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第86話

翌日の昼を過ぎて風は弱まり 陽は射さないものの雨は小降りになった 今後天気は持ち直していくと参謀が進言し とりあえず出立しようという運びになった 普段の速度であれば 昨夜予定していた宿場町まで行ければよいという程度だけれど グリフォードが直々に自分の隊を率いて先導してくれて 隊員らは避難の時と同じように 自分の馬に乗りながらお供の者たちの馬の手綱を操り お供の者たちは大型の馬車に乗り込み なのでものすごい速度で進軍……ではないが とにかく進んでいった 軍隊と一緒なのだから陽が暮れても危険は少ないと判断し 夜半まで移動は続き 一日の遅れを取り返して余りあるほどの距離を稼いだ スペラは久々に軍人のような気分に戻って なんだかひどく懐かしくて充実した時間を過ごすことができた 「我々はこれで」 「大変世話になり、感謝している。駐屯所に待機している者にもそのように」 「は。道中、どうぞお気をつけください」 「ああ」 王族ゆかりの宿まで送り届けてくれて グリフォードは陛下に暇乞いをし 隊員らも跪いて頭を下げる 陛下はそれを鷹揚に見やって頷かれ 大変ご苦労であったと満足げに仰られた それを機に全員が立ち上がって最敬礼をし 統制の取れた動きで陛下がご宿泊になる部屋から出て行った スペラはその後を追い 部屋を離れるわけにはいかないので 扉のすぐ外でグリフォードを捕まえる 「ありがとう、グリフォード」 「いや。大変光栄な任務で、隊員らも気合が入っただろう。あれほど国王陛下のおそばに寄れる機会など、滅多にないからな」 「ああ……それはそうだな。いい隊だな」 「ありがとう。スペラ、陛下は任せたぞ」 「任せといて。御内儀には、間違いなく」 「ああ……よろしく頼む」 グリフォードの精悍な顔が少し緩む 首都にいるマディーラ殿に託けがあれば承るがとスペラが言うと 別にいい 特にない そんな風に言ってグリフォードは遠慮していた しかしスペラが 本当にないの?ない方がおかしいよね?と食い下がると 恥ずかしそうに書簡を差し出してきた しかも一通や二通ではない 聞けば、なかなか出す機会はないけれど マディーラ殿に日常的に手紙を書いて溜め込んでいるという 緊急の連絡でもなければ首都まで手紙を出すなど難しい僻地だ そういう場所に駐屯している軍人は 首都やふるさとに残してきた愛する人への手紙を ごくたまに軍の連絡函に便乗させてもらったり 応援に来てくれて首都に戻る隊員に託したりする 「あるんじゃん」 「まあ……あるな」 「間違いなく、お届けするよ」 「ああ、ありがとう。これも、頼めるか」 グリフォードは小さな袋を寄越した うん、とスペラが受け取り 詮索したりはせずに書簡と一緒に大きな袋へ仕舞う 「先日、近くの村へ救難の出動があってな」 「うん」 「そのとき貰ったんだ。花の種らしい」 「そう。マディーラ殿も喜ぶだろうな」 「だと、いいけれど」 俺はこういう顔をするだろうか スペラは不思議に思った 遠く離れた伴侶を思うだけで こんな風にしあわせそうに笑うだろうか 俺がそんな顔をすれば あのお方は喜ぶだろうか 「では」 「うん」 お互いを抱き寄せてぽんぽんと背中を叩き グリフォードは自陣へ戻っていた スペラは陛下の部屋へ戻って食事はいかがなさいますかとお伺いする 「スペラも食べるのなら、一緒に」 「私は他の方々と、別の場所で頂きます」 「……」 「……」 「……」 「……私は、別の場所で。陛下のお食事はここにご用意いたします」 「……」 「よろしゅうございますね」 「では、要らぬ」 「は。では、どうぞお休みください」 「スペラ」 「何かございましたら、お呼びください」 ものすごく不満げな国王陛下に スペラは視線も向けずに頭を下げた 好きにすればいい 俺だって好きにさせてもらう 「スペラ」 「は」 「そなた、どこで寝るつもりか」 「……」 陛下はもちろんこの宿で一番豪勢なこの部屋だ ここに宿泊する予定ではなかったために 宿には普通の宿泊客もいて部屋数に余裕はない 隣の部屋もそこそこいい部屋だったために 他の位の高い官僚が入ってしまった だからスペラは 陛下の部屋の前の廊下で立ち番をするつもりだった 気力も充実している今 徹夜は苦にならないだろう 「休息を頂きましたので、今宵は寝ずの番を。予定にない宿でもございますので」 「休息など与えた覚えはないが」 だよね ぜんっぜん休ませてくれなかったもんね 精力ナシなんて不名誉なんかぶっ飛んだもんね 完全に切り替わっているスペラの頭の中には 至極客観的に駐屯所の貴賓室でのことが浮かぶ 思い出して身もだえするなど あいにくそういった純真な気持ちは持ち合わせていない 「あまりそなたをいじめるつもりはないが」 「は」 「王が空腹であるというのは、いかがなものか」 「……」 誰もごはん食べるななんて言ってないし ちゃんと用意するから好きなだけ食べればいいし そもそも国王陛下の食事のお世話は俺の仕事じゃないし じゃあ何? 