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第50話

深く広い河の真ん中は 下流に近いこともあって流れは穏やかだ 少し強い向かい風と水の動きを読めば あまり動かないでいられる 初めての小舟に興奮したように頬を赤らめているディラを グリフは出来るだけ長く見ていたいと思った 「綺麗だ……河の水も透明でキラキラしてるし、こちらから見る河岸もとても新鮮だ」 見た目は質素だけれど 有事には仕事を与えられる舟だ ディラが尻でズリズリと右往左往しながら景色を満喫しても 舟体が傾ぐ事はない 実際は別に立ったところでどうという事もない 立ち上がって予期せずふらついた時に 舟は無事でも多分ディラが落ちるだろう 落ちないようにかばう事も 落ちた後に助け上げる事も グリフには造作もない事だけれど それでも愛する人をそんな危険には晒せないし 自分の能力を過信する恐ろしさも知っている そしてランズの言う通り 河の優しくなさはグリフも身に染みている 「グリフ!地面と同じだ。水も温かい!」 「うん、そうか」 ディラはグリフのある種の職業病的な緊張感をよそに 袖をまくった腕を河に差し入れて遊んでいる たおやかな手が水を掬い 細く長い指を伝って落ちていく トプン バシャバシャ ザブザブ パシャン 軽やかな水音とディラの笑い声 グリフはのんびりと両手で櫂を操りながら いつもより離れて座るディラを眺めて目を細めた ディラは河の中を凝視していたけれど パッとグリフを見た 「うん?魚がいたか?」 「いた!と思う……あの、立たぬ、底に座ってもいいだろうか?」 「汚れるよ」 「構わぬ。もう少し近くで見たい」 「そうか。気をつけて」 「うむ!」 ディラは舟に設えられた板を渡しただけの椅子のような場所から 立ち上がらないように腰をずらしてストンと舟底に尻をつけた 確かに椅子の高さの分だけ視線が下がって 河の中が見やすいだろう 近い近い!とはしゃぎながら水を叩き ディラは魚の影を探している 「ディラ、手を入れるから魚が逃げるのだ」 「あ、なるほど……驚いてしまうのだな」 「そう。静かに、じっとしててご覧」 ディラは声さえ出さずにコクコクと頷き 舟の縁を両手で掴むと その自分の手の甲に口元を押し当てて熱心に河面を眺めている グリフもそっと櫂を上げ 魚が寄ってくるよう流れに従う 「あ……っ!」 「いたか」 「いた!たくさんいる!」 囁くように小さな声で ディラは河から目を離さず嬉しそうにグリフに告げる なんて無邪気で可愛いのか、俺の婚約者は…… グリフは櫂を置いて自分の膝に両頬杖をつき 愛しい人の横顔を思う存分愛でる すると ディラが覗き込んでいるのと反対側で魚が跳ねた 何か獲っているのだろうか 大きな魚が何度も宙を泳ぐ 「ディラ、あっちに……ってうわあああーー!!!!」 グリフが跳ねる魚を見ていたほんの僅かな隙に ディラの上半身が消えていた 正確にはディラが舟外に大きく身を乗り出し あろう事か河の中に顔と片腕を突っ込んでいる グリフは慌てて腕を伸ばしてディラの腰を引き寄せ 彼の上半身を回収した 引き揚げられたディラはプハッと息を継ぐ 「なんて危ない事をするんだ!」 「立っていない」 「そういう問題じゃないよ、すでに!」 「河の中を見たかったのだ。手が、届きそうで」 グリフはディラと同じく舟底に膝をつき 懐から手ぬぐいを出してディラの顔を拭く ディラはグリフの大声に意気消沈してしまい しょんぼりしてされるがままだ 「……すまぬ」 「いや、俺こそ大声を出してすまなかった」 「私が浅はかだった。危険なのだと聞いていたのに」 「……そうだな。ディラのする事を止めたくないという気持ちより、あなたを危ない目に合わせたくないという思いの方がずっと強い」 「うむ」 「愛してる。