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第51話

「グリフの、私に渡したいものはまだ教えてくれぬのか」 「あー……まだ、用意が調わんのだ」 「そうか。すごく、楽しみだ」 「俺も、早く渡したい」 「うむ」 河はいよいよ拡がり勾配をなくし 水の流れはほとんど感じない 櫂を四本とも上げていると ゆっくりと舟が横向きになったりするほど穏やかだ グリフはそれをいい事に ディラを抱きしめたまま放さない ディラは動かないようで変わっていく景色と 跳ねる魚や飛んでいる鳥を指差して まだまだ舟旅を楽しんでいるようだ だからグリフはディラの口数が少なくなっていったのを深く考えなかった 「……グリフ」 「んー?」 「……私の秘密を、話したい」 「え?」 腕の中からグリフを見上げるディラは さっきよりもずっと思いつめた顔をしている これ以上まだ秘密があることにグリフは驚いた ディラは隠し事のできる人ではないからだ よいか?と聞かれてグリフは頷くしかない 「……結婚の事だ」 「ディラ、それは」 背筋を伸ばすようにディラがグリフの腕から抜け出す グリフは名残惜しくて彼の頬を撫でた 結婚の話でディラがこういう顔をするのは嫌だった なのにディラは話を続ける 「昨日ハルト様に、気づかされた」 「え?」 「私はずっと、何故すでに一緒にいられるのに、グリフや周りの方々は婚儀にこだわるのかと考えていた」 「……ああ」 「でも、ハルト様に言われたのだ。一番こだわっているのは私自身だと」 「ディラが?」 「……自分の考えが、ひどく、稚拙で浅はかだと気づいた。そしてそんな考えでグリフの望みを叶えてあげられなかったことを」 「ディラ、いいよ。したくなればしよう。それでいいと、俺は言っただろう?」 今あるしあわせに満たされている だからグリフはもう婚儀にこだわっていないつもりだ ディラは強く首を横に振った 「一番大切な約束、だから」 ディラが珍しく強い口調で言い切った グリフは口を噤む そしてじっとディラの言葉を待った 「……すまぬ。うまく、言えない」 「かまわない。全部聞くよ」 「……グリフのお嫁さんに。あの日の約束を胸に、ただそれを想いながら、私は多分、そのために生きてきたのだ」 「ディラ……」 「グリフに逢いたかった。逢えて嬉しかった。考えていたよりもグリフはとても素晴らしい人で、私を愛してくれた。私に愛しあう事を教えてくれた」 「俺もだよ。ディラに教えてもらったんだ」 それは本心だ こんな風に愛し合うことがしあわせで気持ちよいことだと 教えてくれたのはマディーラだ 笑顔と純真さと天真爛漫な人柄 愛しくて愛しくてこころが満たされる感覚 なのにディラはまた首を振る グリフも真似するように首を振り彼の手を握った 「何故?俺もあの日の約束を胸に生きてきた。同じだよ。ずっとあなたに焦がれていた」 「でも」 「ディラは、何を不安に思うんだ?」 ディラはきっと不安なんだろう それがどんなものであっても グリフは受け止めて取り除きたいと願う 「……お嫁さんになるのが嫌なのではない。結婚するのが嫌なのではないのだ」 「ああ」 「ただ、その唯一のように抱きしめていた約束が果たされた時、自分はどうしたらいいのかわからなく、なりそうなのだ」 そう言うと ディラは辛そうに眉根を寄せて俯いてしまった 支えのような絆のような自分の一部のような約束 それがなくなってしまえば 「だから、もっともらしい言い訳で、グリフの気持ちを退けてきたのだと思う。もちろんはじめは本当に愛し合う事がわからなかったのだけれど、……許して欲しい」 「不安にさせたな……すまなかった」 「グリフのせいではない。