俺が一緒にいないとずっと断食でもするつもりか? 「スペラ」 「は」 「今だけだ」 「……は」 「この王を、空腹と眠気から護れ」 「ご都合のいいように、身辺警護を解釈なさらないで頂きたく存じます」 「今だけだ。どうせ明後日には首都に着く。スペラは王宮では実に慎み深く控えめであるのでな」 「……眠気とは」 「スペラと寝るぞ」 「ご容赦ください。ここは軍部ではございません」 「スペラがそばにおらねば眠れぬ。私は、枕が変わるとそうなのだ」 しれっと嘘ついてんじゃないよ! スペラは腹が立ったので 陛下のお言葉を無視して立ち上がった 廊下へ出て声を掛ければ どこからともなく側近が現れる 彼はまだ若く経験の浅い男で 陛下に最も近い老齢の側近の息子だ 父親に似ず大変な美丈夫でもある まあ、血が繋がっていないらしいので似てなくても不思議はない 自分の父親の立場を嵩にきることもなく 下っ端であると弁えて率先して雑務をこなす様は 見ていてとても好ましい スペラが彼に陛下のお食事の支度を頼んでいると まずい、と察した時には時すでに遅し 気配を消して近づいてきた陛下がスペラの肩越しに スペラの食事も持って来るようにと仰られた つーかもう、マジで近いって!!! 「同じものを、ご用意いたしましょうか」 「ああ、そのように」 「いや、俺が陛下と同じものを頂くのはおかしい。俺はあとで勝手に食べるから」 「私と同じものを。ここでスペラと食事をするので支度を頼む」 「かしこまりました」 「かしこまらなくっていい。わかるよな?陛下はご乱心であられるようだ」 「私のお仕えするのは、国王陛下でございます。陛下の愛情を退けられるなど、スペラ殿の方が、おこころが乱れておられるとしか思えません」 「あい、じょー……?」 「よく言ったぞ、リョク。側近の鑑であるな」 「恐れ多いお言葉にございます」 「ま、待ってくれ、リョク殿。今おかしな単語が」 「すぐにご用意いたします、陛下」 「ああ」 なんなの? なんでリョクはそんな満足げなの? 背後の超満足げなホクホクオーラはとりあえず無視したい スペラは深呼吸を繰り返して自分を落ち着かせ 振り返りざまに怖い声を出した リョクがいなくなってさらに距離を詰められて 服が触れ合うほどに近い ミラの匂いからは顔を背けても逃れられなくて スペラは自分の顔が赤くなるのを感じる 「いい加減に、してくれ。ミラの遊びに、いつまでも付き合っていられない」 「遊びだったのか?俺とのことは」 「本当に、真剣に、頼むからいつも通りに。よろしいですね、陛下」 「では、スペラ。王が夕餉を共にせよと所望する。従え」 ざけんなっ!! と叫ぶことができればこれほど痛快なことはない やりきれない憤りに頭の中をいっぱいにしていると 陛下は意気揚々とスペラの腕を掴んで部屋へ入った 触れ合う肌が、熱い 仕事のできる期待の新人は早々に食事を持ってきやがった 一緒に来た従者たちも楽しそうに陛下とお話しながら あっという間に二人分の夕餉が並んでいく ねぇねぇ 誰か疑問に思えよ おかしいだろう? なんで吹けば飛ぶような立場の男が こともあろうに国王陛下と二人で飯食うんだっつーのっ! 「スペラ」 「……………………は」 「たまにはいいだろう」 「………………………………は」 「怒るな」 「偉大なる我が国王陛下に怒りなど、天地がひっくり返っても|抱《いだ》きようのないことでございます」 「スペラは嘘が下手であるな」 「わざとにございます、我が君」 「おお。我が君、とは、何とも艶っぽい」 スペラは結局陛下と同じものを一緒に頂き 片付けに来てくれた従者たちと一緒に部屋を出た そうでもしなければ本当に寝台へ連れ込まれかねない そそくさと部屋の扉を閉めて息をつくスペラを 従者やリョクが不思議そうに見ている 「……いつも通り、陛下はご自分で湯浴みをされて、お一人で休まれる。俺はここで立ち番を」 「陛下がそのように仰せなのでしょうか?」 「首都を離れていても、できる限り諸事いつも通りに。陛下の安全が第一義だ」 「……なんとも、切なくございますね」 「……ごめん、まったくわからない」 寝ずの番など慣れたものだ スペラは彼らに持ち場や部屋に戻るように促して 静まり返った廊下でようやく息をついた 扉の向こうでは陛下がお健やかでおられる それが自分の生きがいであるとスペラは再確認した

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