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第15話

 テレビをつける気にもならなくて、ソファに崩れながら過ごした午前だった。大きな掃き出し窓から差す光は明るい。昼を過ぎて、神坂の部屋へ様子を窺いに行くと、彼は目を覚ましていた。 「史織くん?具合はどうですか」 「……も、へ・き」 「そうですか。薬があるから飲んだほうがいいみたい。えーと……今の史織くんが食べられそうなものがないので、買って来るけど、何が食べたいですか?」 「………………あめ」 「それはデザートに。おかゆとか……せめてスープ的なものとか。プリンとかゼリーは?」 「う」 「すぐ帰ってきます。眠かったら寝てていいですよ」 「う」 「行ってきますね」 「…………と、ら」 「はい」 「……りがと」 「いいえ」  佐川は急いで駅前まで出かけ、スーパーよりも会計の早いコンビニで、目当てのものを買い込んですぐさま帰宅する。神坂はうとうとしながらも起きていたようだ。佐川の気配を察して、もぞもぞと動き出す。 「ただいま。起きられそうですか?」 「う」 「じゃあ、ちょっとお水飲んで待っててください。おかゆ温めてきます」 「向こ、で、食べる」 「そう?大丈夫ですか?」 「う」  欧米人じゃないんだから、確かに寝台で食事をする気にはなれないだろう。佐川はよろよろとベッドを降りる神坂を支え、何か上着をと見回したけれど発見できなかった。  収納部屋まで覗くのは気が引けるので、これで我慢して下さい、と自分が着ているカーディガンを脱いで彼の肩を包む。神坂の手には、佐川のハンカチにくるまったカイロが握られている。足元が寒いなら靴下をと思ったけれど、もこもこスリッパだから大丈夫そうだ。 「寒いですか?」 「へ、き」 「ダイニング寒いんで、ソファでいいですよね?」 「う」  神坂は意外としっかりした足取りで、自力でリビングへ移動し、大きなため息を吐きながらソファの定位置に落ち着いた。佐川は彼の前に水のボトルを置き、暖房を少し強めてからキッチンへ行き、彼の食事の用意をする。  温めたおかゆとのど飴とプリンを持ってリビングに戻ると、神坂はソファの上で三角座りをして、自分の膝におでこを押し付けるようにして小さくなっていた。佐川のカーディガンが大きいので、そう見えただけかもしれない。スリッパを脱いだ足先が寒そうに見えて、佐川はトレーをテーブルに載せると、ズボンの裾からはみ出ている神坂の素足の先を手のひらで包んだ。案の定冷たい。 「靴下履きましょうか」 「……いい」 「そうですか。食べられるだけでいいので、食べてください。それから薬飲んでもう少し寝て、そうしたらもっと楽になりますよ」 「…………とら」 「はい」 「……ありがと」 「いいえ」  ずるずると滑り落ちるようにソファから床へ移動し、床暖房のおかげでむしろその方が暖かいだろうけれど、神坂は緩慢な動作でおかゆを飲み込んでいく。多くはない量を、一生懸命小さな口を動かして、時間をかけて、全部を食べてくれたときには佐川はひどく安心した。 「飴食べます?」 「う」 「先にプリン食べませんか」 「も、入らない」 「そう。じゃあ、薬飲んでから、飴で」 「う」  先生が置いていった薬はいくつかあって、佐川は眉間にしわを寄せて眼鏡を押し上げ、真剣に用法と容量を確認し、神坂の手のひらに載せていく。神坂は載せられるたびに、パクリ、パクリ、と大量の水とともに飲み下す。 「はい、それで全部です」 「う」 「寒くないですか?」 「……ちょっと、暑い」 「着替えてから寝たほうがいいかも。汗かいた?」 「う……そうする」 「はい」  神坂はふらふらと立ち上がると、バスルームのほうへ向かった。下着や寝巻きは脱衣所のキャビネットに仕舞ってあるからだ。着替えを手伝うのもどうかと思ったので、佐川は神坂の使った食器を片付け始める。 「とら」 「はい」 「これ、ありがと」 「ああ。でも暑いなら、もう捨てましょう」  薄手のパジャマに着替えて戻ってきた神坂は、カイロを握り締めている。時として超高温になり、思いがけない灼熱を生むカイロは、発熱患者にはあまりよくないかもしれない。佐川が手のひらを差し出すと、神坂はちょっと迷ったように躊躇って、カイロだけをへちょんと載せた。 