少し、怖いのかも、しれない」 「それがディラの秘密か」 「……うむ」 ディラは暗い表情で流れる水に目をやっている そんなディラとは正反対に グリフは安堵の笑みを浮かべた そして愛しい名を呼ぶ 「もう大丈夫だ」 「……どうして?」 「傍にいるからだ」 「わからない……グリフ」 「ディラはこれから忙しい。不安になる暇がない」 「え?」 「新しい約束が溢れているだろう」 「新しい、約束」 「そうだよ」 たった一つだけ約束を交わして それっきりずっと長く離れてしまっていた だけど今はこうして口づけできるほど傍にいる 二人は毎日でも約束を交わせる 「忘れたのか?今日、茶屋へ寄ったな」 「うむ」 「その時、今度一緒に酒場へ行こうと言った」 「……うむ」 「あの店で分けてもらったお茶を、今日家で一緒に飲もうと言った」 「うむ」 「木を、また見に来ようと」 「グリフ、花もだ」 「そうだった。後は、舟も二人で漕ぐと約束したなぁ」 あの約束は大切で唯一だ それでもそれはただの約束に過ぎない 果たされたからといって何も失わない これからもたくさんの約束をして その約束を果たしていこう 二人の約束はどんな小さなものでも違わないと約束しよう 俺はいつか将軍に あなたはいつか俺のお嫁さんに その約束が果たされる日を一緒に迎えよう 優しく何度もディラの肩や背を撫でて グリフは噛んで含んで言い聞かせる 何も不安にならなくていい 俺たちが愛し合う日々に変わりはないのだからと マディーラはゆっくりと息を吐き 力を抜いてグリフに寄り掛かる 「グリフは、すごい」 「何がだ?」 「私の、とても大きくて重い悩みを、一瞬で消してくれた」 「ディラも俺の疲れを一瞬で消せるんだよ」 「そうなのか。私もすごいのだな」 「そう。ディラはすごいのだ」 俺をこんな風にしあわせにしてくれた あなたを愛したいと強く願う 柔らかい唇を啄ばみながら 愛しい人だと何度も言う 「ディラ」 「うむ」 「二人がたどり着きたい場所が同じで、そこへ一緒に歩んでいけるのなら、どんなに道草しても立ち止まっても遠回りしても、かまわないと俺は思うよ」 「……うむ」 「だからどうか、俺の愛だけは信じていて欲しい。それを失う日は来ない」 「うむ」 「愛してる、ディラ」 「遠足みたいだ」 「ふえ?」 我ながらいいことを言ったとご満悦で うっとりとマディーラを抱き寄せたグリフは間抜けな声を出した 遠足みたい? うん、今遠足中じゃないか? 「目的地が決まっていて、どの道を選ぶか相談しながら一緒にのんびり向かっていくのが」 「ああ……そうだな」 「グリフは、私に好きに選ばせてくれて、何を選んでも目的地へ導いてくれる」 「いや、俺だって道に迷うよ。でも」 「二人なら、迷うのも楽しい!」 「そう」 グリフは今度こそディラを抱きしめた ディラも嬉しそうにしがみつく これ以上のしあわせがどこにあるというんだろう 「ディラ……では、もっと叶え難い約束をしようか」 「うむ?」 「ディラは頑張りやさんだから、何か新しい、大きな約束を」 「うむ。何がいいだろうか?」 「休みの朝は一緒にゆっくり寝るというのは」 「グリフ、それは約束にならぬ」 「ふふふ。だな。では、眠る時と目が覚めたとき、そばにいなくてもあなたを想い、名前を呼ぼう。これは、俺がディラに約束する」 「……嬉しい」 「ディラは?」 「……うむ。グリフの好きなものを作れるようになる」 「いいなぁ、それはいい」 「全部は難しいけれど、グリフといる時に、私が作ったものを、一緒に食べたいから」 「そうか……なんて素敵な約束だろう」 グリフは目じりを下げて頬を赤らめて マディーラのおでこに自分のおでこをくっつけた 両手を繋ぎ 二人が「愛している」と言ったのは同時だった 笑いあいながら唇を寄せあう 「俺はディラを不安にさせたか?」 