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第88話

「スペラ、せっかくだから、その扉を使ってこちらへ」 スペラが呆然と立ち尽くしていると 薄い壁の向こうから初めて呼ばれた その声色でこれが陛下の差し金だと知れる スペラは状況を飲み込めないままに 壁越しに返事をして フラフラと廊下へ出て陛下の部屋へ行った 陛下は普通の家の寝台くらいはあろうかという大きな長椅子に ほとんど横たわるようにして寛いでおられた 「陛下……これは一体……」 「あの扉を使えばよいのに」 「は……いえ、ですが、鍵を開けていただくのにお手を煩わせては」 「今までかつて、あの扉に鍵をかけたことなどないが」 まあよい 陛下はそう言って身体を起こし ひどく楽しそうに自分の指を組んだり外したりしている スペラはまだ状況が理解できない とりあえず跪いて頭を下げた 「私の使っていた部屋なのですが」 「ああ。もう、使わせない」 「それは」 どういうことなのだろう 引っ越すのか? 「スペラのものなら、あそこに」 「え?」 陛下の指差した先には とても少ないスペラの私物がきちんと積まれている 絢爛な装飾を施されたその机の上に倹しさ満点のスペラの私物 ようやく事態が飲み込めて さすがにキレて思わず立ち上がる 「いい加減にしてくれ!一体何を考えてるんだ!俺は現状維持に命を懸けるからな!」 「勝手におかしな方向に大事な命を賭すな」 「勝手におかしな方向に進めてんのはミラだよね!?」 「おかしなものか。私を護るのなら、壁さえも邪魔だろう。寝食を共にしてこそだとは思わないのか?」 「まったく。いやもう、驚いちゃうくらいまったく思わない。うん、思わない」 「多少の食い違いは、そのうち埋まるだろう」 「ミラはいつからそんなざっくり思考になったの!?」 スペラはとりあえず自分のささやかな私物を取りに走り それを胸に抱いて薄布の際まで下がってミラと距離を取る ポトリと落ちた靴下を手探りで拾う 「あの部屋が使えないなら、廊下で寝る」 「やってみろ。ものの数秒で誰かが飛んできて、この部屋に放り込むだろう」 「するわけないじゃん!俺は国王陛下の部屋で寝るような立場じゃない!」 「その立場は、スペラ、お前のものだ」 「……は?」 ミラはゆっくりと立ち上がり 楽しくて嬉しくてたまらないといった表情で 大股でスペラに近づいてくる 逃げたい ミラに逆らえない 猫みたいにかわいくなっちゃって だから近寄らないで スペラは靴下片方をぎゅっと握り締めて立ち尽くす 「議決は済んだ」 「……何……議決……?」 「俺が、何もせずに手を拱いていたと思うか?」 「……なにしたんだよ」 「毅然としたスペラもいいけれど、こうやって、俺が近寄っただけでかわいくなるのもたまらんな」 「だから、ダメなんだろ……」 「ダメじゃない。おいで」 ミラには逆らえない 離れている間は自分を保っていられるけれど こうやって匂いとか体温を感じるほど距離を詰められて くだけた口調で甘く囁かれれば 血の流れさえ彼の言うなりだ ミラはスペラが最後の砦のように抱えている私物を受け取り 元通り机に積んで 手を繋いで広い私室の奥の寝所まで連れて行った 寝所にだけは壁があり扉がある 中には窓がないかわりに様々な趣向の行灯が置かれている その扉をミラと一緒に開けたことなどない 駐屯所の貴賓室の寝台も大きかったけれど ミラの私室だけあって大きいだけではなく豪勢だ 高い天蓋から降りている薄布は幾重にも重なり その布自体も色も素材も様々で 外側からは内部がよく見えないようになっている それでもスペラの思考を奪うには十分すぎるほど圧倒的な存在感だ スペラはなけなしの理性をかき集めて 引かれた腕を取り戻すようにその場に踏みとどまる 「せ……つめい、してください」 「スペラは強情だな」 「ミラが強引なんだろう」 「では、座らないか?それならいいだろう」 ミラは優しい でも容赦がない 自分の意見を譲歩することなんてない スペラは強ばった身体をぎこちなく動かして 誘われるままに薄布を通り抜けて ミラと並んで寝台に腰を下ろす 二人分の男の体重でふかふかの寝台は深く沈みこんだ 「俺は添い遂げるならスペラだと決めている」 「……そんなの、おかしい」 「おかしくない。でも、確かに抵抗や不安がなくはない。俺の周りに、だが」 「それが普通だよ」 「伴侶と後宮創設の話はほとんど毎日聞かされてきた。