大事なんだ、ディラが」 グリフはこころからそう言って 少し冷たいディラの唇を指先で撫でた ディラはまぶたを下げてそっとグリフの手に触れる 「私も、グリフに心配をかけた事を後悔している。判断を誤った事を反省している」 紫の目がじっとグリフを見つめる グリフは自分が騒いでしまった事こそを恥じた 安心させるように笑顔でディラに頷き返す 「もういいよ。それで?」 「うむ?」 「河の中は如何だった」 「凄かった!!透明で光があちこちから射して、魚が泳いでいて、河の底に草がユラユラしているのだ!魚も、いろんな種類がいて、魚じゃないのもいるのだ!」 「ふ……そうか」 ディラは満面の笑みで河の中の様子をグリフに聞かせる あの一瞬で見事な観察力に感心する ディラといて多少のハラハラはあって当たり前だ 自分の気持ちに素直な彼が愛おしい 「グリフは覗いた事はあるか?」 「河の中を?ディラのようにはないが、泳ぐときに」 「私も泳ぎたい!」 「では暑い日に、また来よう。ああ……服も髪も濡れてしまって」 「すまぬ」 「もういいよ」 「グリフが……怒ったかと思った」 ほんの少し心配そうな顔でディラがグリフを見る ああ、俺はなんてダメな男なんだろう グリフはそう自嘲して苦い顔をした 隠していてもこうやって露呈する 少しでもよく見せたいと願っても 虚勢は簡単に瓦解していく 「グリフ?」 「……実はな、ディラ」 「……何か」 「俺は」 背後で魚の跳ねる音がした ディラはそんな事にさえ気づかないほど グリフ以外目に入っていなかった グリフは意を決して彼の両手を握る 「ディラ、俺は怖がりなんだ」 「……うむっ?」 「怖がりでビビりで心配性で根性なしなんだ、本当は」 戦績においては飛び抜けた軍人ではあるけれど グリフは自分をそう分析している だから想定外の事に驚くし、慌ててしまう 仕事の時は自我を圧縮しているのでそういう事態にはならないけれど 「……」 「呆れたか」 「え?いや?何故?」 「ディラ」 「それはグリフの秘密だろうか?」 「ああ……秘密だ。でも、ディラに知って欲しかった」 「そうか。もう、怖がらなくていい。私がいるから」 ディラはギュッと手を握り返し グリフに優しく口づけた 「怖がりのグリフを驚かせないように、私も気をつけようと思う。だから、心配しなくていい」 ディラが華やかに笑う グリフは胸を締め付けられるような気持ちで 彼を抱きしめた 「愛してる、ディラ」 「私も、グリフの全部を、あるがままを」 甘く囁きあって唇を触れ合わせる そばを通った船から冷やかしの声が飛んできたけれど そんなものさえ祝福に聞こえる 愛してる 何度言っても足りないほどに 「おいで、ディラ。舟を漕ぐのを教えよう」 「うむ!」 グリフは元の場所に座り ディラに隣に座るように言う 立つなという厳命が頭にありすぎてディラの動きは不自然そのもので それが可笑しくてグリフは笑ってしまう 「ふぅ……立たないで動くのは難しい」 「くくく……そうだな」 「二人ともがこちら側にいても、舟はひっくり返らないのか?」 「ああ。重りも積んでるし、計算されてるから」 「舟を作るのも、素晴らしい職業だな」 「同感だ」 グリフは上げていた櫂を水に戻し 片方をディラに握らせる やる気満々でディラは次の指示を待っている 「単純な動きだ。あちらへ進むには」 グリフはディラの背中から腕を回し 彼を抱えるようにして両方の櫂を操りながら 漕ぎ方を説明する ディラは手を添えているだけの状態の櫂を見つめて グリフの言葉に頷いている 「では、どうぞ」 「両方か?」 