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第82話
「久々だな」
「うん。助かったよ」
「まさか国王陛下のご一行であるとはなぁ」
迅速に救助隊が到着し
呼んだのがスペラで
待っていたのが国王陛下だと知り驚いていた
軍役を退いて数年だけれど
スペラを知っている者はまだたくさん残っている
大型の馬車も引いてきてくれていたので
スペラ以外の人間はそこへ乗り
怯える馬たちは隊員が自分の馬上から手綱を操る
陛下の馬車の御者は頑なにその役目を渡さず
隊員は周りを囲んで並走した
駐屯所へたどり着いた頃には
暴風雨を通り越して大嵐の様相を呈していた
ずぶぬれになりながらも国王陛下のそばを離れないスペラに
突然背後から大きくて毛足の長い布が被せらる
振り向けばグリフォードが立っていた
「視察の帰路だとか」
「ああ。雨の季節はもう少し先だと思っていたが」
「そうだな。たまたまだろう。作物の育ちも動物も例年と大差ない」
「そうか」
グリフォードがそう言うのだから間違いはないだろう
陸軍の駐屯所のうちのひとつであるこの場所で
彼は幾つかの隊をまとめる立場にいた
隣は同盟国だけれど
僅かに国境を接しているもうひとつの国は違う
有事には最前線になるし
実際に何度もそうなってきた場所だ
ここの部隊が戦闘時に初動部隊になることはすでに知られている
だから戦闘が始まると真っ先に襲われる
もしくはまずここを潰してから開戦、と標的にされる
緊張感も危険も文句なしにトップクラスだ
「皆さんには手狭であろうが、寝所はある。休んでいってくれ」
「ありがと……これも」
「風邪を引くなよ」
「うん」
髪の先からはひっきりなしに雫が落ち
スペラの足元には水溜りができている
髪を束ねていた紐を外してさらに水滴を絞る
スペラはグリフォードと懐かしく言葉を交わしながらも
視界に陛下を捉えていた
陛下はこの駐屯所の責任者とお話をされておられる
恐らく感謝を述べていらっしゃるのだろう
いつもならどんなに騒がしくても聞こえる声が遠い
外の雨風の音や
突然の来訪に驚く隊員らの話し声のせいだろうか
スペラは息をついて髪や顔の雨を拭う
「食事は?」
「まだなんだ。何とかなるかな?」
「もちろんだ。晩餐会という趣には程遠いが」
「頂けるだけでありがたい。僭越ではあるが、恐らく陛下はみんなと同じものを所望なさると思う」
「ああ。熱い飲み物はもうすぐ来る。お前も飲んだ方がいい。顔が白いぞ」
「外にあんまり出ないからね。顔だけじゃない」
「その後も宮殿内に?」
「うん」
「そうか。こんな風に会えて、嬉しいと言うのは不謹慎だろうか」
グリフォードは相変わらず精悍で優しい笑顔だった
陸軍へ異動になった後も優秀な戦果を挙げているので
表彰式典には毎年呼ばれている
スペラはその日にグリフォードの顔を見るのを楽しみにしていた
こんな風に偶然再会できたのはスペラだって嬉しい
「グリフォード。迎えに来てくれたのはそなたの隊だとか。礼を言おう」
「陛下。ご無事で何よりでございました。お役に立てて、これほどの悦びはありません」
スペラは驚いた
陛下が近くに来られたことに気づかなかったからだ
グリフォードに会って気が緩んでいるのだろうか
それとも駐屯所だからか
「粗食ではございますが、すぐに用意いたします。陛下、お召し替えをなさいますか」
「私はよい。着替えがあるのなら、供の者に出してやって欲しい。荷物もみんな濡れてしまったようだ」
「は。恐れながら、久々に軍服というのもよろしいかと存じますが」
「そんな物を着てしまっては、荒天の行軍を決行してしまう」
「お供の皆様に恨まれてしまいますね」
「ああ。隊の食事は楽しみだ」
陛下は大変ご機嫌がいいように見えた
もともと好きで軍部に入隊されたお方だから
スペラ同様古巣にいるような雰囲気を楽しんでおられるのかもしれない
スペラは気を引き締めようとした
遊んでいる場合じゃないんだから
「スペラ」
「は」
「そなたは替えてはどうか」