議題にさえ上がる。そのたびに俺は、想い人がいるのだと訴えてきたのだ」 「冗談だよね?」 「冗談なものか。スペラだと言えば、わけもわからず難癖をつけられる。だから名前は出さずに、ずっと愛しく想う相手がいると」 「あのさ……そんなことに、何の意味がある?思わせぶりに言い続けても、問題は解決しない」 「そうだろうか?」 ミラは相変わらず楽しそうだ スペラの髪を解いて指を指しいれ もう片方の手はスペラの手を握っている スペラは離れることも、目を逸らすこともできずに ただ上がっていく体温を自覚しながらされるがままでいた 本当に、なんでミラはこんなにいい匂いがするんだろう 「だんだんと、周りは気づいていく。俺が愛しているのがスペラだと。だけど俺がはっきり言わないから正面切って反対もできない」 「全然、意味がわからない」 「周りの目は、スペラに向く。お前が国王を誑かしているのかという批難の目だ。そして、どうにかして足元を掬って追い出してやろうと、虎視眈々と狙い出す」 「ちょっと……!俺そんなの知らないから!」 「知らないからいいんだ。何も知らないスペラは、ただひたすらに俺のために働いてくれた。だらしなく俺と耽ることもなく、むしろ必要以上に自分を律して」 「……」 「どこをどう突いても、スペラと俺の間に恥ずべき行為も揚げ足をとられる会話もない。この数年、ずっとだぞ?ほんのわずかも、愛し合うそぶりもない。そうしたら今度は、どうなったと思う」 「知らない。もう聞きたくない」 「みんなが俺に、同情し始めた」 「……は?」 ミラは立ち上がって そばに用意されていた水差しから背の高い綺麗な杯に中の液体を注いで スペラの手に握らせた 口元に当てられて、飲めと言われれば 抗うことなどできるはずもなく一息に飲み干す 水じゃない 「これほど陛下は想っておられるのに、報われないのですねと」 「ばか、ばかり」 「そう言うな。俺の演技が迫真だったんだろう」 「ミラもばかだ」 「今度はやきもきし始めるのだ、周りは。俺がため息の一つもつけば、ああ、愛に煩っておられるのだと」 「ちょっと待って。俺はミラが悩ましげにため息つくところも、ましてや振り向いてもらえない想い人がいるなんて話をしているところも見たことない」 「そりゃそうだろう。議場でしかそんなことはしない」 「……わざとだろう!」 「当たり前だ」 スペラは腹が立った 唯一干渉できない時間と空間 そこでミラがスペラを謀るために画策していたのだと思うと 「愛してる」 「ミラ……」 腹立ちなど一瞬で消えてしまう 鳶色の目に見つめられて 真剣な表情でそんな風に言われては 何もかもどうでもいい 目を閉じれば柔らかくてあたたかい唇が触れてくる しあわせを感じてしまう 「スペラは本当によくできた」 「ん……」 「俺に意味深な視線さえ向けずに粛々と。それがどれほど周りの信頼を買ったかわかるか?」 わからない ミラが何を言いたいのかもよくわからない 今は何も考えたくない 「後宮を創れとせっつかれて、創るはいいが、俺がそこにいて欲しいのはただ一人だと言ったら、スペラを後宮へ閉じ込めるのは気の毒だと言い出した」 「なに……?もう、よくわからない」 「このたびのことは完全に偶発的であったけれど、供の者らは誰一人、スペラが俺の部屋にいる事を咎めなかった。むしろ喜んでいた。お前の徹夜の立ち番を、気の毒がり、感心していた」 「なにを、喜んだって……?」 「今までどおり、スペラには俺の警護を……お前以外にこれほど俺を大事にできる者はいないと一致した。後宮は創らざるを得ないが、正式な伴侶は迎えなくともいいということになった」 「……ん……そうなの……?」 「周りは、お前が完全に俺に堕ちるのを待っているようだぞ」 その言葉の意味なんかどうでもよかった どうして伴侶を得なくてもいいという話で議会が一致したのかもわからない 俺が後宮に……?違うな、なんだっけ? いつもよりもずっと酩酊している さっき飲んだのは酒じゃなかったはずなのに いつの間にか横たわっていた寝台もミラの匂いがする 溶けて、わけがわからなくなる 「可愛いスペラは、もう、俺しか見てないな?」 「うん……」 「では、第一隊の若いのをたらしこんだのは大目にみてやろう」 「うん……」 「今まで通り、俺を護れ。ただしお前の部屋はここだ。いいな」 ミラの甘い声で囁かれて頭が痺れる ミラが欲しくて でもいつもみたいに火が出そうな欲望とは違う 本当に腑抜けで骨抜きみたいだ しっかりしろよ 俺の仕事は、任務は?