「片方だけを動かすと、舟がクルクル回る」 回るっ 回したいっ そんな顔をディラがしたけれど その動きは失敗だとグリフが言うと 回ってはいけないのだな、と納得したようだ 「では、グリフ、少し退いてくれないだろうか」 「失礼」 グリフがさっきまでディラが座っていたところに移動し こちら側の櫂も降ろした 「グリフも漕ぐのか?」 「いや。今はディラが一人で漕ぐ。出来るようになったら、二人で漕ごう」 「承知した。しばし、待っていてくれ」 「ああ」 そこからのディラは大変熱心だった 口も聞かずに黙々と櫂を揺らし 水が跳ねても怯みもせず まあ、動く舟から河に顔を突っ込むのだからその程度で怯むはずもないが とにかくグリフが思うほど手こずってはいないようだった それでも密かにグリフは自分の握る櫂を動かして 軌道を多少操ってはいたけれど 「ディラ、すごいな。巧い」 「そう、だろうか。少しコツがわかった気がする。手綱を操るのに似ている」 「ああ。そうだな」 「しかし……もう、限界だ」 「放していいよ」 「うむ」 ふう、と深い息をついて ディラはそっと櫂を手放した 手のひらが痛むのだろう 手首を振って少し顔を顰めている 今日はここまで馬で来て それだけでも多分手が痛かったに違いない 「大丈夫か」 「うむ」 「診せてごらん」 「うむ……なんだか情けない」 「何が?」 「グリフは何ともないのに」 「そうだな。でも、俺は料理はできない」 グリフはディラのそばに膝をついて 彼の手のひらを確認する 赤くなってはいるけれど 水ぶくれも傷もなさそうだ 薬を塗ろうかと考えたけれど 痛みが引くように祈りながら口づけるだけにした 「二人で漕ぎたかったのに」 「次に来た時のお楽しみだ」 「はぁ……でも、すごく楽しかった」 「そうか。よかった」 「……グリフ、お腹は空かないか」 「え?魚なら、食べようと思わないが……」 「違うっ!」 ディラの事だから 泳ぐ魚を掴めるとか言い出すのかと思ったのだが違うらしい ちょっと頬が赤いのは怒ったのかもしれない 「すまん、何か持ってきているのか」 「う、うむ」 「まさか、またディラの手料理か。余りのしあわせに、俺は息が止まってしまうぞ」 「あ、では、ダメだ。出さぬ」 「冗談だ。食べたいなぁ」 グリフはディラの隣に座って櫂を動かし 流れに乗って岸へ近づいていた舟を河の真ん中へ戻す そういえばディラは腰に袋を下げていた ディラはそれを慎重に外して中身を覗きこむと 安心したように頷いている 「なんだ?」 「グリフ、あーんして」 「あーーーーーん」 ヤバイ ディラの素直さに涎が出そう グリフはかつてないほどの馬鹿面で口を開ける ディラは袋から出した何かをそこへ放り込んだ 「……あまい」 「うむ。お菓子だ」 「お、おお……!うまい!あまい!ディラはお菓子まで作れるのか!!」 「これは、一人で作ったのではない。昨日ハルト様と一緒に」 「でも、ディラも一緒に作ったのだろう?」 「うむ……」 「……ああ、もしかして、俺のいない日にもこれを作ってくれたか?」 「何故それを!?」 「そうか……すまん、無駄にしたか」 「いや、みんなで食べたから」 「悔しいなぁ……ディラの初めて作ったお菓子を食べ損なうなんて……」 「グリフ?」 「おいしい。もっと」 「うむ。はい、あーん」 ディラはグリフにお菓子を食べてもらいながら これを初めて作ったときに 上手に作れたか将軍家の子等に味見をしてもらったという話をした 生まれて初めて誰かのために何かを作った気がすると そしてそれをグリフにあげたかったのだと 「すまなかった、ディラ。帰れなかった日の事だな」 「今食べてもらえたから、いいのだ」 「でもやはり、最初というのは値打ちが違う。それを食べ損なった……」 仕事だったのだから仕方がないのだけれど とてもとても諦めきれるものではない 悔しい…… 項垂れるグリフの頭をディラが撫でて微笑む 「今日グリフに食べてもらったお弁当のおかずは、私が初めて一人で作ったものだ」 「ディラの初めては全部欲しい」 「では、初めて一人で作ったお菓子を、グリフに」 「ああ!