「は。そのようにいたします」
さすがにスペラも着替えをしなくては辛い
びしょびしょの服は重く不快に肌に張り付いている
替えの服は雨に濡れてしまったのだから
ここで懐かしい軍の支給品を借りるしかないだろう
陛下は満足げにひとつ頷いて
他の側近たちに言葉を掛けに離れていかれた
その背中をぼんやりとみつめる
「スペラ」
「ん?」
「しあわせか?」
「俺?うん」
「そうか。よかった」
「グリフは?」
「グリフって言うな。しあわせだぞ。首都を離れたことを、後悔してない」
「そう。よかった」
グリフォードは癖の強いスペラの髪を
被ったままの布でガサガサと拭いてやった
そうしている間にたくさんの軍服が用意され
あっという間にコスプレ大会の会場のようになった
貧弱な官僚たちは初めての軍服にちょっと嬉しそうだ
スペラは久しぶりの官給品が心地よかった
濡れた服は今日の当番の隊員が面倒を見てくれるようだ
「明日の昼。それまではここに留まられたほうがよろしいかと存じます」
この駐屯所にいる参謀が
断続的に雨と風は続くとの見解を陛下へ申し上げた
丸一日近い遅延は大きいけれど
無理をするのは得策ではない
誰もあの雨の中に戻りたいとは思っておらず
陛下もではそうしようと肯かれた
温かい食事と乾いた服は萎縮した身体にたまらない安堵を与えた
今は小隊がひとつ訓練に出ているので
その宿舎を当ててもらえた
男がほとんどの宿舎など
散らかっていて不衛生極まりないと思われがちだけれど
どこもかしこも清潔で
古くはあるけれど整理整頓の行き届いた部屋ばかりだ
軍部の内情も軍人の実情も知らなかった官僚たちは
ひどく興味深そうにあれこれと聞いて回り
少し感心さえしているようだ
スペラはなんだか鼻が高いような気がした
「スペラはどうする」
「ああ。陛下の部屋はどこ?」
「貴賓室だ」
「じゃあ、隣の小部屋で」
「小部屋じゃない。今は物置だ」
「そうなんだ。じゃあ、物置で」
「……貴賓室は広いが」
「陛下がおやすみになられている間は、部屋にはいないから」
「いつも?」
「うん。陛下は湯浴みも従者の手を借りないし、お食事もご就寝もお一人だ」
駐屯所内には幾つか建物があって
貴賓室はそれだけのために建てられた離れだ
大きな部屋と、その隣に小部屋があった
スペラの記憶では小部屋は小部屋だったけれど
今は違うらしい
まあこんな僻地に来賓は滅多にないのだから
物が詰め込まれていくのも自然の成り行きだろう
そこまで考えてスペラは弾かれたように陛下を探した
恐ろしいことに視界に入れていなかった
慌てる必要などなく
陛下はまだこの食堂で色んな軍人たちとお話をなさっている
スペラは深いため息を吐いた
「大丈夫か」
「うん……なんか、グリフォードに会うと気が抜けるみたい」
「そうか」
「緩んでる場合じゃないんだけどな……」
「緊張と弛緩を制御できるのが、優秀な軍人だと習っただろう」
「そうなんだけどさ」
緊張状態は長くは保てない
それはいかに訓練しても限界がある
だから無駄な緊張はいざというときに都合が悪い
弛緩できるときを見誤らず休むことが肝要なのだ
スペラはこの数年
ここまで気を緩めたことはなかったような気がした
グリフォードには絶対の信頼を寄せている
軍人としても人間としてもだ
だから締めようとしても締まり切らないのだろう
身体が、精神が、休息を求めているのかもしれない
それができるのはグリフォードのような人間がそばにいるときだけ
「……グリフォード」
「ん?」
「……人を、貸してくれないか」
「いいよ」
「二人。しばらく……みんなの寝支度が整うまで」
「遠慮するな」
「遠慮じゃない。それ以上は、今度は気になって休めない」
「そうか」
スペラはグリフォードに少し頼むと言いおいて食堂を出た
風は収まりつつあるけれど
空からまっすぐに強い雨が降っている
白く煙るようなその雨の中を来賓室のある離れに向かい
安全を確認して回った
駐屯所内は安全だと思うけれど
如何せん狙われやすい基地なのだから油断はできない
ついでに隣の小部屋も覗いたけれど