思い出せ スペラは涙を滲ませながら何とか拳を握って抵抗した 全く歯が立たなかったけれど 「ダメ、だ。ここにいたら、緩んじゃって仕事に、ならない」 「俺の予定より、少し時間がかかったが、議会の掌握は済んだ。様々な情報を寄越す人間も作った」 「俺は、ダメなんだ。ミラが」 「この部屋は……この寝所だけは、安全だ。わかるな。議会の最中の議場と同じだ」 「……でも……」 「だからスペラは、この部屋でだけは緩んでいい。俺に愛されろ」 「うん……」 「愛しい人間に、休みなく働かせるのは、いくら俺でも心苦しいんだ。何より、触れたくてたまらないのだから」 「ミラ、でも」 「文句は言わないよ、誰も。むしろ歓迎されている」 「でも」 歓迎?そんな馬鹿な 一番ミラのしあわせを願っているあの側近だって スペラを陛下のお相手だなどと認めるとは思えない 官僚たちの中には自分の子息女をあわよくばと画策する者だっている お世話をしている従者たちだって 尊い陛下に自分たちと変わらない身分の人間が寄り添うなど 「スペラは人気者だからな」 「何、言ってんの」 「今となっては、誰もお前を悪く言わない。国王の愛を得て然るべき人間だと認めている。むしろ、これほど尽くしているスペラを蔑ろにするおつもりかと詰られることもある」 「ミラ、もう、やめてよ」 「膠着状態から脱するには、一気呵成に行動するものだ」 ミラの手がスペラの衣服を剥ぎとっていく 駐屯所の貴賓室でされたように増えた傷を辿られる 私宅と大宮殿の往復では実際はあまり危険はない 例えば晩餐会 例えば何かの式典 そういう不特定多数の人間が集まる中で ミラにピタリと張り付いて入られない状況が生まれる そういう時に彼を狙う人間が狡猾に近づいていく 騒ぎを起こすことはできない できるだけ静かに密かに敵を沈めるしかない そういう時にひとまず自分の身体に相手の持つ刃物の切っ先を埋めることもある 傷は増えてもかまわない それをミラに見られなければ なのに、どうして ミラは指だけでは飽き足らず舌を這わせてスペラの傷跡を確かめ始める ゾクゾクとした愉悦 どうして、こんなに 「スペラは本当に優秀だ。しかし、人を使う事に慣れていない。なんでも自分でできてしまうからな」 ミラは色気の漂う笑顔でスペラを眺めながら ゆっくりと自分の服を脱いでいく スペラはそれを欲情した顔で見上げるほかない 「俺は、スペラを側に寄せるためならなんでも使う。俺を護るのはスペラだけだが、俺たちの時間の邪魔をさせないくらいの役目は、俺の使う者がするだろう」 「よくわからない」 「心配するな。確かにすっかり骨抜きになってしまっているが、有事にはちゃんと元に戻って動ける」 「そうかな……」 それだけがスペラの気がかりだった ミラと日常的に愛し合うようになって 寝所の外でも惚けてしまって そうしたら自分の存在価値は塵と化す そうなれば死ぬしかない 塵芥の命でもミラは惜しんでくれるだろうか 裸になったミラに抱きすくめられて 触れ合う肌の感触にスペラは頭の中がパンと白く飛ぶような感覚を味わう いつもたまらない恍惚感を呼ぶ、完全に逆らえなくなる瞬間 「俺の匂いが好きなのか?」 「うん……すごくいい匂い、するよね」 「さあ?俺はスペラの匂いの方が好きだが……鼻を鳴らして擦り寄ってくるスペラはかわいいな」 「ミラ……」 「いいな、スペラ。俺の言う通りに。何も心配は要らない」 「ん……うん……」 「王様の言う事は、聞くものだ」 「俺の、王様」 「そうだよ。俺の愛しい、かわいいスペラ」 ただひたすらにミラを護ってきた これからは 「愛し合いながら、ミラを護っていけばいいの?」 「そう。ここでは、かわいい猫でいい。俺を愛して、スペラ」 「やっと、わかった」 「そうか」 スペラはミラの口づけに酔いながら 自分がいかに無理をしているかを理解した 緊張と弛緩 弛緩する事をずっと恐れていた でももう怖くない 愛する人を護るべきときに惚けているほど愚鈍ではない 俺は、優秀な軍人上がりなんだから その証拠に駐屯所から戻る道程もちゃんと警護を務めた そうだよね? 「ミラも、そこを信じているんだろ?」 「俺か?俺はただ、スペラを抱きたいだけの王様だよ」 「王様、サイコー……」 「だろう?」 この国では王さえも愛のために生きる 愛する人と愛し合うために

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