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第72話

ああ、いらっしゃるな スペラは警邏中に国王陛下の気配を捉えた ここを回るのは二、三日に一度の不規則な時間 だから陛下の気配に遭遇するのはあまり多くない 最初に仰られた通り 執務をサボりまくっているわけではないようだ 僅かに生まれる自由な時間 それをお一人で過ごすためにここにいらっしゃるのだから 近寄りがたい気配のときもある そういうときは無言で通り抜ける 呼び止められたことはない 多分判断は間違っていないのだろう そして今日はいつもと雰囲気が違う気がした 緊張感のないのは相変わらずだし 近寄り難いわけでもない だけど、なんとなく スペラはそっと庭木のそばに跪き お声ををおかけした 「陛下、ご気分はいかがでございますか」 「……悪くない」 珍しい返事だ スペラはさようでございますかと応え その場を去ろうとした スペラは自分の直感を大切にしているし ほんの少しでも気がかりがあればその事象から距離を取ろうとする 状況を確認できないうちに迂闊に近づくような真似は もう何年もした事がない 職業柄、ほとんどの場合は命に関わることが多いからだ しかし近く、と陛下が仰った 固辞しようかと考えたけれど スペラは短く返事をして庭木の隙間をガサガサと通って ミラ国王陛下の前に控えた 目を伏せていても 陛下の機嫌が麗しいように感じる それが"変化"で"違和感"の正体か? よくわからない よくわからないけれど この雰囲気は嫌いじゃないし居心地がいい スペラはいつもよりも自分のこころが揺れているような気分で 陛下のお話し相手を務めた もうすぐ行われる園遊会の話や 恒例の軍関係者の表彰式典の話 個人的な話などするはずもなく 政に関わる話題も避ける できるだけ陛下がお疲れにならないような適度に明るいものだけを選んで口にする そばに生える大樹は常緑で だけど周りを囲む庭木は落葉していた 地面に落ちた葉は涼しい風に舞い上げられて踊っている 「あ……陛下、落ち葉が」 「ん?ああ……」 二人の間を吹き抜けた風が 枯れ葉を陛下に押し付けたようだ 分厚い胸板にあしらわれた飾り部分に引っかかっている スペラがそう告げると ミラ国王はパタパタと払って見せた 「落ち葉にまで慕われるとは、私も捨てたものではないな」 「は。素気無くされた落ち葉が泣いておりましょうね」 「スペラ、人のことは言えぬ。そなたにもついている」 「は」 髪だ、と言われて 適当に頭を振ってみた 取れないらしい 無造作に結った髪は癖があるから引っかかりやすいのだろう 「こちらへ。取ってやろう」 「恐れ多いことでございます」 「証拠は消さねばならぬ」 「は」 ごくごく偶にわずかな会話だけ それでも平時に一介の軍人が国王陛下のお傍に寄り お言葉を戴いているなどと知れば 先般の終日警護の時は好意的だった側近たちだって 眉を顰めるに違いない そうでなくとも陛下がここにいるということは 宮殿内では日常化した捜索が始っているということだ 同じような葉っぱをつけてウロウロは確かにできない 「お手を、煩わせまして」 「かまわん。寄れ」 お互いに腕を伸ばせば指が触れ合うかどうか この狭い隠れ場所ではその距離が精一杯だけれど スペラはいつも庭木に背中を押し付けるようにしてできる限り離れて さらに膝をついてできる限り低く頭を下げるように努めていた 陛下の手が自分に届くまで距離を詰めるのは 本当に分不相応な気がして躊躇われる スペラは片方の拳まで地面につけてぐっと頭を下げ 失礼致します、と言ってからにじり寄る 「やはり、不便であるな。こういうことは」 「陛下の尊いご身分を思えば、当然でございます」 「こういうことをしてもらわねば威厳が保てないというだけのことだ」 「恐れながら、そのお言葉は承服いたしかねます」 「さようか」 のんびりとあぐらをかいている王のほうへ じりじりと寄って頭を下げる ……なんか、いい匂いがする 夜通し警護をしていた時でも これほどは近寄らなかった 国王ともなると匂いまで上等なのかな スペラはじっと地面を見詰めたまま どうでもいい事を考えていた 「ほら、取れた―――」 「陛下ぁぁぁ!!」 「まずい!!」 それほど遠くないところから陛下を探す側近の声がした スペラは陛下と同時にその場にうずくまるようにして隠れる なんで俺まで隠れなきゃなんないの!? そう思う暇もなく 庭木を隔てた向こうをパタパタと人が通り過ぎていく やがて足音は遠ざかり 二人で一斉に詰めていた息を吐いた 「……くっ……くくく……」 「陛下、笑い事ではございませんっ」 「しー。