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第69話

広いとはいえ木の一本に至るまで把握している場所 異変は違和感という名の直感で確実に捉える 見過ごす事はほぼあり得ない 王宮内を警邏中のスペラの感覚が何かを知らせた 「誰だ」 スペラは陽を遮るほど葉を茂らせた大樹の向こうの陰に声を投げた 腰の高さほどの庭木が並び その向こうには音も気配もない それでも温度を感じる 猫や犬の大きさではない スペラはそのまましばらく待った 通常の勤務では巡回しない場所を独自に選んで 不審者と異状の警戒中だ 普段以上に神経を研ぎ澄ませている 間違いなく、人間が潜んでいる 気配を消せるのだから善良な市民である可能性はない しかしなんて緊張感がないんだろう 「ここは立ち入り禁止だ。何をしている」 もう一度 茂みの向こうの緊張感のない不審者に声を掛ける 応答なし スペラは大樹の側まで足音なく近寄り 太い幹を盾にして 何が飛んで来ても避けられる位置から低木の向こうを窺った はじめに見えたのは栗色の髪 僅かに顔を突き出してさらに覗けば あろう事かこの国の最高権力者の背中が見えた 「陛下!?」 スペラの脳裏にはあらゆる嫌な可能性が閃く お加減がお悪いのか 瓜二つな背格好の敵か 敵に脅されて囮になっているか いかなる状況であっても このまま立ち去る訳にはいかない 尊いお方のお姿を直に見つめるのは恐れ多く スペラは立木越しに跪き 改めてお声を掛けた 「大変失礼致しました。ミラ国王陛下とお見受け申し上げます。このような場所で、如何なされましたか」 「……誰か」 覇気のない声での誰何は ますますこの異常を際立たせる スペラはグッと眉間にシワを寄せ 幾らか声を大きくする 「申し訳ありません。首都警護部隊、第一隊副隊長、スペラでございます。現在、御王宮内の警邏任務中にあり」 「相変わらず優秀だな。誰にも見つからないと思っていた。現に側近らは素通りだ」 「は……恐れ入ります」 何だよ 紛らわしいとこでかくれんぼすんなよ スペラは奥歯を噛み締めて緊張を解きながらため息を堪えた 国王陛下がお供も連れずに無頓着に行動するという話は聞こえていた それでもこんな馬鹿げた事をするとは思わなかった 長くはなかったけれど先日の事件の前は 一日の三分の一を離れず過ごしていたのだ 裏切られた気分にさえなる 「スペラ」 「……は」 「こちらへ」 「……失礼致します」 スペラは立ち上がると 庭木の隙間を抜けて国王陛下に近づいた 大樹の影で薄暗く 大人が二、三人座れる程度の草地がポカリと空いていた 陛下はそこに胡座をかいて力なく座っておられる 狭い場所でもできる限り距離を置き スペラは再び膝をついて頭を下げて控えた 「……この辺りは巡回しないと思っていたのだ。侮ったわけではないが、驚かせるつもりもなかった。許せ」 「……私の方こそ、大変失礼いたしました。何卒お許しください」 一瞬でも侮ったのはスペラの方だ 陛下は首都警護部隊の警戒態勢の穴を熟知している 首筋に刃を当てられたような思いだった 恐怖と羞恥でいたたまれない 「お邪魔を致しまして、申し訳ありません。任務に戻り、陛下と国家のために励みます」 「うむ。しかし今は私の相手をせよ」 「……は?」 「近う」 「……は」 相手をせよ? まさかの手篭めか? この俺が? スペラはにじり寄るようにして幾らか距離を詰めた 顔を見せよとの声が頭上に聞こえ 恐る恐る陛下の方を見る 目が合うと ミラ国王陛下は鳶色の目を少し細めて 寂しげに苦笑いを漏らされた 「なかなか……国王とは不便であるな」 なぜかスペラの胸が痛んだ それを不思議に思う暇もなく 国王陛下は視線を自分の手元に落とし 小さくため息を吐かれた 「何か……ご不便がございましたか」 「誰かと話をするときに、目を合わせる事さえままならない。