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第16話

 佐川はそのままリビングのソファで毛布に包まり、朝を迎えた。佐川を起こしたのは神坂だった。 「おはよう」 「……はよ、ざいま……」 「トラ、バイト何時から?」 「え?あー……えっと……十一時に……行きます」 「じゃあ、自分の部屋でもう少し寝ろ。起こしてやるから」 「史織くん、具合は?」 「完璧。だから、心配せずに寝ていい」  開けられたカーテンからの陽の光に目を眩ませつつ、佐川は神坂の様子を確認しようとなんとかまぶたを持ち上げる。すっきりしたように見える彼の姿に、こころの底から安心する。ああ、よかった。そしてまた目を閉じた。 「おい、トラ?自分の部屋のベッドで寝ろよ。その方が楽だろう?おいって……」  神坂のいつもの、不機嫌そうな低い声が心地いい。昨日の晩はほとんど眠れなかった。バイトへ行くのなら、確かに一眠りしたほうがよさそうだ。佐川はそのまま、穏やかな気分で二度寝を始めた。 「いい加減に起きろ、馬鹿トラ」  強く肩を揺すられて、佐川は目を覚ました。けれどうめき声を上げるだけで、目が開けられない。揺すったのは神坂だろう。  そうだ、ほんのちょっと前、もう大丈夫だから寝ろと言われて二度寝をした。十一時には家を出ないとバイトに……そこまで考えて、脳みそは覚醒を始め、身体は睡眠の続行を強く促す。佐川は身体の催促に従い、毛布を肩に引き上げつつ、寝ぼけた声を出した。 「今、何時すか……」 「十時半」 「んー……」 「いい加減起きて、放せ」 「え……?」  佐川が目を開けると、眼鏡がないので視界が心許ない。なのにピントが合うほど近くに神坂の顔があった。びっくりして身体が強張る。その途端に神坂が悲鳴を上げた。 「痛てぇよ!」 「え!?なんで!?」 「なんでじゃねぇ!この馬鹿力!!」 「え!?なにが!?」 「手を放せ!この寝ぼけ馬鹿トラ!」  手?  佐川が毛布に埋まった自分の手を確認すると、がっつり神坂の手を握り締めていた。さっきびっくりしたときに無意識にぎゅっとした。佐川の握力なら、それは痛いだろう。 「うわっ!すみませんっ!」 「僕の手が潰れたらどうするんだ!」 「全力でフォローします!」 「そんな話してねぇよ!」  佐川が開いた手のひらから、残像が残るほどの速度で、神坂は自分の手を取り戻した。もう片方の手で痛そうに擦っている。佐川は毛布を跳ね除けて、滑り落ちるように神坂と同じくフローリングに降りると、手をついて謝った。 「すみません、本当にすみません。俺、もしかしてずっと握ってました?うわ……すみま」 「もういい!謝るな!うっとおしいからさっさとバイトに行け!」 「でも」 「デモもストもない!昨日サボっといて今日は遅刻とか、お前クビになるぞ!」 「昨日はサボってません。バイトはなかったので」 「……早く支度しろ」  神坂の話にも一理ある。というか、全面的に正しい。佐川は着ていた服を脱ぎながらバスルームに走り、豪快に全身にシャワーを浴びて、ついでに歯を磨き、バスタオルを腰に巻いただけの状態で自分の部屋に駆け込んだ。適当に下着と服を身に着けて、時計を見れば十一時十分前。神坂と話す時間を優先すれば、朝食もコーヒーも口に入りそうもない。  いつものボディバッグに携帯や財布を突っ込んで部屋を飛び出し、リビングに戻る。神坂はクッションを膝に載せて、フローリングにぺたりと座っていた。彼が佐川に無言で指差して見せたのは、ローテーブルの上のマグに入ったコーヒーとビスケットだった。  佐川はスライディングで、神坂の隣に収まった。神坂は、窓の外を見ている。 「食えば」 「食います!」 「飲めば」 「飲みます!!」 「ちんたらしてると遅刻するぞ。あと何分だよ」 「史織くん、全快ですか?どこも痛くない?声はだいぶ戻ったように聞こえますね」 「背中と、肩と膝が痛い。ずっと寝てたのと、熱のせいだろう。