まだ近くにいるだろう。スペラ、いま少し伏せていろ」 クソっ 近いよ! あんた王様なんだよ! 緊張するんだってば!! そんでいい匂いがするんだってば!! 「もういいだろう。ああ……また慕われているぞ」 「え……」 地面についた腕の間に顔を伏せるように蹲っていたスペラに ミラ国王が声を掛けた わずかの間にまた葉っぱがスペラにくっついたらしい 「よく、好かれるな」 顔を上げたすぐそばに陛下の顔 笑いながらスペラの髪に手を伸ばしてくる マジで、近いって……!!! 聡明さと柔和な性格をよくあらわしたような目 知らなかったけれど間近で見たら本当に綺麗な鳶色で スペラは目を伏せることもできずに見入ってしまった 「へーーーかーーー!!!!」 「うっっ」 気を抜いていた 戻ってくる側近の気配に気づかず さっきよりも近いところから聞こえた声に思わず声をあげそうになる 驚いたのは陛下も同じらしく ガンッと勢いよく後頭部を押されねじ伏せられた 慌ててしまい手加減できなかったようだ ご高配痛み入ります、陛下 しかし、痛いです…… おでこをズリッと地面にこすりつけるような形になる しかも何故か陛下の半身が スペラを押しつぶして隠すかのように背中に乗っている その方がみつかるっつーの! 「お、すまぬ。スペラ、無事か」 「はぁ……」 ああもう、好きにしてくれ スペラは気を張る陛下のお相手に疲れてしまい いい匂いとか綺麗な目とか そういうことを知ったことにも疲れを覚え ぐったりと脱力した 大丈夫かと揺さぶられて 堪えられずごろりと仰向けに転がる有様だ 「無事か」 「はっ……お見苦しいところをお見せして」 さすがに飛び起きようとしたところを 真上から覗き込まれて固まる ……これ、やばくね? 近いしいい匂いだし近いし組み敷かれてるみたいにめっちゃ近いし匂いとかマジで じっとご尊顔をみつめても 陛下はお怒りにもならずスペラを見おろしている みつめあっていると気づいたのは また風が吹いて落ち葉が舞ったからだ それに目を向けるようにして視線が外れ 陛下はスペラから離れた ……何、今の感じ……? 緊張でも興奮でもなく 時間が止まったみたいな静寂 一瞬理解できない気分になった ドキドキするような昂ぶりはなくて 吸い込まれるように 取り込まれるように 抵抗できずに囚われるような感覚 そしてやっぱりそれが不愉快ではなくてむしろ 「なかなか、いいところを捜すようになったな」 「……は……そのようでございますね……」 国王陛下の御前で スペラは晴れ渡る空を見上げて仰向けのままでいた あり得ないほどの非礼だ だけど もう今までと同じように振舞うことなどできない 身体の中身がするりと入れ替わったような 蓄積されてきた経験や記憶や傷や痛みが白く飛んだような 得体の知れない感覚を味わって力が抜けた 知らず深く息を吐き出す ああ、これってアレに似てる 自分の手足の一本や二本くらい失くしてもかまわないと突撃した時 本気でかかってこいと言われて殺すつもりで上官に躍りかかった時 自分の全力を出し切ったその時に あっけなく沈められ死を覚悟することがあった 圧倒的な力の差に悔しさもなくただ打ちのめされる どこにも救いのない完全な敗北は その瞬間に自分が生まれ変わるような錯覚を覚える 今俺は負けたのか? 穏やかに目を見つめられただけで 絶対に勝てないと認めてしまったか 冗談じゃ、ない 「スペラ。私でさえ、ここで午睡を貪ったことはないが」 「は……」 冗談じゃないぞ 闘ってもいない お互いそんな気さえないのに負けるはずがない いや そんな気が起きないのはとっくに屈服しているからか スペラはハッと息を吐き 気を取り直して腹に力を入れて 両肘を支えに上体を起こす すぐそばにあった庭木の硬い枝にガサガサと肩を突っ込んでしまった 枝が折れなかっただろうか 身体を軽く捻って反転し いつも隠れさせてくれる木々を手のひらで触れて様子を確認する 綺麗に選定された木は 地面擦れ擦れまで枝を張っている その僅かな隙間にはたくさんの落ち葉、そして 「え……あ……あった!?うわあ!あった!!!」 「……なんだ?」 「あ、あ、いえ、失礼致しましたっ」 「失せ物でもみつかったのか?」 だらりと弛緩していたスペラが 起き上がった途端に大声を上げたので ミラ国王は怪訝な顔している そんな陛下の様子に気づかずに スペラは木と落ち葉と地面をすごい勢いでかき分けて その奥まったところから何かを掴み出した 一見小汚いゴミにしか見えない スペラは髪どころか腕も胸も葉っぱだらけにして それなのに満面の笑みでそのゴミから枯れ葉を丁寧に取り除いている 「実は先般の事件の混乱の中で、グリフォード隊長が、指輪を落としたと」 「……指輪」 「はい。