「不安だったのかもしれない。でもそれはもう過ぎたことだ」 「ディラ……俺の特別な人。愛しているよ」 「私もだ。グリフに愛されて、しあわせだ……」 はたから見ればただのイチャイチャバカップル それでも二人はとても楽しい 「さて……そろそろ戻るか」 「どうやって戻るのだ?ずいぶん流されてきたけれど」 グリフは苦笑いした "流されてきた"というのは受け入れ難い しかしまあ良しとしよう グリフはディラに反対側に座るように促し 櫂を水に入れた 自分が動けばよいのだけれど 不自然に移動するディラがかわいい 「河を、上るのか?ランズ様が訓練さながらと」 「実務では上から下への移動ばかりではないからな。もっと激流であっても、上れるように訓練する」 「そうか」 「ディラ、縁を持っていて。今度こそ危ないからじっとしてて欲しい」 「うむ。必ず」 「では、行こう」 グリフは得意げに櫂を操ると 無駄に旋回して見せてディラを喜ばせ 一気に船着場を目指して力強く漕ぎ始めた 「おーおー張り切ったねぇ。さすがは元将軍くん」 「このぐらい、どうという事はありませんっ」 「そうかいそうかい。ま、明日からの任務に障りが出んようにな」 最初はよかった ほとんど流れが無いのだから抵抗も少ない 河全体から見れば下流域で最初の桟橋の付近だってあまり流れは速くない それでも ある程度の深さのある河のある程度の距離をさかのぼるのは 結構大変な力を必要とする ましてやいいところを見せたくて漕いでいるのだから必要以上の速度を出す 水の流れに逆らうことで鋭く散る水しぶきにディラが楽しそうに笑ったり 行きよりもずっと目まぐるしく変わる景色にディラが面白そうにはしゃいだり 何よりもディラの「すごい」の一言で グリフは無理をした 桟橋に着いた頃にはヘロヘロだった もちろん平然とした風を装ってはいたけれど 舟を降りるディラに差し伸べた手が小刻みに震えている 「グリフ、大丈夫か」 「全然平気だ。ちっとも大変じゃない」 「そうか。さすがだなぁ」 「まあな」 ディラの感心しきりの様子に グリフは当然見栄を張る そんな二人の様子を見てランズはケラケラ笑う こんぐらいフツーだしっ 腕とか別に痛くないしっ 余裕でしんどくないしっ 「マディーラさん、舟遊びはどうだった?」 「とても素晴らしかったです。何もかも新鮮で、楽しくて綺麗でした!」 「漕がせてもらったか?」 「ええ。でもやはり、グリフのようには参りませんでした」 「そりゃそうだ。グリフォードは優秀な軍人だからな」 「で、ございますね」 マディーラはグリフォードへの賛辞を我が事のように誇らしく思った グリフはとても強くて優しくて愛情深い男なのだ そして少し怖がりなのは私だけが知る秘密 二人はランズに感謝を述べて ゆるゆると従者たちの待つ大樹へと戻った 彼らも思い思いに河岸での時間を過ごしたようだ 舟で遊ぶ二人も見ていたらしい 「マディーラ様!キブカは見ておりました。河の中に顔を突っ込むなど……」 「うむ。それについては反省している」 「……ずいぶん素直でいらっしゃいますね」 「うむ。私は素直なのだ」 「さようでございますか。お召し替えをなさいますか?」 「もう乾くので、かまわない」 「本当に、無茶をなさる……お風邪でも召したら……」 「すまない。俺がついていながら、ディラに危険な」 「まったくでございます。グリフォード様、マディーラ様は」 「キブカ、グリフは悪くない」 「ではマディーラ様が悪いのですか。それともこのキブカが」 心配のあまりグリフに詰め寄ろうとする従者に マディーラは花の咲くような笑顔を向けた それに刃向かえる人間などいない 「誰も。