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第46話
マディーラが夕方前に戻ってきた
お戻りでございますよ、と知らされて
玄関まで迎えに行く
半日ぶりに見ても美しい婚約者は
手にたくさんの箱を持っていた
後ろに控えるキブカに比べれば少ないけれど
グリフはディラの手からそれを受け取ってやる
「グリフ!ただいま!!グリフにただいまと言うのは初めてだな」
照れたように嬉しそうに
ただいまを繰り返すディラは本当にかわいい
鼻の下が伸びる
「おかえり、ディラ。ずいぶんな荷物だな」
「うむ。ジリーから預かってきた」
「ああ……またそんなに」
「日持ちのするものは、明日持って出かけてもよいだろうか?」
「そうしよう。ちょうどいい弁当になる」
「うむ」
「楽しかったか?」
「なにがだ?」
「うん?今日一日だ」
「……うむ。大変有意義だった。私は今日、とてもたくさんのことを教えていただいた」
「それを俺に聞かせてくれるか?」
「少しなら」
「なんで!?全部聞きたい!!」
そわそわしながら帰りを待っていたのだ
夕餉にはまだ少しある
一緒にお茶を飲んだり交わったりしながら
今日の出来事を聞かせて欲しいのに
マディーラは真剣な眼差しでグリフを見上げた
「グリフ、私は今から明日の準備に取りかからねばならぬ」
「恐ろしい冗談はよしてくれ」
「冗談ではない」
「俺にまだ一人で過ごせと言うのか……」
「ゆっくり寝られたか?」
「眠っていても、ディラの夢ばかりだった」
グリフは妹の手料理が詰まっているらしい箱を
そばに控えていた従者に渡すと
空いた腕でマディーラを抱え上げた
「グリフ、待ってくれ」
「俺はとてもいい子でお留守番をしていた。ご褒美が欲しい」
「明日の一大事に備えたいのだ」
「何をするのだ?」
「それは……言えぬ」
「最近のディラは、なかなかに謎めいているな」
グリフは廊下を歩きながら美しい髪に口づけた
そのままマディーラのこめかみに唇をすべらせる
「愛してる、ディラ……あまり寂しい思いをさせないでくれ」
「すまぬ、そんなつもりでは」
「わかっている。ディラは俺を恋しく思ってはくれないのか?」
「何を言う。私はグリフのことばかり考えているのに」
「では」
グリフは自室へたどり着くと
大股で部屋を突っ切って寝室へ向かった
寝台のそばでディラを床に降ろし
目の前に立つ愛しい人を抱きしめた
「少しだけ、ディラ、俺のそばにいて」
「グリフ……」
「愛してる……ディラ。明日の準備は、ちょっと後回しにしてくれないだろうか」
「……うむ。では、そうしよう」
「夕餉まで、ここに」
「うむ。愛してる、グリフ。そばにいたいのは私もだ」
「そうか」
グリフはとけそうな笑顔でマディーラを見つめた
彼の腕が自分の腰に回るのが嬉しくて
何度も何度も名前を呼んで唇を寄せる
「ん……グリフ……」
「かわいいディラ。愛してる」
「グリフ……グリフは私の特別な人だ」
「え?」
赤くぽてりとふくらんだ唇を解放し
グリフは両手でディラの顔を包んで覗きこんだ
鮮やかな紫の目はうっとりと細められている
ディラの手がグリフの手に重ねられた
「グリフ……愛してる」
囁くようにこころを込めて
ディラがそう言う
グリフは胸を鷲掴みにされたような気分で彼に口づけた
愛しいマディーラ
「ジリーは素晴らしい方だった」
「ああ」
「お料理も大変お上手だし、ハルト様も彼女は優秀だと褒めておられた」
「そうか。確かに優秀だ。ちょっと気が強いが」
「軍人だから、強いのはよいことだと思う」
「方向性がアレなんだが……」
甘い口づけを何度も交わして
身体を重ねようかと思ったけれど
昨晩も今朝も抱き合ったではないかとディラに諭された
ゆっくり話をするのもよいだろうと
美しい顔で微笑まれては頷くしかない
結局お茶を淹れてもらい
夕餉が近いのでお茶うけはディラの土産話
「ハルト様はお元気だったか」
「うむ。子らは今日、河へ遠足だったそうだ」
「いい季節だからな。あの家の子が河へ行ったのなら、今は水軍が頑張っているのだろう」
「え?」
「この国の河は、水軍の領域だ。アルム将軍の睨みが効いている間は、河は安全だ。将軍ご夫妻は安全ではない場所にわが子を送らないだろう」
「……そうか。効かなくなったら」
「敵が船で上がってくる。まあ、首都から気軽に足を伸ばせる距離にまでは来ないけれど」
「それは、なぜ」
「もちろん境界で水軍が止めるからだよ」
「闘うということか」
「ディラ」
グリフの腕がマディーラを抱き寄せる
いつもは進んでグリフの胸に収まるディラが
トン、と肩に頭を乗せただけで黙り込んだ
グリフも黙ってディラの手を握る
「……グリフ、首都にも危険はあるのだな」
「なくはないが、怪我をするほどではない」
「しかし」
「俺は今の立場になって一度も血を流していない」
「……そうなのか」
「ディラ……どうか不安にならないで。大丈夫だよ」
