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第6話
佐川が翌日、自分の部屋を出たとき、神坂はまだ寝ているようだった。人の気配はあるけれど、物音がしない。佐川は静かに身支度を整えて、リビングのテレビで天気予報を確認してから家を出た。
リビングは綺麗に片付いていて、昨日のことは夢だったような気がする。しかしもちろん、現実だ。
佐川はその日、朝から晩まで引越し作業に追われていた。単身者を二件と、夕方以降はオフィスの引越しだ。寒い屋外と暖かい屋内を出入りし、重たい荷物や家具を運び、時間の制約もあるシビアな状況で、時々頭を掠めるのは昨夜のことだ。
不機嫌そうで偉そうな神坂しか知らなかった。あんな処理の仕方も知らなかった。嫌悪感はない代わりに、驚きと、できれば距離を取りたいような感情が湧く。
しかしあの家は居心地がいい。神坂だって、あの一点を除けば悪い人じゃない。いや、肉観点から言えば、すごくいい人だ。だけど、アレを日常的に見るのは、結構しんどいように思う。神坂はどうして自慰行為を人に見せたいのだろうか?
「はぁ……」
「どうしたー疲れたか?」
「や……大丈夫っす」
「よく働いたしな、今日も」
「ですね」
運転をする三十代半ばの先輩と、助手席に座る二十代後半の先輩に挟まれて、佐川は知らずため息を吐いていた。三十代の先輩は非常に話好きで、二十代の先輩は物静かだ。
大学に合格した高校生の時からこのアルバイトを始めた佐川だが、最近はこの三人でチームになって動くことが多い。だから多少は気心が知れている。
最後の現場を終えて、営業所へ戻る道すがら、心地いい筋肉疲労を感じながら、今日もアレに付き合うのだろうかと考えると、またため息が出る。今日はなくても、明日はあるかもしれない。また、ため息が出る。
「佐川ーお前若いんだからさ、もっとはじけろよ。彼女は?」
「いないっすね、今……」
「いっつもいないだろ?なあ、内藤。佐川いっつもいないよな、彼女」
「ですね」
内藤と呼ばれた、口数の少ない先輩は、窓の外を眺めながら短い返事をしただけだ。運転をしている尾野は、それでも機嫌よさそうに、ほらな~と笑っている。内藤が一回で返事をするのが珍しいからだ。口数が少ないと言うよりは、無愛想なのだろう。
佐川は一応、いつもじゃないです、今だけです、と反論しておいた。
二十二年の人生で、彼女は三人いた。一人はキスをした次の日にふられた。後の二人は、一応エッチはしたけれど、最終的には面白くないと言われてふられた。でも、いたことはあるのだ。ふられようが何しようが、素人童貞ではないことが佐川の誇りだ。ちっぽけだということは百も承知だ。
営業所に帰り着いたのは、二十三時を過ぎていた。雑事を済ませて、そこから自転車で家まで戻ると、日付はすでに日曜日で、当然だけれど神坂の姿は共同スペースのどこにもなかった。
佐川は少しほっとして、静かにシャワーを浴びて、大きなベッドにもぐり込み、泥のように眠った。
翌日も佐川はバイトだった。
昨日よりは少し遅めに家を出たけれど、神坂はまだ寝ているらしかった。家に戻ったのは夕方過ぎで、一日半ぶりに、佐川は神坂の姿を見た。
神坂はリビングで一人掛け用のソファに収まり、膝を抱えて映画を観ていた。入ってきた佐川の方を見ることさえない。気づいているはずなのに。
「ただいま戻りました」
「……おかえり」
神坂は、綺麗な横顔を佐川に見せたまま、気のない返事を寄越す。それでも、返事はしてくれる。
「マリちゃん、飯食いました?」
「まだ。焼肉でも食いに行く?」
「行きますっ!!」
「あと三十分待て。映画、途中だから」
「はい!」
思いも掛けないご褒美肉に、佐川は一気にテンションが上がる。寒くてもバイトに行けば汗をかく。神坂が映画を観終わるまでの時間で、佐川はシャワーを浴びた。