こんなよい日に、誰も悪いことなどしない」 グリフはでれんと鼻の下を伸ばし 従者たちは頬を染めて控えるしかなかった 「さて、家へ戻ろうか」 「もう?」 「名残惜しいのもわかるが、道草しながらだから帰りも時間がかかるだろう」 「うむ……」 「ところでディラ。ものは相談だが」 「何か」 もう出立できるように整った馬車と馬 グリフは情けない顔でディラの耳元に唇を寄せた 「やはり無理をした。腕がだるくて上がらん……一緒に馬車に乗ってくれないか」 「痛いのか?」 「痛くは無いが、馬に乗るのが煩わしい」 「……私も、そうしたい」 「では、二人で馬車に。よいか?」 「うむ」 「ありがとう、ディラ」 「いや、私も、だ」 グリフとディラの愛馬は従者二人が引き受け 残りの従者が馬車を走らせてくれる 屋根のある馬車なので視界は狭くなるけれど 車窓からの風景というのも悪くは無いだろう 馬車に乗り込み扉を閉めてもらったところで マディーラはグリフに白状した グリフは優しい笑顔で受け止める 「あの、グリフ」 「うん?」 「……私も、手が痛かった。だから、助かった」 「そうか」 「うむ」 「俺もだよ」 「うむ!」 「早く治るように、手をつないでくれ」 「いいぞ」 馬車はゆっくりと動き始め マディーラは河と花を眺めながら 今日の遠足の思い出をグリフに聞かせる 同じものを見聞きしていたはずなのに グリフの気づかなかったこともたくさんあって それはそれは楽しい語らいだった やがて河の傍を離れ村を抜けて首都へ向かう頃 二人はすっかり寝入ってしまい 自宅に着いて起こされるまで夢の中だった 「今日の私は寝ぼすけだ……」 「最高の遠足だったな」 「で、あろうか」 「何か、こころ残りが?」 「……ない」 「だろう?」 「うむ!」 楽しかった 少し疲れた そう言いながら二人は一緒に湯浴みをして 夕餉の席では料理人を呼んで お弁当がとてもおいしかったとお礼を言った 「お願いがあるのですが」 「なんでしょうか、マディーラ様」 「あの、あなたのお仕事のお邪魔をするつもりは無いのですが、お料理を覚えたいのです」 「今朝も大変熱心でいらっしゃいましたね」 「……しかし、アレだけではなく、いくつか作れるようになりたいと」 「とても素晴らしいお心構えだと存じます。私でお役に立てることは何でもお手伝い申し上げます」 「ありがとう。とても心強い。それから……」 マディーラは傍でニコニコしているグリフをちらりと見て 少し身体をその料理人のほうへ寄せ わずかに声を潜ませる 「……今の話は聞かれてしまっているけれど、グリフにはその過程を内密にお願いしたいのです」 「ディラ!?」 「驚かせたいのだ」 「承知いたしました。グリフォード様には秘密で」 「よろしくお願いします」 マディーラは料理人と少し秘密めいた笑みを交わし頷きあった グリフはむくれている 「ディラは少し、秘密が多いように思う……」 「本気で隠すつもりなら、グリフの前でこんな話はしない」 「それはそうだが」 「グリフを喜ばせたいのだ」 「ディラの料理をする姿を見たいと言っただろう」 「手際良くできるようになったらご覧にいれる」 「手際の悪いディラが見たいのだ」 「グリフは変なものに興味を示すのだな」 「変じゃない。ディラの事は何でも知りたいし、ましてや俺のために何かを頑張っている姿を見られずにはいられない」 だろう? グリフはディラにそう説明し そういうものだろうかと首を傾げるディラに食事を終えてもなお食い下がり 部屋で薄桃色のお茶を飲み いつの間にか二人で眠ってしまうまで お互いがお互いをいかに愛しく想っているかを甘く囁き続けた

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