事に差し支えぬように」
「朝、空の白む頃には辞するのが作法とされているのです」
「……そうか」
「グリフォード様は、離れがたいような素振りでおられましたが、わたくしがお帰り願いました」
「ルメルのすることに、間違いはないとわかっている」
後宮にいたときは
王宮後宮でのしきたりや作法をこのルメルに習った
外へ出る事になって
外でのしきたりや作法に疎いマディーラは迷わず彼を伴った
外出時の伴や身辺警護を任せているキブカと
身の回りの細々した世話を任せているオキノ
彼らはこころ優しく
常にマディーラの事を考えてくれている
オキノの淹れてくれたお茶が
庭の端に設えられたテーブルで湯気を立てている
それをマディーラはぼんやりと見つめた
添えられたお茶うけは
今日お邪魔したハルト様の家で一緒に作らせてもらったお菓子だ
子ども用だから甘いのだがと言いながら
ハルト様は優しく作り方を教えてくれて
グリフォードに食べさせてやれば喜ぶだろうと持たせてくれた
ディラは白く細い指でそれを摘みあげる
「……甘いなぁ」
後宮ではそれほど贅沢はしていなかった
もちろん貧しくもなかったし倹しくもなかったけれど
一般に思われているほど怠惰に金をかけた生活ではない
だから
甘いお菓子だって飽きるほど食べていたわけではない
だからひどくおいしく感じた
ハルト様の家で食べた時は
なのに今はただ甘いだけ
グリフと食べたかったから
きっとグリフはディラが作ったと言えば驚いてくれて
おいしいおいしいと言ってくれただろう
「……夜這いは、どうなればいいのだ?」
「どう、とは」
「抱かせて欲しいと通うのではないのか」
「ああ……それもあるようですが、ある程度気持ちがあって、自分のいい人になって欲しくて交わるようです。愛を注いで気持ちを固めてもらうために」
「愛しあう者どうしでも、夜這いなのか」
「色々な状況があるようです」
「……どうしたら、応える事になるのだ」
「お相手の望むお返事を差し出せば」
結婚か
何故それにこだわるのだろう
一緒に暮らし
愛していると囁きあい
夜は同じ褥で愛を交わす
形にこだわる必要があるのだろうか
グリフォードの願いは叶えてあげたいけれど
「マディーラ様……思いつめてはいけませんよ」
「うむ……」
「グリフォード様はよい方です。マディーラ様のお話にもきちんと耳を傾けてくださるでしょう」
「うむ」
「一度も、マディーラ様に無理強いをしたことはないのではありませんか」
「うむ。一度も。グリフは私のして欲しい事もして欲しくない事もちゃんとわかるのだ。私が自分でもわからず違う事を口にしても、グリフはわかっていて」
「素晴らしいお方ですね」
「……でも、私はわからないのだ」
遠く感じると言えばここにいると抱きしめてくれる
愛していると伝えれば怖いくらいの愛で返してくれる
彼に抱かれて
愛されるとはどういう事なのか
相手のこころも身体も欲しいという欲望
昂められて何も考えられなくなる感覚
そんなことを覚えてしまった
習っていたのとは
頭で考えていたのとは比べ物にならないほどの激しさだった
もう彼なしでは生きていかれない
愛し合う事を知らなかった頃には戻れない
なのにグリフォードの想いを受け止められていない気がする
「お嫁さんか……」
「……マディーラ様。何も気に病まれる事はありませんよ。何もかも、愛し合う者の前には瑣末な問題です」
「……それでも、私には大きな問題だ」
「二人の前には、小さい事かもしれません」
「……わからぬ」
「マディーラ様がこちらへ来られて、色々ございました。でも、まだ数日です。急がれる必要はございませんよ」
「……でも、グリフが」
「待たせておけばよろしいのです。ご自分を大切にする事が、何よりも肝要です」
待たせる?
これ以上?
そんな事をしてグリフが離れてしまわないだろうか
マディーラは甘さの残る口においしいお茶を含んだ
あの人を失くせば生きていくことはきっとできない
「グリフォード様は、お優しい方です」
「うむ。知っている」
「だから、少し不安を覚えられるかもしれません」
「……不安?」
「大切なマディーラ様が憂いておられては、何があったのかと」
「……うむ」
「思い悩まれることは、悪い事ではございませんよ。けれど、グリフォード様と話し合われるのがよろしいかと存じます」
「なんだか……私だけが、揺れている気がして」
グリフはいつもまっすぐにディラを愛していると言う
そしてその愛を伝える術もわからせるやり方も知っている
なのにディラは
自分の気持ちにも身体の変化にもうまくついていけない
昨夜ようやくグリフを愛していると腑に落ちたけれど
朝起きて独りだっただけで
こんなにも簡単に悲しくなってしまう
グリフォードがどんなに優しいか知っているのに
彼の仕事がいかに大切で忙しいか知っているのに
離れないで欲しいと叫んでしまいそうになる
そんなことをグリフには知られたくない
浅はかで身勝手な男だと思われたくない
「マディーラ様」
「うむ」
「グリフォード様を愛しておられるのですか」
「うむ」
「でしたら、今色々と悩んでいる事をお伝えせねばなりません」
「……で、あろうか」
「愛する人を悲しませるのは大罪です」
「もちろんだ。私はグリフを悲しませたりしたくない」
「お優しく聡いグリフォード様なら、マディーラ様のご心労をすぐに見抜かれます」
「グリフは、とても優しいから」
「ええ。そんなグリフォード様は、マディーラ様を問いただすことも出来ずに悩まれるでしょうね。マディーラ様は何にこころを悩まされているのか?自分のせいではないだろうか?」
「うむ……」
逢いたい
口づけをして
あの太い腕に抱き締められて
優しい声でどうしたのだと言われたい
愛していると何度聞いても足りないから
ずっと傍で離れずに
グリフォードに逢いたい
「……グリフは、いつ戻るのだろうか」
「使いをやりましょうか」
「……いい。かまわぬ。待っていればいつかは帰ってくる」
「で、ございますね」
この家でグリフの帰りを待つのは私だけだ
マディーラはその事を自分に言い聞かせ
必ず帰ってきてくれる人を待つしあわせを感じた
少しの寂しさくらい平気だ
グリフが自分の元へ帰ってきてくれるのなら
「逢いたいのだ、早く」
心地いい風が吹きぬける庭で
マディーラはグリフを待ち続けた
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