立錐の余地もなく備品が詰め込まれていた
詰めた人間を褒めたいほどの詰めっぷりだ
ここで眠るのは諦めよう
幸い貴賓室の前には絨毯の敷かれた廊下がある
ここでいいやとスペラは決めて
また雨の中を食堂へ駆け戻った
陛下はスペラが戻ったのを見て立ち上がられた
グリフォードのそばには二人の隊員が控えている
スペラは彼らに頷いてから陛下の傍へ寄った
「陛下。お部屋の準備ができました」
「さようか」
「あの二人にしばらく立ち番をさせます。よろしいでしょうか」
「かまわんが」
「恐れ入ります」
「そなたは」
「グリフォード隊長に、この辺りの情報を貰おうと思います」
「さようか」
スペラは隊員二人と共に
雨除けで陛下が濡れないようにしながら貴賓室へお連れし
部屋の扉を閉めると二人によろしく頼むと言った
二人は誇らしげな顔で敬礼してくれた
「俺はもう、軍人じゃないんだけどな」
「いいじゃないか。軍人以外に敬礼してはいけないわけじゃない」
「そうだけど。……照れるじゃん」
「そうか?」
グリフは自分の部屋で休めばいいと言って案内してくれた
主席ではないけれど実務的には一番の責任者なので
与えられている部屋も大きく居心地がよさそうだ
強い雨風の音も雷鳴もあまり気にならない
「そこの寝台使っていいぞ」
「ありがとう」
「疲れているなら起こしに来ようか」
「大丈夫。その代わり、ちょっとだけちゅうしてくれない?」
「なんだそれは」
グリフォードは呆れながらもスペラの腕を引き
口づけをくれた
相変わらず優しい
一緒に寝てくれと言えばそうしてくれるだろう
いい男だよなぁ
「ん……ありがと」
「ゆっくり休め」
「はいよ」
グリフは部屋を暗くして出ていき
スペラは電池が切れたように眠りに落ちた
これほど安心して深く眠ったのは一体いつぶりだったのか
計ったようにぱちりと目が覚めたとき
スペラはまず自分の未熟さを反省した
ちゃんと管理できていないんだな、と
「グリフォード」
「ゆっくりすればいいのに」
「一人じゃ寂しくってさ」
グリフはまだ食堂にいた
何人かの部下と一緒になって話し合いをしている
多分国王陛下を明日先導するなり何なりの打ち合わせだろう
スペラはグリフに後ろから抱きついて
肩や首元に顔をすりつけて甘える
すると隊員たちが色めきだった
おやおや
やっぱりグリフはどこでもモテるんだねぇ
でも今は貸してくれよな
グリフは何なんだと呆れた声を出しながら
スペラを正面に抱え直して背中を撫でてくれる
スペラはますます密着して
グリフの優しさを満喫する
「うー」
「猫かお前は」
「さあ?」
「さあ、じゃないよ。で?どうするんだ」
「ありがとう。あの二人と交代する」
「そうか」
「うん。グリフの寝台、寝心地いいな」
「グリフって言うな」
「じゃあねん」
自分と同じか同等の結果を
安心して期待できる仲間というのは本当にありがたい
グリフォードの部下はスペラはが建物に入る前から
その気配を察してピシリと直立して出迎えた
その規律を頼もしく、懐かしく思う
思わず笑顔になったのは
グリフォードの寝台での安眠の成果だろう
「ありがとう。下がっていい」
「は。恐れながら、元首都警護部隊第一隊副隊長のスペラ殿とお見受け申し上げます」
「うん。そうだよ」
「グリフォード隊長には、常々貴殿の優秀なる戦績を我々に話しておられ、このように直接お会いできたことを大変嬉しく思います」
「そうなんだ。自分の方が、ずっと優秀なのにね」
二人はスペラともう少し話したそうにしていたけれど
ピタリと口を噤んだ
扉が開いて陛下が出てこられたからだ
スペラは驚いてその場に膝をついた
「スペラ、少し中へ」
「は」
「二人とも、ご苦労であった。下がってよい」
「は!」
強い雨が振り続く中へ
二人の隊員は去っていき
陛下は扉を開けたままで部屋の中へ戻っていかれた
スペラはその後に続いて入室し
辺りを警戒してから扉を静かに閉めた
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