グリフはマディーラの顔を覗きこんで優しく笑い
明日はどこへ行こうかと殊更楽しそうに聞いてくる
マディーラは目を閉じてしばし息を止め
ふう、と吐いて目を開けた
「グリフの言葉を信じている」
鮮やかな紫の目がグリフを映す
グリフは力強く頷いた
「ああ。それでいい」
ディラはぱっと笑顔になって
グリフの胸にしがみつく
「うむ!明日は河へ行くのか。花畑ではなかったか」
「両方だ。花畑で弁当を食べよう。河で舟に乗ろう。ディラ、舟遊びをした事があるか?」
「陛下のお伴で一度だけ……でも、その舟はあまり動かなかった」
「ん?」
「王宮に流れる川はあまり大きくない」
「ああ、あれか」
首都の真ん中にある王宮
その広大な敷地には川が流れている
正確には水路なのだけれど
王宮の庭園の流域はとても綺麗に整備されていて
年に一度か二度
数隻の舟を浮かべて陛下が川下りをされると聞く
深さも幅もない川で流れも遅く
下るというほどの距離を移動はしないのだけれど
美しく飾られた舟がゆらゆらと浮かぶ様は壮観らしい
ディラはそれを言っているのだろう
「ディラ、明日乗る舟はあんなに豪華ではないぞ」
「かまわない。私が舟を漕いでもいいだろうか?」
「ああ。俺が教える」
「うむ!魚は?」
「いると思うが、ディラ、あまり川面を夢中で覗くと舟から落ちる」
「では、グリフがしっかり私の腰紐を持っていてくれ!」
「そうだな、了解した。思う存分覗くといい」
「嬉しい!」
かわいいなぁ、俺の婚約者は……
グリフは心底そう思いながらディラを抱きしめる
そのあと一緒に夕餉を囲み
マディーラはグリフの背中を押して自室で休めとせっつく
一緒にいようと言っても今日はダメだの一点張り
見かねたキブカが控えめに声を掛ける
「マディーラ様。明日の朝、キブカが責任を持って、間に合うようにお迎えにあがりますゆえ」
「しかし、朝だけでは……自信がない……」
「なんのなんの。キブカの目をお疑いですか。マディーラ様、明日の朝でも、万事恙無く調いましょう」
「で、あろうか……うまく……」
「はい。大丈夫です。それにゆっくり休まれませんと、明日の遠足に障ります」
「ああ、それはいけない!グリフ、さ、寝よう!」
「えええ!!?」
何がなんだかさっぱりわかんないっ
まあ……明日何かを用意しようとしてくれているのだろう
花ではなさそうだ
弁当だろうか?
しかしディラがおさんどん?
……ないな
後宮仕込みの一発芸とか……それもないか
お茶かな
この間とても真剣に淹れてくれたなぁ
また飲みたいなぁ
「ディラ、愛を交わさないのか」
「グリフと愛し合うと寝るのが遅くなる」
「それはあまりにも色気がなさ過ぎる断り方では……」
「すまぬ……でも、明日は朝が早い」
「うーん。よくわからないけれど、ディラが行こうと思う時間に出かければいいのだが」
「ダメだ!朝早く出かけねば、遠足の時間が短くなってしまうからっ」
「わかったわかった」
たった今夕餉を終えたばかり
ましてや今日一日
グリフは朝寝をして昼寝をして不貞寝までしたのだ
眠れるはずもない
身体動かさないと無理よ!
グリフはキブカに目顔で礼を伝えて
マディーラの手を引いて自室へ戻った
ゆっくりしっかり寝るために湯浴みをしようと誘い
贅沢に湯をはった大きな湯船に一緒に入った
グリフの家の湯殿は広くて豪勢だ
新しく建てた家ではないので
以前住んでいた人が風呂好きだったのだろう
完全に庶民のグリフォードは髪も身体も自分で洗うけれど
マディーラはしたことがないので従者がしてくれる
グリフはあっという間に泡まみれになって
あっという間にそれを洗い流し湯船に浸かり
マディーラが泡まみれにされるのをのんびりと眺めている
彼の豊かな髪は丁寧に洗われて頭の上で一つにまとめられ
ようやく湯の中に入ってきた
従者は頭を下げて消える
ディラの着替えや髪を整える準備をするのだろう
「私も自分のことは自分でしようと思うのだ。ここは後宮ではないのだから」
「俺がディラの髪を上手に洗えるように、教えてもらおうと考えていたのだが」
「それではいつまで経っても、私は自分の髪が洗えない」
「いいじゃないか」
「切ればよいだろうか……長いから人の手が掛かるのだろう。朝も夜も」
「どうかそのままに。ディラ」
「……グリフがそう、望むのであれば」
「ああ。ありがとう」
「うむ」
グリフは湯あたりをしない程度にディラに性的ないたずらをして
何もしないで寝るなど無理だというところまで追い詰めてから湯場を出た
いたいけな婚約者は自分の仕掛けた罠に見事に嵌ってくれる
あまりに自分に対して猜疑心を持たないので
返って申し訳ない気持ちになるほどだ
無邪気さというのは時に周りに己の汚れを自覚させる
……ま、汚れてるしね、実際
遠慮なくいただいちゃいまーす
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