それでは……私の考えも伝わらず、相手の気持ちもうまく掴めん」 「……」 頂点に立つというのはそういうことだと思う 陛下が何を考えているかなど 側近中の側近さえ理解していればいい 後の人間には言葉だけで十分だ ほとんどの国民にはそれさえ必要ではない もちろん 国王陛下が相手の顔色を窺うことなど愚の骨頂だ だけどスペラは口を閉ざして再び頭を下げるだけに止めた この国の王に意見を言える人間ではない そして ミラ国王陛下はもっと別なことを憂いているように見えた 「……副隊長か」 「は」 「グリフォード隊長も、優秀な軍人だ。そなたも昔から群を抜いていた。王宮の安寧に些かの不安もないな」 「身に余るお言葉でございます。先日の事件の折りには大変な失態を犯し、情けない限り。日々、全力で務めさせていただいております」 「さようか」 昔から そうだ 前国王陛下がまだ玉座におられた頃 スペラは陸軍でミラ王子と同じ隊に配属された事がある 当時彼は一応隊長職ではあったけれど 単独で任務を遂行するような隊ではなかった ご本人はスペラの目から見て とても真面目で几帳面で豪快な部分のある 軍人らしい軍人だったという印象だが 上官たちにとってはただのお荷物だったのかもしれない 部下や同僚には慕われていたけれど 小賢しい連中には王子様のお戯れだとよく言われていた 軍人として重用する気がないのを示すかのように いかに戦績を上げても任期を長く務めても ミラ王子は首都には呼ばれた事はない 彼を見くびっているくせに 万が一にも首都内で謀反を起こされては困るということだろう そんな扱いにも ミラ王子は冷静に粛々と従っておられた それでも今のように寂しそうに笑ったりはなさらなかった 「この辺り一帯も、巡回に含めるよう隊長と相談いたします」 「ふ……あまり、私を追い詰めないでくれ。また居場所を探してうろつかねばならん」 「そのような……!」 スペラは思わず顔を上げた 王冠を頂く重責は想像を絶するものなのだろう 一時期とはいえ同じ隊にいて寝食を共にしていた頃も 夜通し彼を警護していた日々でも 彼の口からそんな弱音を聞いた事はなかった 差し出がましいと思いながらも 彼を案じる気持ちが生まれる どなたか支えになる人はおられるのだろうか 「……ここは、私が警邏に当たります」 「……すまんな」 「恐れながら、陛下」 「何か」 「この国の軍人は、一人残らず国王陛下に忠誠を誓うものです」 「……ああ」 「総べて、陛下のご命令ひとつでいかなる任務も遂行する覚悟にございます」 「知っている」 「仰せごととあらば、執務を怠る陛下を見て見ぬふりをする事に、些かの躊躇いもございません。ご安心ください」 「さようか」 ミラ国王陛下はようやく楽しげな笑みを浮かべられた スペラはほんの少しだけ安堵した 出過ぎるなと切り捨てられる事も考えられるのだ 相手はこの国の頂点なのだから 「スペラ。執務は片付けている」 「は。ものの例えでございます。ご容赦ください」 「いいや、許さん。そなた、ここで私を見つけたら、声を掛けよ」 「は。しかし」 ミラ国王陛下は 自分のそばに咲く小さな花をそっと指先で撫で ここで私の相手をせよと重ねて仰せになられた 「執務は片付けている。それでも、王という立場を、まだ息をするようには受け入れられていないのだ」 息をするように王として振舞う それができないうちは息苦しさに地獄を見るのかもしれない 情けない人だとは思わなかった 陛下の口調がどこまでも淡々としていて まるで他人事のようだからだ 「僭越ながら、大変なご心労とお察し申し上げます」 「いずれきっと、どこをどう切られても、王の血と肉、そうなるのだろうが。今はまだ、必死で取り繕い、闘っている」 「陛下は、すでに国王陛下にあらせられます。いかに気を抜き、午睡を貪る最中であっても、王でございます」 「……ここで寝てはおらぬ」 「例えにございます」 「真か?ますます許しがたい」 陛下は今度こそ快活な笑顔でスペラを見た その笑顔をスペラは懐かしいような気分で見つめかえす 目を伏せなければと思うのに じっと見つめてしまった 「感謝する、スペラ」 陛下は立ち上がり スペラにひとつ頷いてみせると 間違いなく国王の威厳を漂わせて宮殿の方へ去って行かれた スペラはその背中を見えなくなるまで見送った

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