喉ももうあんまり痛くないし……」 「そうですか。いい先生でよかったです。薬ちゃんと飲みましたしね。まだ残ってるから、今日も飲んでください」 「……うん。ありがと」 「いえ。コーヒー、すっげぇうまいです」 「……あのコーヒーメーカ、高いからな」 「俺はインスタントでもいいですけど」 「…………」  ビスケットも美味しい。元々この家にあったのを佐川が見て、買い足している商品だ。神坂の素晴らしいセンスは、衣食住すべてにおいて発揮されている。当の本人は何も言わず、興味なさそうに窓の外を向いたままだ。 「あの、俺、史織くんとゆっくり話がしたいんです」 「好きにすれば」 「でも今日も俺、遅くて……」  平日に無理を聞いてもらっている分、土日のスケジュールは結構タイトでハードだ。始まりが遅くなれば、その分夜にずれ込む。割増料金を支払ってでも、深夜に動きたがる人もいる。佐川は帰り時間を想定して、ちょっと憂鬱になった。今日中には帰ってこられそうにないし、神坂には早く寝てもらいたい。  平日に待ち伏せをしていたのは、神坂の身を案じてのことだ。その話も聞けていない。すれ違うとはこういうことを言うのだろうか。芸能人がよく離婚の理由に使っているけれど、すれ違いざまにでもコミュニケーションはちゃんと取れる。  コーヒーを飲み干しつつある佐川を、神坂はちらりと一瞥して、さらに興味なさそうに低く呟いた。 「とっとと行って、ちゃっちゃと片付けて、さっさと帰ってくればいいだろう」 「……ですね、はい」 「早く行け。本当に遅れるぞ」 「史織くん、今日は、家から出ませんよね?」 「出ない。寒い」 「出ないでくださいね。食べるもの、買ってあるから、ちゃんと鍵閉めて、家にいてください」 「しつこい」 「はい」 「行け」 「はい」  佐川はちゃんと自分の使った食器をキッチンへ運び、でもさすがに洗っている余裕はなく、予定より二分遅れで家を出た。昨日貰った合鍵できちんと施錠し、何かもっと気の利いたキーホルダでも買おうかと考えながら、全速力でバイト先へ向かった。 「昨日は突然、申し訳ありませんでした」 「おー面白い理由だったからいいけどな」 「いえ……ご迷惑をおかけしてすみませんでした。内藤さんも」 「いや」  バイト先に到着早々、佐川はダッシュで尾野の所へ突進し、深々と頭を下げた。長く続けているバイトだけれど、こんな風に休んだのは初めてだった。尾野は煙草を燻らせながら苦笑いしている。隣で準備をしている内藤は無表情で無愛想だ。 「で?お前の好きな人の一大事は、乗り切れたのか」 「おかげさまで、どうにか」 「おーおー。若いっていいねぇ。なあ、内藤?」 「……っすね」  尾野はニヤニヤしながら煙草をもみ消し、内藤は今日の予定表から顔も上げずに、まったく気のない返事を口にした。なんとかお詫びも終えたところで、佐川は急いで制服に着替えて、いつもどおり、三人で現場に向かって荷物を運ぶということに集中した。  佐川の予想通り、最後の現場を終えて営業所へ戻った時点で時計の針は十二時を回り、家に着いたのはそれからさらに時間が経ってからだった。  移動中に、神坂に何度かメールを送った。体調に変化はないだろうかという確認と、眠くなくてもベッドに入って休んでいて欲しいという要請だ。返信は常にいたってシンプルでそっけない程だけれど、彼の無事は知れるので安心する。  最後に送ったのは九時過ぎで、帰りは遅いけれどコンビニには寄れるから、何か欲しいものはないかという問いかけのメールだった。彼からの返信には「のど飴」とだけあった。  のど飴を入れただけの軽いコンビニの袋を手首に掛けて、佐川はそっと家のドアを開けて身体を滑り込ませる。センサが反応して灯りがつき、それを早く消すために急いで靴を脱いでリビングへ向かう。そこには誰もいなかった。  念のためにキッチンとダイニングも覗いて、神坂の自室へ向かう。