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第81話

国王陛下が王宮を出られることは少ない ごく稀に外出されるときでも首都の城壁を抜けることはほとんどない それでも年に何度か 首都を離れることがある 視察だ その目的地は協定を結んだ他国であったり 災害に見舞われた村であったり 国防に関する場所だったりする ご自身が軍部にいたためか 王がみだりに軍の視察へ行くものではないと常々仰られる 王が、というよりは 軍事活動に従事しない者が、ということのようだ もっと言えば 自分で危険を回避できない人間が、になる 邪魔をしに行くようなものなのだ、と 国王陛下が激励に来てくれればもちろん士気は上る 膠着状態にある最前線へ 最高司令官である国王陛下が訪れることは時として 一気呵成にその状況を打破する発奮材料になったりもする しかしそれは本当にいざというときのためであり 頑張ってますか、などと様子を見にこられるのは 正直に言えば雑務が増えるので 現場に負担がかかることも往々にしてあるのだ それを身をもってご存知であるので 陛下は軍激励のための御訪問はほとんどなさらない 各軍の活動の報告は受けているので それらに関しては書簡や将軍への労いでお済ませになる そのことに不満を持つ軍人はあまりいない その分、褒章の受章者を増やしたからだ 自分たちの働きは陛下に届いていると現場には伝わっている 久々の遠出はやはり他国の視察だった 豊かで強い国なので 普通は向こうが謁見を望んで入国してくるけれど 相手国の実情を知らないのは危険だとの御見識から 幾つかある同盟国の視察に出向かれる スペラももちろん帯同するし 側近や従者らも一緒に移動するので大所帯になる それでも陛下は自分のことは自分でなさるので 必要人員だけと言えばそうなのだけれど 向こうでは歓待を受け 連日華やかで豪勢な宴が催された 酔った人間の不規則な行動を監視するのは非常に骨が折れる スペラを護衛につけて以来 陛下はそれ以外の警護の者をそばへ寄せたことはない だからスペラは 陛下御本人を護りつつ 宛がわれた部屋やその周辺の安全も確認して 好意で近づく人間も警戒しなければならない 苦労に思ったことはないけれど 組織に所属していた頃を懐かしんだりはする 同じような能力の仲間たちに背中を預けて 何も言わなくても各々が分担して役割を果たす もちろんそれは軍部だけではないけれど そういう仕事環境というのは恵まれているのだと考える 陛下を乗せた地味で頑丈な馬車が視察を終えて自国領地へ入ると スペラの緊張は幾分マシになった 理屈はなしに安心感が生まれる その時 夕暮れに染まる空に暗雲が立ちこめて あっという間に強い雨が落ちてきた 豊かで温暖な国とはいえ 隣国との国境であるこの辺りの気候は首都周辺とは違う スペラも駐屯したことのある土地で 雨季というほどではないけれどこういう豪雨が集中する季節がある それは頭には入っていた しかしそれはもう少し先のはず 突発的なものなのか環境が変わったのか スペラはそんな判断よりも宿場町までの距離を計算していた 雨だけならな スペラがそう思った矢先に 辺りが一瞬明るくなるような稲光 舌打ちするよりも先に轟音が鳴り響く 風も強まってきた 馬に乗る者はあわあわと油引きの外套を被り始めているけれど そんなもので防げる風雨ではない スペラの馬は暴れない 陛下の馬車を引く馬たちも毅然としている うろたえているのは人間のほうだ 辺りは一気に暗闇に飲まれていく 火は使えない 陛下の馬車の中だけは小さな提燈に灯が点った ずぶぬれになりながらも馬車に併走していたスペラは 難しいなと考えた 訓練を受けていればどうということはない道程だ しかし悪天候の中進むことに不慣れな官僚や従者たちに まだまだかかる宿場町への行軍を強いるのは酷だろう 本人たちの気持ちや気合で解決できることでもない 気温が一気に下がり始める 雨は激しさを増し 鳴り響く雷鳴にさすがに馬が怯え始めた 大きな雨粒は当たると痛い程だ 「恐れながら、陛下」 スペラは御者に馬車を止めさせて 馬車の扉を叩いた 風の唸りと強い雨音 それでもスペラの声は陛下に届いているようだ 「天候の回復は見込めません。ここから予定の宿場町への移動は難しいかと存じます」 「さようか」 「近くに陸軍の駐屯所があります。保護を要請いたします」 「ああ。そのようにしてくれ」 陛下はスペラの判断を疑うこともなければ 決断を退けることもせず 皆が無事であるように計らってくれと仰られた 雨と風と雷と気温の低下 そして夜は深けていく 無理をするべきではなく 訓練されていない者にとって危険な状況であることは陛下はご承知だからだ いくらスペラであっても この人数を安全に誘導するのは避けたいところだ 陛下のご了解を得たので そばにいた側近らに軍に迎えに来てもらいましょうと話した 寒さと恐怖に震えている彼らは 何でもいいからどうにかしてくれと言っている スペラは装備している緊急連絡用の発炎筒に火をつけて 真っ暗な空へ放り投げた 風も雨もものともせずに まっすぐに上って光が破裂する その光が収まって辺りが再び闇に沈んだ頃 耳慣れた軍馬の蹄の音が聞こえてきた

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