「……着替えました?」
「当たり前だ。僕は女装して外出する趣味はない。トラ吉こそ、なんでシャワー浴びてんだ。今から煙臭くなるのに」
「バイトで汗かいたので」
「あっそ」
佐川が帰ってきたとき、神坂は女の子の格好をしていた。髪は結んでなかったけれど、タートルネックのニットは柔らかそうな薄いグリーンで、下にグレンチェックのスカートを穿いていた。だけど、今コートを羽織ろうとしている神坂は、ニットはそのままだったけれどコーデュロイのパンツに替えていた。最初に聞いた通り、女装も自慰行為も、公然と披露するつもりはないらしい。じゃあ、公開自慰って言い方は結構大げさだよな。
神坂と初めて会った焼き肉屋さんへ向かうのかと思ったら、自宅マンションから歩いて数分の、もう少し小さな店へ連れて行かれた。小さくとも個室完備で、メニューに値段が書かれていない店だった。
「うわー……」
「なんだ」
「時価ってやつですか?値段のないお品書き、初めて見ました」
「さあ?値段なんか見て頼まない」
「研究職って、給料いいんですね」
「僕が有能なだけ」
「なるほど」
常連らしい神坂は、慣れた様子で注文し、前回の時もそうだったけれど、運ばれてきた肉はすごく美味しくて、とにかくビールも白飯も進む進む。バイトで身体を動かした後でもあったので、佐川の食欲は大爆発だった。
「うまいーうまいー」
「ああ」
「神坂さん、次、何飲みます?ビール以外の方がいいですか?」
「……トラ吉はさぁ」
「はい?あ、焼酎とか」
「紫蘇お湯割濃い目」
「はい」
佐川は言われたとおりの注文を店員に伝え、ついでに酒のアテを二、三品頼んで、残っていた肉を焼き始める。
「なんでした?何か言いかけましたよね、すみません」
「……トラ吉は、何のバイトしてんの」
「あ、言ってませんでした?引越し屋です」
「ふーん。力仕事だ。筋肉のために?」
「はい、もちろん」
「……帰って来ないかと思った」
「え?」
沈黙が部屋に満ちる。肉の脂が弾ける音が大きく聞こえる。佐川は眼鏡のブリッジを押し上げて、目の前の神坂を見つめた。神坂は金網の上で色を変えていく肉を見ている。
「神坂さん?」
「出て行かなくても、僕が起きている時間には、もう帰って来ないんだろうと思った」
「どうしてです?」
「……」
神坂は肉を見たまま、聞こえていないかのように白けた顔をしている。部屋のドアが開いて、神坂の焼酎が届き、アテが届き、再び沈黙が落ちる。
佐川は肉を皿に移しながら、何かまずかっただろうかと考えていた。
「……バイトは、入れられるときにできるだけ詰めます。引越しする人って土日に頼むことが多いので、必然的に俺のバイトも土日は詰まります。朝から晩まで」
「ふぅん」
「どっちかって言うと、土曜日の方が多いです。あと、金曜日。引っ越した後の作業考えると、土日をそれに当てる人が多いんでしょうね」
「ふぅん」
「俺、金曜日は授業が一時限目だけなので、それ出て、その後バイトに行く事が多いです。今週はなかったですが」
「ふぅん」
「神坂さん」
「何」
「俺、あの家、すごく居心地いいです。あのベッドも鏡も、ありがたいです」
「……あっそ」
神坂が焼酎のグラスに口をつける。
佐川は考えを口にしようかどうか迷った。あなたの自慰行為を見ることは、何とか我慢はできますがやっぱりしんどいです、と。しかしそれを伝えたところで状況はよくならないし、佐川はその条件を飲んであの家にいるのだ。腹を括るしかない。見るだけだ。だから、逃げない。
「神坂さん」
「何」
「今日、します?」
「……うん。するから付き合え」
「はい」
それから二人は黙々と酒を飲み、肉を食べ、自宅に戻って風呂に入った後、神坂は宣言どおりリビングで自慰をした。佐川はそれをじっと見といた。
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