「これ、は、いい?」 「?どうぞ」 「うん。これ、は、あとで」  神坂の手には、佐川のハンカチが残った。気に入ったのなら使っていてかまわないので、佐川は頷いた。神坂はコクコクと頷き返して、もう少し寝ると言い残してポフリポフリと足音を立てながら部屋へ戻っていく。佐川はその薄い背中に声をかけた。ぶかぶかのカーディガンの中で泳ぐほど薄い背中。 「史織くん」 「、に」 「俺、リビングにいます。たまに部屋覗くけど、いいですか?」 「……うん」 「テレビも見ないし、呼んでくれたら聞こえますから、何かあったら声出してください」 「……うん」 「…………部屋にいたほうがいいですか?」  神坂の好きなようにしたいと思ったので、佐川は確認した。神坂は少し考えてから、小さく首を振った。大丈夫、という言葉とともに。佐川はわかりましたと答えて、彼を見送った。  佐川はリビングで、読まないといけない本を読んだりウトウトしたりしながら静かに過ごした。時々神坂の部屋へ行くと、彼はいつも眠っていたけれど、枕もとの水が減っていたりして、どうやら寝たり起きたりのようだと知れる。佐川を呼ばないのは、用事がないからだろう。空に近いペットボトルを、蓋を緩めた新しいものに取り替えて、神坂の髪を撫でて、起こさないように出て行くことを繰り返す。  夜の十一時を過ぎて、神坂がようやくリビングに出てきた。 「具合はどうですか?」 「だいぶ、いい。ありがとう」 「いえ……何か食べられますか。薬飲まないとね」 「うん」 「昼と同じおかゆでいい?」 「うん」 「座っててください。すぐ用意しますから」 「……トラ」 「はい?」  もし神坂が起きてきたら掛けてあげようと用意しておいた、小さめのブランケットを広げながら、佐川は神坂に座るように促す。ポフンポフンと足音を立てて寄ってきた神坂は、座る前に佐川を見上げた。涙目ではなく、いつものちゃんとした強い目だ。佐川はそれを見て安心した。 「ごめん、世話をかけて……バイトだっただろう」 「いいえ」 「……」 「座って。寒くないですか?」 「……うん」 「ちょっと待っててくださいね」  神坂は律儀にも佐川の貸したカーディガンを着て、佐川のハンカチを握り締めている。さっきから頻りに気にしているのは寝癖らしい。確かに後頭部のあたりの髪が明後日の方向へ飛び出している。それはそれで愛嬌があるので、佐川は今日もちゃんとかわいいですよと言って、ソファに収まった神坂の下半身をブランケットでくるんでからキッチンへ向かった。  変わりばえのしないレトルトのおかゆと、飴とプリンを、昼と同じように用意すると、神坂はそれを昼よりは少し楽そうに口へ運んだ。プリンも食べてくれた。昼と同じように真剣に用法と容量を確認しながら渡した薬を素直に飲み込み、その小さな口にのど飴を入れて、ふうとため息をついた。熱は引いたらしい。おでこに手を当てて確認するには、神坂の意識ははっきりしすぎていた。 「熱……計ります?」 「うちに体温計なんかない」 「さっき買ってくればよかったかな」 「要らない。計ったって、下がるわけじゃない」 「そういう問題じゃないでしょう」 「だったらお前は持ってるのか」 「俺は小学生のころから、熱を出したことはありません」 「あっそ」 「あ……コバヤシさんが、何時でもいいから電話してっておっしゃってました。忘れてた」 「ああ……今何時?もう、明日でいいかな」  一人がけ用のソファに膝を抱えて座る神坂は、もうほとんどいつもと同じに見える。熱と喉の痛み以外に自覚症状はないらしいので、風邪ではなかったのかもしれない。それらも収まりつつあって、神坂はいよいよいつもの調子だ。 「風呂、入りますか?ちゃんと温まって、髪もすぐ乾かせば、入浴自体は悪くはないらしいですよ」 「そうだな。その方が、すっきりするかも」 「はい。じゃあ、お湯溜めてきます」 「トラ」 「はい」 「……明日は治る。だから、明日はバイトに行ってくれていい」 「バイトがあれば行きます」  神坂はそれ以上何も言わず、佐川もそのまま風呂場へ行って、いつもの設定より熱めのお湯をバスタブへ注ぎ始めた。  リビングに戻ると、神坂は誰かと電話をしていた。コバヤシさんだろうか?聞き耳を立てるのも嫌で、佐川は神坂の使った食器を手にキッチンへ移動した。