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第56話

退位をなされた大陛下は 王宮の敷地内のこじんまりとした離れに住まわれている 元々はごくごく内輪の宴や茶会のための建物で 大陛下はその場所をこよなく愛しておられた 久々にご尊顔を拝して ディラは胸に優しいあたたかさが満ちるのを感じる 「ディラ。こちらへ寄りなさい」 「はい」 床に膝をつき頭を下げて待機していたディラに 大陛下は以前と変わらない優しい態度で接してくださる ディラはもう一度深くお辞儀をしてから ゆっくりと顔を上げて大陛下に微笑みかけた 「陛下におかれましては、お健やかにお過ごしのことと」 「そうだね。生前退位というものがこれほど優雅だとは知らなかった」 「さようでございますか」 「お菓子があるよ、ディラ。こちらへ」 「はい」 するりと立ち上がり ディラは陛下のお傍近くに寄る 従者がディラに微笑みながら椅子を引いてくれた そこはあまりに身分違いの位置だったので とっさに小さく首を振って従者に辞意を示したのだけれど こちらへお掛けくださいと言われてしまえば従うほかない すでに後宮から出たディラは 王宮内の誰よりも発言力は弱いのだ 「そこでよい。ディラの顔を、よく見ねばならぬ。年寄りは耳も遠いのでな」 「恐れながら、陛下。陛下のお年寄りのふりはお上手とは申せません」 「そうか。精進しようかの」 「お暇がございますようなら、それもよろしいかと存じますが」 「暇でのぉ。ディラの作ってくれたこの庭を見るのと、本を読む以外は、大変にのんびりしておるよ」 「お忙しい年月をお過ごしでございましたので、どうぞその分は」 「ふむ。たまにはこちらへ。張り合いがないとすぐに老ける」 「喜んで、仰せの通りに」 後宮にいた後年であっても 許されなかったような位置 普段使いの小さなテーブルの角を挟んだ隣だ ほんの少しふくよかになられた大陛下のお顔を ディラも間近で見られてとても嬉しいと思った 「相変わらず、ディラは美しいな」 「ありがとうございます」 「私の自慢の息子だよ」 「本当に……身に余るほどのお言葉でございます」 ここを出て行ってもディラは私の大事な息子だよ 大陛下は退位の前夜にディラにそう言った 世の中のことをほとんど知らない自分が 後宮という特別な場所を出てどうなってしまうのか グリフォードは自分を覚えてくれているだろうか 逢いに行って疎ましがられはしないだろうか そういう不安で少し塞いでいたディラにとって それは何よりも支えになる言葉だった 感謝してもしきれない グリフォードへのものとは違うけれど 自分は大陛下を愛していると実感する 「今度こちらへ来る時は、そのしあわせ者を伴うがよい」 「はい」 「彼はとてもよく働いてくれていると聞いている。そなたは大変に見る目があるのだな」 「……そのようでございます」 大陛下は満足げに微笑まれ しあわせそうなディラにお茶とお菓子をすすめてくださる ディラはグリフへの褒め言葉を頂戴してとても嬉しかった 馴染んだ王宮の茶器は 相変わらず口当たりも持ち勝手もよい至高品だ 「ミラ国王が、庭を設えているのだとか」 「はい。お手伝いを申し付かっております」 「そうか。あれは元気でやっているか」 「国政にも秀でておいでで、王子の時分から大変な人格者であられますので、この国は安泰であるように存じます」 「ふむ」 「私の差し出がましい短慮でございますが」 「何か」 「……少し、お疲れのようにお見受けいたしました」 「そうか」 「もちろん、大陛下のご心配には及ばないかと」 「親はいつまでも、子の心配をするものだよ」 「大陛下のご慈悲の深さには、私の浅はかな思いなど不要でございましたね」 「いや。ミラは、国王はそなたを頼っている。力になってやっておくれ」 「私にできることはなんでも」 ミラ国王陛下が自分を頼っているかどうかは別として 王宮の外の人間で気安く話ができる相手は多くないだろう もしも息抜きができるのであれば 咲き誇る花の代わりに彼の気持ちが和むのであれば 陛下のお言いつけどおり日参しようとディラは思った 「して……そなたの嫁入りの支度はどうなのだ?」 「修行中の身の上でございます」 「後宮を出て、それでもまだ足りぬか。ディラは抜きん出て勉強熱心であったが」 「いいお嫁さんには、程遠く、今は急いでお料理を習っております」 「ディラが料理か。それはいい。何か作れるようになったか?」 「お恥ずかしい限りの有様でございますので、ご容赦ください……」 未だに台所を走り回っては一人でてんてこ舞いをしている 洗い物は上達せず 時間が空けば王宮へ来るので ハルト様や母上様に助言を頂きに行くこともままならない グリフが留守がちであるのが ディラにとってわずかな猶予のようにさえ思えるほどだ それなのに大陛下は楽しそうだ 「そうかそうか。いずれは私の口にも入るかのぉ」 「お抱えの料理人に怒られてしまいます。陛下のお身体に障っては取り返しがつきません」 「かまわぬ。これはいい話だ。ディラの料理を食べるまでは達者でおらねば」 大陛下は笑い ディラは少し恥ずかしくて俯いた お母上様やハルト様のようにと願えば願うほど 自分の至らなさにがっかりする毎日だけれど この父だと言ってくれる尊い方を喜ばせたい ディラは決意も新たに修行に励もうと自分に活を入れた 「ディラ、今日は顔を見せてくれて感謝している」 「とんでもないことでございます。ディラも、陛下にお会いできて嬉しく思っております」 「楽しく過ごしているようで、安堵したぞ」 「はい。村の皆様に、大変ご親切にしていただき、グリフォードも私を愛してくれます」 「そうか……そうか。よかった」 大陛下はディラの手を撫でて深く頷かれた 渇いた大きな手は昔であればディラの頭を撫でてくれただろう 「また、参ります。大陛下も、新しいお庭にぜひいらしてください」 「そうだね。ミラは変わったものが好きだ。珍しい花を植えるのだろうね」 「はい。私もとても勉強になります」 「そうか。そなたらは歳も近い。どうか、支えてやって欲しい」 「大陛下、ディラは、国王陛下が好きです。微力ながらお助け申し上げたいと思っております」 それはディラの本心だった

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