ドアは開いていて、部屋の照明は消えていたけれど、ベッド脇のランプが点っていた。  佐川は軽く扉をノックしてから、膨らんだベッドの傍に近寄る。 「……寝てるか」  神坂は寝ていた。佐川は自分の手が冷たくないことを確認してから彼の額に触れ、体温が平常であることに安心する。音を立てないようにコンビニの袋からのど飴を出してサイドボードに載せ、そこに置いてあるボトルの水がまだ十分あることを見て、ランプを消した。  きっと明日は会社に行けるだろう。いつも佐川は寝ているけど、明日の朝は起きて、神坂の体調を確認しよう。明日はバイトはない。神坂が早めに仕事を切り上げて帰ってきてくれれば、話す時間が作れるはずだ。  嵐のような二日間を振り返りつつ、佐川は静かに神坂の部屋のドアを閉じた。  翌日、佐川が起きた時間は、結論から言うと遅すぎた。神坂は土曜日に予定していた仕事が残っているのを気にして、通常より早く出かけたからだ。辛うじて見送ることはできたものの、まともに話もできなかった。ただ、「大丈夫だから、心配しなくていい」と言われて、その言葉だけでももらえて良かったと思った。  佐川はそのまま余裕のある朝を過ごし、ゼミ室に顔を出しに大学へ行った。神坂の家にまた住むことになったのを、手越に報告に行こうかと考えて、神坂に相談してからにしようと思ってやめた。  同じゼミの人たちと昼ご飯を食堂で食べていたら、親しい友達がやって来て、佐川のそばに座って、縋るような目で見てくる。 「佐川ー今日空いてる?コンパ来てくんねぇ?」 「ごめん、無理」 「そっかぁ。一人急に来られなくなったんだよーーーー参るわーーーー」 「風邪?」 「やーフル」 「ああ……じゃあ、余計に大変だ。お前も気をつけろよ」 「……佐川ってマジ優しいよな。モテるのわかるわ」 「モテたためしはないけどな」 「自覚なしの眼鏡モテ男子ムカつくー」  佐川は意味がわからず、肩を竦めるだけだった。  困っている友達には申し訳ないけれど、今日の佐川は忙しい。  帰りに学生課に行って、マンスリーマンションの契約を切った話をして、さっさと駅前のスーパーで買出しだ。夕飯は胃に優しいものがいいだろうか?土日に見た冷蔵庫は、神坂をゾッとさせていただろう内容だった。はっきり言えば、すっからかんだった。扉が閉まらないほど充填せねば。しかしその費用が神坂のカードだと思うと、自分の経済力のなさが情けなくなってくる。もう少し実入りのいいバイトを探して掛け持ちしようか?塾の講師や家庭教師なら、トレーニングにはならなくても時間当たりの給料は高い。でも掛け持ちをするのなら、ヒーローショーに出たいという長年の夢もある。趣味を取るか実益を取るか、兼ねられるのならば最高だけれど。 「佐川ー……」 「ん?」 「お前って、あんまり表情動かさないくせに、感情だけはだだ漏れなのな」 「……ん?」 「楽しそうにしちゃって、彼女でもできた?」 「いや」 「あーあーミカちゃんが泣くなぁ。佐川にゾッコンだったし」 「ミカちゃんって誰?」 「おっぱいの大きい子」 「ああ。……俺に?あの子の相手はお前だろう」 「俺はふられたのー」  あんなに仲よさそうだったのに?ああ、きっと、キャバ嬢のほうへ食いついたから嫌われたのだろう。それなら自業自得だ。佐川は眼鏡のブリッジを押し上げて、日替わり定食を食べ終えると、ゼミ室に戻って実験の手伝いを続けた。 「うまいー!!!」 「黙って食え」 「無理ですっ!ああああ、やっぱりこの店の肉、マジでうまいっ」 「ああ、うるさい」  その日の晩、佐川は神坂に誘われて、家の近くの焼肉屋を訪れていた。  佐川がスーパーで意欲的に買出しをしている最中に、神坂から「今日は早く帰って死ぬほど肉を食う。付き合え」という内容のメールが届いたのだ。焼肉なんて重たいものを、病み上がりの人が食べるべきじゃないような気はしたけれど、本人の希望だし、佐川にはもちろん否やはない。かくしてうまいという雄たけびにつながる。 