昼間よりは随分とマシな、それでも明らかに掠れた声で、神坂が「別にたいしたことないよ」と言っているのが聞こえる。ひどく親しげで、甘えるように話す神坂に、なんだかほんの少し釈然としないものを感じた。  食器を洗い終わってもまだ神坂は電話をしていて、佐川は釈然としないのを通り越して苛立ち、バスルームへお湯を止めに行く。その時ようやく、自分は嫉妬しているのだと気づいて佐川はため息をついた。  好きな人ができて嬉しい。でも、こういう感情は苦手だ。普段あまり感情的にならない分、持て余す。神坂にぶつけることはしたくない。だからこそ、自分でやり過ごすしかないのだけれど、あまり経験がないのでその方法がわからない。  きっと神坂は、こういう感情にも慣れていて、色んな経験も豊富で、佐川みたいにどうしていいかわからずオロオロすることもないのだろう。好きだと言ってくれたときもひどく冷静だった。子供だと認めたくはないけれど、自分はきっとコバヤシさんより、頼り甲斐はない。  生暖かい湯気のこもるバスルームで、しばらくぼんやりしてから、佐川はリビングに戻った。神坂はようやく電話を終えたところだった。 「風呂、できましたよ」 「ごめん。ありがとう」 「いいえ」 「トラ、あの、僕あんまり覚えてないんだけど、ひどかった?」 「え?ああ……ひどいというか、すごくしんどそうだったかな」 「……変なこと、言わなかった?」 「変なこと?別に?ほとんど声出てませんでしたしね。だからコバヤシさんに、俺が代わりに電話したんですよ」 「ああ……そっか。うん、ごめん」 「何か気になることでもありますか」 「…………いや」 「そうですか。じゃあ、俺から質問してもいいですか」 「え?あ、うん」 「いつから具合悪かったんですか」 「……木曜日の晩ぐらい」 「そうですか。あんまり無理しないでください。コバヤシさんも、|史織さん《・・・・》は無理をするって、言ってましたよ」 「あー……うん。今、タカミネにも怒られた。本当に、面倒かけてごめん」 「……」  佐川は黙り込んだ。自分は神坂を怒ったりできない。それは彼に遠慮しているからなのだろうか?それとも対等ではないと無意識に諦めているからか。こうなったのは自分のせいだという罪悪感があるから?  いずれにせよ、自分ができないことを容易くやってのける他人の存在が愉快なはずはない。自分はいまだにトラと呼ばれ、得体の知れないコバヤシという男は、タカミネと呼ばれていることも非常にムカつく。  佐川にとって、見ず知らずの誰かに対して優位に立てるのは、彼が好きだという気持ちと、彼に好きだと言われたという事実だけだ。 「史織くん」 「なに」 「俺、史織くんが好きだからやってるんです。だから、謝らなくていいです」 「…………」 「……何かおかしなことを言いましたか」  佐川の言葉に、神坂は驚いたように目を見開いて、視線を逸らした。佐川の苛立ちは募る。何だというのだ。自分は何か間違っているのだろうか? 「……昨日の晩も、結構フラフラしてたんだ」 「そうですか。俺、気づかなくて」 「夜中に本格的に具合が悪くなって、熱出して、意識も朦朧として」 「はい」 「だから、どれが夢で現実だか……よくわからなくなって。お前と話してたときも、おかしな事……言ったかなって……その……夢なのか、本当に、あの」  佐川はさらにちょっとムカついた。なので、神坂の前に膝を着いて彼の顔を覗き込むと、改めて気持ちを口にした。 「俺は、史織くんが好きです。夢の中でも現実でも、関係なく」 「……うん」 「……今は、それでいいです」  熱を出すほど疲れている神坂に、あなたの夕べの言葉は嘘なのかと問い質したりはしない。そのぐらいの分別は、シガナイ学生でも持っているのだ。神坂は居心地悪そうに目を泳がせている。佐川は立ち上がりながら、風呂へ入ってくださいと言った。 「シーツとか、替えましょうか」 「いい。自分でする」 「……」 「……洗濯、頼むし」 「はい」  佐川は自分にできることを一生懸命やった。食事の後片付けをして、彼が風呂から出て寝入った後で洗濯機を回し、明日の天気予報を確認してから乾燥機ではなく外に干す。冷たい風が手の感覚を奪うけれど、苦にはならなかった。

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