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第14話

 神坂の部屋に戻ると、佐川はポケットから、温まり始めたカイロを取り出した。それを薄いタオル地のハンカチで包むと、ちょっと失礼します、と声をかけ、布団の中に手を突っ込んで、彼の背中の下へ潜り込ませる。肩甲骨の辺りを温めると気持ちがいい……はずだ。多少は寝苦しいかもしれないけれど、寒いよりはマシだろう。  布団の中は熱がこもっていて、神坂はされるがままで、ふーふーと辛そうな呼吸を繰り返している。とてもではないけれど、食事をして市販薬を、という状況ではない。病院へ行くほうが治りも早いし、インフルエンザかどうかのチェックもしてくれる。反応が出るほどの時間は経過していないけれど、それでも何某かの診断はもらえるだろう。 「病院、行きましょう」 「………………う」  佐川はその場に座り込み、携帯で近所の病院を検索する。駅前のビルの中にクリニックがあることは知っていたけれど、もっと近い場所がないだろうかと探すと、幸いにも、マンションの裏手当たりに診療所があるようだ。駅の方向じゃないのでまったく気づかなかった。しかもラッキーなことに、土曜日の午前は診療しているとある。神坂の普段の行いだろう。  佐川はその地図を頭に入れて、携帯をポケットに押し込みながら、ベッドに埋もれている神坂に声をかける。 「史織くん。近所の診療所でいいですか?」 「う」 「混んでるかもしれないし、ちょっと様子見てきます。すぐ診てもらえるといいんだけど」 「う」 「寝てていいですよ」 「………………う」  佐川は立ち上がって、ぽっこりと膨らんだ布団をぽんぽんと撫で、足早に家を出た。普段は使わないマンションの裏口を出ると、その時点で看板が目に入るほどの距離だった。これなら神坂も歩けるだろう。無理なら担いででも行ける距離だ。そのくらいの自信はある。  待合室には二人が座っていて、受付の人に聞けば、二十分ほどで診察してくれるという。 「診察券はお持ちですか?」 「いや……どうだろう。わかりません」 「保険証はありますよね?」 「それはもちろん、あるはずです。会社員ですので」 「えーと、ご家族の方ですか?」 「いえ。えっと、相部屋で、一緒に住んでて」 「あはは!ルームシェアね」  相部屋って!と、自分の母親のような世代の女性に笑われ、佐川はしょんぼりした。相部屋の何がおかしいのだろうか。確かに一部屋を分けるのと、一部屋に押し込まれるのと、ニュアンスの違いはあるな。ルームシェア、ルームシェア、と呪文のように自分に言い聞かせながら、佐川は受付の人との話を進める。 「すごい熱で、扁桃腺も腫れてるみたいで、あの、ここで座って待っているのも辛そうなので、見計らって来たいんですが」 「そうですか。そうねぇ……インフルエンザだと困るし……」 「ああ、じゃあ、僕が行ってあげようか」 「あら、先生。駄目ですよー一緒に行けるナースがいませんもの」  受付の向こうに広がる、大量のカルテや備品の収まったキャビネットが置かれた詰め所のような場所から、初老の男性がひょっこり顔を見せて楽しそうに声をかけてきた。白衣を着ているから医師なのだろう。佐川は、いかにも往診してくれそうな先生のイメージだと思った。 「誰かいないの?僕、今暇なんだよね」 「いませんって……土曜日ですから。暇って何ですか」 「息子先生が張り切っちゃって、僕に患者さん回してくれないんだもん」 「もう……」  受付の人が、苦笑いをしながら佐川に説明してくれる。この診療所の|大先生《おおせんせい》で、最近息子が戻ってきて、そっちに世代交代をしようとしているせいで、大先生はあまり仕事がないそうだ。昔からある診療所なので、大先生指名の患者さんも多いらしいけれど、基本的には若先生がメインで、大先生はサポート役らしい。今日は土曜日で、患者さんも少なくて、自分を指名してくれる古くからの顔見知りもいなくて、とっても暇なのだそうだ。  佐川としては、神坂の苦しそうな様子が頭に浮かんで、できれば往診をお願いしたかったのだけれど、どうしていいものかわからず黙り込んでしまった。 「友達なのかい?」 「え?あ……はい」 「熱は計った?」 「いえ。でも、おでこはすごく熱かったです」 「扁桃腺が腫れてるって?」 「はい。ここ、グリグリで、痛いって」 「ふーむ。困ったねぇ」  佐川は喉の横のところを、指でグリグリしながら説明した。大先生は白衣の大きなポケットに手を突っ込んで、ふむふむと頷いている。受付の人は呆れ顔で、なにやら書類を取り出している。 「家は近いの?この辺の人じゃないと、こんな小さな診療所に来ないよね」 「あ、すごく、近所です。裏のマンションです」 「ああ、あの外壁がピンクのね。あのマンション、かわいいよね」 「はぁ」 「はい、先生。行くのはいいですけど、ちゃんと若先生に言ってからにしてくださいね」 「お。