「もう、万全ですか」 「ああ」 「食欲もあるみたいでよかったです。でも、無理しないでくださいね」 「ああ」 「仕事、大丈夫でした?コバヤシさんは、神坂さんの仕事は済んでるんだっておっしゃってましたけど」 「チームの進捗の調整も僕の仕事だから、僕の仕事だけが終わることはない」 「……なるほど。コバヤシさんはなんて?」 「別に?あの代理の男は誰だってしつこかったけど」 「……なんて答えたんですか?」 「トラだって」 「………………」  間違いではないかもしれないが、それは正解ではないだろう。しかし、じゃあなんて説明して欲しかったのだと聞かれれば答に詰まる。自分だって、往診に来てくれた先生に、友達かと聞かれてそれを肯定した。  友達ではないのだ、自分たちは。別に言いふらして欲しいわけではないけれど、トラだという説明はあまりにもざっくりし過ぎている。そもそも佐川はトラではない。そして自分たちの関係は、……神坂はどう考えているのだろうか? 「あの、史織くん」 「黙って食え」 「でも」 「家で聞く。黙って食え」 「……はい」  病み上がりということで、二人ともアルコールは飲まず、とにかくひたすら米と肉を口に運んだ。佐川はともかく、神坂はこれだけ肉食でどうしてあんなにスレンダーなんだろう。そう考えて、直後に神坂の裸体が、痴態が、音声付で脳裏にパーンと映し出され、佐川はカルビを骨ごと飲み込んだ。 「……骨は出したほうがよくないか?」 「っすね、はい」 「足りるか?追加する?」 「や、も、いっぱいです」  主に、胸が。佐川は烏龍茶をがぶ飲みして、大きな息を吐いた。  目の前に座る神坂は、佐川の動揺など知らずに、肉を焼いては美味しそうに小さな口に入れている。食事の邪魔だと言う理由で髪を後ろにひとつでくくり、届かなかった短い髪がいく筋か頬にかかっていて、時々わずらわしそうにそれを指で耳に引っ掛ける。グレーのシンプルなニットと普通のデニムパンツという格好は、佐川と大差ないのに妙にかわいい。腕まくりをして露わになっている細い手首にはまる腕時計も、程よいボリュームの男物だ。どこにも女性的な服飾品はないのに、佐川には女の子以上にかわいく見えてしまう。  好きだと自覚してから、見る目が変わってしまったのだろう。男相手に恋愛をするとは、自分でも予想外だけれど、ここのところそういう出来事ばかりが続いているので今さら驚きも少ない。ただ、気にはなる。神坂の好きだという言葉の意味は、今の自分の感情と一致するものなのだろうか、と。  特殊な契約から始まった関係だから、彼の人となりがイマイチわからない。歳の差も気になるし、経済力の差は歴然だ。自分のようなただの学生に、神坂が執着してくれる理由が見当たらない。佐川には筋肉しか取り柄が無いからだ。  佐川は少し切ないため息をついた。 「……史織くん」 「なに」 「なんで俺のこと、トラって呼ぶんですか」 「トラになりたいっつってただろう。なった将来を見越してだ」 「がんばりますけど、多分将来トラにはなれません」 「諦めが早いな」 「トラそのものになりたいわけではないですし、なれません。仮になれたとして、名前が分類名そのものってどうなんですか」 「興味ない」 「……俺の名前、知ってます?」 「知ってる」 「……はじめちゃん、とか呼んで貰ったりしたらテンション上がるっつーか」 「何で僕がお前のテンションアップに一役買わなきゃなんないんだ。第一、お前は天才か?」 「バカボンネタは詳しくないです」 「わかってんじゃねぇか」 「ねぇ」 「トラ吉、うるさい。黙って食え」 「……はい」  佐川は消沈して、肉を食い続けた。神坂はそんな佐川をちらりと見たけれど、何も言わずに肉を食い続けた。  お店の人に、よく食べてもらって嬉しいですと笑顔で送り出され、二人でのんびりと帰路に着く。少し回り道をして、往診してもらった診療所の場所を教えると、神坂も知らなかったと呟いた。 「来てくれたのは大先生で、今は診察は若先生メインらしいですが」 「ふぅん。