婚約者殿に誂えたもので、大事なものだったのにと大変な嘆きようでございました」 「マディーラに」 「はい」 スペラはこれでグリフォードが喜ぶと思って嬉しかった 何度も何度も聞かされたとおり 革でできた巾着袋の中を指先で探れば環の硬い感触 ものすごく汚れているけれど間違いないだろう ミラ国王陛下はじっとスペラの手許を見詰めている 「あの……陛下」 「見てもいいか」 「え?……指輪を、でございますか」 「ああ。……人のものだし、まずいだろうか」 「いえ……一応、中身が指輪か確認しようとは思いましたので」 「さようか。では、見せよ」 「……は」 指輪に興味がおありなのだろうか スペラは疑問に思いながらも とりあえず巾着の口を緩めて 懐から取り出した手拭を手のひらに敷いて中身を出す ころりと出てきた美しく輝く透明な石を持つ指輪は 待ちわびたように光を受けて輝いている 女物よりは少し大ぶりで なるほど、マディーラ殿に似合いそうだと思った 「陛下、お手に取られますか」 「……ああ」 「どうぞ」 手拭を両手で捧げ持ち 指輪が転がり落ちたりしないように慎重に陛下に差し出す 陛下はしばらくじっとそれを見ておられて おもむろにお手に取られた 「……綺麗だな」 「はい」 「隊長が、選んだのだろうか?それともマディーラが」 「グリフォード隊長が、マディーラ殿には内密に誂えたのだと聞いています」 「さようか。…………きっと、マディーラに似合うだろう」 「はい」 そっと指輪を戻されて スペラはわずかに顔を上げた 陛下は優しく微笑んでおられた どこか楽しげに 「スペラよ」 「は」 「グリフォード隊長に、婚儀を執り行うつもりがあれば、私の庭を使えと伝えよ」 「陛下の庭……でございますか。ああ……マディーラ殿が携わったという」 「さようだ。隊長に言えば、マディーラにも伝わるだろう。この国の王は、そなたらを祝福する用意があると、そう申せ」 「……僭越ながら、何かご尊意が含まれるのでしょうか?」 「戯れだ」 「は。必ず、お伝えいたします」 「ああ。時に、スペラよ」 「は」 あぐらをかいて太い腕を胸の前で組み 堂々とした風情で国王陛下がスペラを見る 大切な指輪を手早く袋へ仕舞うと スペラは軽く目を伏せて返事をした 「そなたは、こころに決めた相手はおるのか」 「いいえ」 ほっといてくれ 心配しなくてもそのうちどこかで巡り合う そう信じているのだから なんとなく不貞腐れそうになった 何故あなたにそんなことを言われなければいけないのか 思わずぐっと視線を上げて陛下の目を見てしまった 陛下はますます楽しそうに笑っておられた いや、しあわせそうに……? その笑顔を目の当たりにしてしまって スペラは動揺した 勝手に自分の心臓が大きく打って顔が熱くなったからだ なんで!?なにごと!? 「さようか。それはよい」 「は……え?ようございますか?」 「ああ。同じ轍は、踏みたくはない」 「……恐れながら、陛下。いささか私には難しく」 「それもよい。スペラ、ここを素通りするのを減らせ」 「……は」 「声を掛けよと申した。で、あるな」 「は。ご無礼を致しまして、どうぞ、お許しください」 「そなたなりの気遣いであろうが、待つ方の身にもなれ」 「は」 「うむ」 スペラが再び頭を下げて視線を地面に戻すと ぱぱぱと肩や頭を撫でられた 陛下が落ち葉を払ってくれたらしい ますます顔が熱くなって どうしていいかわからず 石のように固まってじっと息を詰める 「グリフォード隊長へ、よろしく伝えよ」 「は」 国王陛下は颯爽と立ち上がり いつもよりも軽い足取りで庭木の隙間を抜け 大宮殿の方へ戻っていかれた その場に跪き頭を下げたままでそれを送り 遠くで陛下を見つけたらしい側近の声が聞こえた頃 ようやくスペラは我に返った 「……待つ?陛下が、俺を?」 何を言ってるんだあの方は お戯れが過ぎる 気晴らしに暇つぶしに俺を話し相手にしておられるだけだ 勘違いしてはいけない なのにこころは勝手に浮き足立ってしまう この感覚は、やばい 「は……相手は国王陛下だぞ?しっかりしろよ……」 スペラはとりあえずそこに寝転がった 空を見上げて深呼吸をして 一人で呟いた 「これは、やばいよなぁ……」 屈服したつもりはない 負けを認めたくはない だけど あの方に征服され始めている気がした 「愛じゃ、ない」 こんな愛は知らない 痛いような辛いような、だけど心地いい感覚 スペラはそこでじっと目を閉じて自分のこころを覗いていた

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