さすがだねぇ。ありがと、和江ちゃん」  受付の女性は和江ちゃんというらしい。呆れつつも笑顔で、書類を一枚、大先生に差し出す。先生はそれを受け取ると、佐川にちょっと待っていろと言って、奥のほうへ消えてしまった。 「診るの好きなのよ。だから、止まらないのよね」 「はぁ……」 「今日はもういいので、月曜日にでもお支払いに来てくださいね」 「え?いや、来ていただいたときに」 「外だと、計算できませんのでね。先生がどんぶりでじゃあ千五百円!とか言っちゃうと、それはそれで面倒ですし」 「はぁ」 「先生に診てもらって、あとで御代金計算しておきますから、後日支払いにいらしてください。お大事に」  さっさと会話を終わらせられて、それは別の患者が会計に来たからだけれど、どうしたものだと迷う暇もなく、意気揚々と大先生が白衣の上にコートを引っ掛けて、さあ、行こう!とやってきた。手にしているバッグが佐川のイメージそのままの年季の入ったダレスバッグで、この先生なら神坂を助けてくれるだろうと安心した。  先生と一緒に家に戻り、医者を連れてきたよと神坂に声をかければ、彼はもうほとんど反応もできないほど弱りきっていた。  佐川はパニックになって、先生の袖をぐいぐい引っ張り、勝手にバッグを開けて手当たり次第渡していく。先生は大笑いしながら、無表情にあわてんぼうって面白いねぇと言う。 「君はちょっと、出てなさいね」 「え、でも」 「家族じゃないんだから、それぐらいは遠慮するものだよ」 「……はい」 「その聴診器は僕が使うから、置いていってね」  佐川は無意識に握り締めていた聴診器を返し、神坂をじっと見つめ、先生によろしくお願いしますと頭を下げて部屋を出た。  リビングのソファに座ると深いため息が出る。医者に診てもらえたという安心感と、こんなことになったのは自分のせいだという罪悪感がこみ上げてくる。残業続きで疲れていただろうところに、あんな寒い場所で待たせてしまった。佐川が待ち伏せなんてしなければ、神坂だって逆待ち伏せなどしなかった。夕べはもっと早く寝かせるべきだった。いや、寝る前に温かい飲み物でも……。  悶々と考えれば考えるほど、佐川は落ち込んだ。大事な人だと、好きなのだと認識したとたんにこれだ。自分は神坂の厄介者でしかないような気さえしてくる。あの人に優しくしたいのに、上手くいかない。  落ち着かずに冷蔵庫から水を持ってきてぐいぐい飲んでいたら、先生が出てきた。 「先生!」 「もう大丈夫だよ。注射はしたし」 「よかったぁ」 「インフルエンザでもなさそうだしね。炎症止め出しとくね」 「熱、寒いって」 「寒気は、体温上げて、体内の菌とかウィルスを攻撃しろっていう自己防衛。だから、熱がちゃんと上がれば止まるよ」 「はぁ」 「今お水飲ませたし、しばらく休んで、昼に何か食べてから薬ね」  そのほかの細々とした話をしながら、先生は佐川に書類を書かせた。和江ちゃんが持たせた書類だ。住所や連絡先などなど、何でもない項目につまる。佐川は、たまたまテーブルの上にあった公共料金の引き落とし通知書の住所を書き写し、連絡先は登録してある携帯番号で凌いだ。氏名……聞いておいてよかったと心底思う。年齢?ええっと、手越さんが二回生の時の四回生だから……手越さんは自分の二つ上……いや、年齢はひとつ違いか。じゃあ、えっと……。 「これ持って帰って、和江ちゃんに計算してもらっとくから、また今度支払いに来てね。そのときは本人がいいと思うよ。保険証持ってね。治りきってなければ、そのときもう一回診た方がいいし」 「はい」 「往診料かかるから、普通より少し高いからね。用意しておいてね」 「はい」 「はい。じゃあ、お大事にね」 「先生、本当にありがとうございました」 「いいえ。早く元気になるといいねぇ」 「はい」  先生を玄関まで見送って、もし何かあれば電話してきていいよというこの上なく頼もしい言葉を貰い、ドアを閉めたと同時に神坂の部屋にダッシュした。足音を立てずにダッシュするのは結構筋力がいる。  神坂はベッドで眠っていた。医者と話すと安心するからだろう。さっきよりもずっと穏やかな顔をしている。薬が効き始めているのかもしれない。  神坂に必要なのは、休息と睡眠だ。佐川は、自分はどこにいるべきかを考えた。傍にいたほうが、自分は安心できるし、彼がもし自分を呼ぶことがあればそのほうが便利だろうと思う。でも、具合が悪くて寝ているときに、他人が近くにいるのは嫌かもしれない。元々、神坂は自分の領域を大切にするタイプのようだし、許されるだろうという思い上がりは後悔を生みかねない。  汗で湿る髪をそっと指で払って、神坂のおでこに手のひらを当てる。さっきとどれほど違うのかはわからないけれど、神坂が泣いていないというだけでほっとした。  佐川は静かに部屋を出て、リビングにいることにした。

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