あ、金払ってない」 「ですね。俺、明日の朝、学校行く前に払ってきますよ。本当は本人がいいって言ってたけど、行く暇がないでしょう。具合もいいみたいだし」 「あー……うん、ごめん。頼む」 「はい」  息が白い。二人とも食事をしたばかりで体温が高いので余計だろう。佐川は隣を歩く神坂を横目で見つめた。その位置からだとつむじが確認できなくて残念に思う。くくられた髪が、神坂の歩調に合わせてぴょんぴょんと揺れている。  家に着くと、神坂はフカフカした暖かそうな靴を脱いで早々にバスルームへ消えた。焼肉くさいと呟いていたので、彼の美意識によるものだろう。佐川はまたしても置いてけぼりな気分を味わい、リビングのソファに座り込んだ。  神坂が風呂から出てきたら、コーヒーでも淹れてゆっくり話をしよう。時間はまだ早い。そんなことをツラツラ考えていたら、洗濯物の山が目に入った。学校から戻ってきて、買い物へ行く前に取り込んだものだ。神坂と出かけるのにバタバタしていて畳んでもいないけれど、バスタオルのストックがまだあったかが気になった。  佐川はバスタオルだけを手にして、バスルームへ向かった。とっくに風呂に入っているだろうと思ってノックもせずに脱衣所のドアを開けると、グレーのニットを脱いで、その下に着ていたTシャツ姿になって神坂がそこにいた。佐川は彼に、バスタオルを差し出した。 「あ、すみません。タオル置いとこうと思って」 「……!!!」 「ごゆっくり」 「ノックぐらいしろっ!このバカトラ!!」 「はい」  神坂は真っ赤になって、佐川を脱衣所から蹴り出した。なんでそんなに嫌なんだ?以前、覗けと言われたような記憶さえあるのに、彼はちゃんと服を着ていたのに、何が恥ずかしいんだろう。背後で鍵を掛ける音がして、そこまで警戒されていることに、佐川はちょっと傷ついた。  リビングでニュースを観ながら洗濯物を畳んでいたら、バスルームのほうで物音がした。佐川はじっとリビングの入り口を見ていたけれど、しばらくすると廊下で聞き慣れた足音がして、なんと神坂は自室に引き取ってしまったらしい。  佐川はテレビを消して、両肘を自分の太ももについて頭を抱え、大きなため息を吐いた。  これって、避けられてる……?  話をしようと思っていた。神坂も、それを承知していたはずだ。ノックがそれほど大事なのか?もちろん非は佐川にあるけれど、でもだからってこれはないだろう。そもそも裸どころの騒ぎじゃない格好を、入浴シーンどころの騒ぎじゃない行為を、自分から見せてたじゃないか。さっきは裸でも入浴中でもなかったのに、なんで 「トラ」 「っ!はいっ」 「……風呂空いた」 「史織くん」  神坂はちゃんとリビングに来てくれた。佐川は恨みがましい気持ちを一瞬でも持ったことを、こころの中で百万回謝罪する。彼は腕を組み、座っている佐川をじろりと睨んでから、目を逸らす。首筋が赤いのは、風呂上りだからだろうか? 「……びっくりするから、急に距離詰めんな」 「すみません」 「風呂入ってこい。……洗濯物、ありがと」 「いえ……」  神坂は、今夜もかわいらしいパジャマを着ている。どうやら彼は、フカフカとかフワフワの素材が好きなようだ。そういう素材の、膝上くらいまでの裾の長い白のトップスに、濃いグレーの細身のパンツを穿いて、足元はいつもどおりのスリッパだ。  きれいに乾かされた髪はまっすぐ降りていて、前髪だけは横わけにして、耳元でキラキラした髪飾りで留めてある。おでこの出し方で印象が変わるものだ。佐川はその髪型が好きだと思ったけれど、それを口にして、また神坂に逃げられると困るので、素直に風呂に入ることにした。神坂は佐川が畳んだ、自分の洗濯物の山を抱えている。片付けるつもりなのだろう。 「あとで、コーヒー飲む?」 「はい。史織くんは、先に薬飲んでください」 「うん」 「あの」 「なに」 「……俺、その髪形好きです」 「………………あっそ」  佐川は結局、思ったことを口にしてしまった。