それは必ずだ」 「うむ」 ディラがまたお菓子を差し出す グリフはそれを噛んで受け取ると ん、とディラに近づけた ディラは少し驚いていたけれど 小さな口でその半分を受け取って食べた 「おいしい」 「ああ。ディラが作るものは何でもうまい」 「まだ、二つだけだ」 「二つともうまいのはすごいことだ」 「……で、あろうか」 「ああ。ディラ、愛してる……料理をしているディラも素敵だろうな」 グリフがうっとりとした表情でそう呟くと ディラは困ったような顔で少し首を振って見せた 「……あまり、見せたくはない」 「なぜ?」 「バタバタと落ち着かず騒いでいるし、とても取り乱して必死だからだ。気がつくと、顔や服も汚れている」 「ますます見たい」 「ダメだ。きっと、百年の恋も冷めてしまう」 「百年分の愛を伝えたくなるよ、間違いない」 「グリフは、どうしてそう、甘い言葉ばかり寄越すのだ」 「んー?愛しているからだ。考えなくても勝手に口から出てしまう」 デレデレだ どうしようもない どうしてこんなに愛しいのだろう ディラがかわいいからだよねっ! グリフは脂下がった締まりのない顔で すぐそばの美しい顔を眺める 「……百年分の、愛」 「うん?」 「グリフ」 「どうした?」 「……私はグリフに初めて逢ったときのように、後宮を出てきた時のように、グリフに好きになってもらえる男ではなくなったかもしれない」 吹きつける風がディラの言葉を攫っていく ディラがいなくならないように グリフは彼を抱き寄せた ディラはおでこをグリフの肩に擦り付ける 「そうか」 「でも、気持ち、欲だけ、どんどん増えるのだ。醜く浅ましくはしたない」 「そうか。では俺も、醜く浅ましくはしたないな」 紫の目を覗きこもうとしたけれど ディラは顔を伏せてしまった グリフは櫂を上げて本格的にディラを抱く 「俺は、ディラを愛してる。何もかも全部欲しい。どうだ、すごいだろう」 「グリフ……」 「しかたがない。そんな欲は、愛すれば愛するほど増える。だから俺はその欲に胸を張るよ。ディラを愛しているから、欲しいんだ」 「グリフ……グリフが好きだ。愛してる。だから、嫌われるのは、嫌なのだ」 「嫌わない」 「勝手に河に顔を突っ込んでも?」 「っ……嫌わないっ」 ディラは真剣だ だからこそグリフは渾身の力で笑いを噛み潰した そしてふと心配になる ディラは何故こんなことを言い出したのだろうかと 「愛している、ディラ。約束して……もう二度と、俺を疑わないで」 「疑って、ない」 「いいや。ディラは疑った。俺があなたを嫌いになるかも知れないなどと」 「だって」 「約束するよ。ずっとあなたを愛していく」 「約束……」 ディラがようやくグリフの方へ顔を向ける ああ、綺麗だ グリフは彼の両頬を両手で包んで愛してるという言葉を重ねる 「そう。ディラが俺を愛してくれる限り、俺は必ず応える。その愛は完璧じゃなくてもいい。冷めたり、割れたりこげたり、ちょっと甘さが足りなかったり生焼けだったり。もしそんな愛でも、それでも俺にとっては何よりも大切だ」 「私の愛、が、グリフが欲しいもの?」 「ああ。ディラの愛があればいい。誰にも渡さない。俺だけがあなたを食べたい」 「私も……グリフの愛が、欲しい」 「何もかも、ディラ、あなたのものだ。欲張って」 「ん……」 この揺れる舟のように 俺の愛にあなたを乗せてどこまでも一緒に進んで行こう あなたの愛があれば俺の腕はいつまでも舟を漕げるだろう

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