神坂が、自分との時間を考えてくれていたのが嬉しかったからだ。逃げられるかと思ったけれど、神坂は洗濯物に真っ赤な顔を埋めただけで、逃げたりはしなかった。まったく聞き取れないくぐもった声で、風呂に入れと促された。  佐川は満足して、今度こそ風呂に入り、変わりばえのしないTシャツとスウェットという格好でリビングに戻ると、神坂がいつもの席で膝を抱えてスマートフォンをいじっていた。 「史織くん」 「ん」 「コーヒー淹れましょうか」 「僕がする」 「いいですよ」 「僕がするから、トラは髪を乾かせ」 「はい」  神坂はスマートフォンをローテーブルに載せると立ち上がり、佐川が髪を乾かしている間にコーヒーを淹れてくれた。  それぞれがソファの定位置に納まり、それぞれのカップを手にすると、なんだかひどく穏やかで、しばらく会話が無かった。口火を切ったのは佐川だ。こらえ性がないのは若さゆえかもしれない。 「史織くん」 「なに」 「変な人に付きまとわれているって本当ですか?」 「……手越か」 「はい。でも、俺が無理やり聞きだしました」 「変なやつではあるけど、正体も目的もわかってるし、付きまとわれているというのは正確じゃない」 「じゃあ、なんですか?」 「……その話は、追々でもいいか?ちょっとややこしい」 「……」 「心配するようなことじゃない。あっちは僕に危害を加えたりしない」 「そんなこと、いつ豹変するかわからないでしょう」 「大丈夫だから、気にしなくていい」 「……はい」  淡々と諭されれば、それ以上食い下がるのは難しい。佐川は仕方なく、最大の懸案だったこの話を棚上げにした。大丈夫だと言われて、了解でーすと安心できるほどゆるくはない。それでも、神坂の言うことを信じるしかない。  佐川は、次なる懸案を持ち出す。こちらだって、とても大きな問題だ。 「……金曜日の夜の記憶が曖昧ですか?」 「……いや」 「じゃあ、酒に酔ったときのように、意思とは無関係に、……不本意でしたか?」 「……」  佐川としては、神坂のあの率直な告白が嬉しかった。飾り気もなく、でもまっすぐに目を見て言ってくれた。でももしもあれが、彼にとって取り消したいことなら、佐川はこれからの接し方を考えなければならない。熱に浮かされての戯言だと言われれば、そうですかとうなずく外はないのだ。  神坂は長いこと、両手で持ったカップの中を見つめて、考えているようだった。そしてそのまま顔を上げずに佐川に聞く。 「……トラ」 「はい」 「お前こそ、流されてないか」 「いいえ」 「……」 「完全に、俺の意思です。素直な気持ちです。もし史織くんがあれを撤回しても、俺は変わりません」 「……」 「きっかけでした。でも、俺も前からそうだった。だから、流されてません」 「……あっそ」 「史織くん、こっち向いてください」  神坂は少し間を置いて、長い睫を瞬かせながら佐川を見た。仕草も表情も顔の作りそのものも、本当にかわいいなと佐川は思った。そんなかわいい神坂を見つめ返して、佐川は思い切って提案する。 「俺は、史織くんが好きです」 「……うん」 「史織くんは?」 「……うん」 「じゃあ、俺と付き合ってくれませんか?」  ぽん!と音がしそうなほどあっという間に、神坂は真っ赤になった。佐川はそんな神坂をじっと見る。辛抱強く、彼の答を待った。促すこともなく、彼からの答が欲しかった。  神坂は髪を何度も指で梳き、そわそわと視線を彷徨わせ、チラチラと佐川を見ては目を逸らし、最終的にはソファの背もたれにどすんと身体を預け、腕を組んで脚も組んで、ふん、と鼻を鳴らした。 「……好きにすれば」 「史織くん」 「いいって言ったの!しつこい!」 「はい。すみません」  佐川は嬉しくてほくそ笑み、神坂のしかめ面はとっても赤かった。

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