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第17話

 佐川は、神坂から了承を貰い、晴れて付きあいが始まったことをものすごく嬉しく思った。冷め始めたコーヒーだって美味しく感じる。 「史織くん」 「なに」 「……バタバタしてて、ちゃんと言えてなかったけど、すみませんでした」 「なにが」 「あの日、逃げて」  佐川は言い訳じゃないんですが、と前置きさせてもらってから、ポツリポツリとあの頃の自分の気持ちを話した。神坂は空になったマグをローテーブルに置き、膝を抱えて黙って聞いていた。 「冷静でも、無表情でも、いられませんでした。だから、契約不履行だなって」 「……嫌なことに付き合わせて、悪かったと思ってる」 「嫌っていうのとは違います。でも……うん、最初の頃みたいに、見とけって言われてももう無理かな」  神坂が乱れる姿は嫌いじゃない。だけど、そういう時の彼の頭の中は自分でいっぱいであって欲しいし、身体だってオモチャではなく自分でいっぱいにしたい。  ヤキモチや嫉妬は苦しい。佐川は苦手だ。そういう感情を持たずに済むように、神坂との距離を早く埋めたい。  神坂はソファの上でころころ揺れながら、小さく何度か頷いた。 「僕ももう、お前に見せる気はない。だから、一方的な話じゃない」 「はい。ありがとうございます。……でも、してますよね?」 「するのは別にいいだろう」 「いいけど……誰にも見られなくて、物足りなくないですか?」 「お前に心配される話じゃない」  確かにその通りだ。佐川としては健全な成人男性なので、オナニーに耽る暇があったら自分とセックスしようと誘いたい。しかし、そこまでの道のりは遠そうだ。二人の女性との性経験という、輝かしいステイタスはあれども、男相手の経験はない。神坂に教えられるのはきっと受け入れがたい屈辱だろう。昔の男の影をチラつかされてたまるかと、はらわたが煮えくり返るに違いない。  そうならないためにも、ネット上ででも自己研鑽に励んでから臨みたい。同等レベルとはいかなくても、少なくとも滞りなくできる程度には知識を仕入れておこう。オナニーの方がよっぽど気持ちいいなどと言われたら、絶対に立ち直れない。 「食費程度にもならないですけど、バイト代入ったら、渡します」 「要らない」 「それだと俺に気が済みません」 「貯めとけ」 「……出世払いの念書を書きます」 「お前は京大の学生じゃないし、僕はお茶屋の女将じゃない」 「はい?」 「お前から金を貰うなんて、考えてないし考えたくもない」 「嫌です」 「……勝手にしろ」 「はい」  神坂は呆れ顔だ。でも佐川の決心は固い。正直なところ、佐川のバイト代は安くない。日雇いとは違って社員レベルに働けるので、時給も高いし拘束時間も長い。しかし振り込まれる給料の半分以上が勝手に定期預金に振り替えられる設定なので、自由になる金額は限られている。設定したのは自分だ。どうしても欲しいマシンがあるのでその資金だ。  それを吐き出してでも神坂と経済的に対等でいようかとも考えたけれど、そうなると今度はこの家に置いてもらう大前提がなくなってしまう。佐川はけっこう悩んだ。結局、できる限りの金額を神坂に渡そうということで落ち着いた。給与明細は見せようと思う。 「史織くん」 「なに」 「平日の夜のバイト、戻しますから、遅くなることもあります。春が近いから、件数増えるし、今俺、学校休みだから、会社もムチャぶりしてきます」 「うん」 「付きまとわれてないんですね?」 「うん。なんて言うか……うん、大丈夫。最近はメールだけだし」 「……男?女?」 「男」 「名前は?」 「トラ吉、大丈夫だから、気にしなくていい」 「…………はい」  どうやら神坂は、この問題に関して佐川と共有する気はないようだ。佐川としてはものすごく納得がいかないし、歯がゆい。でも、何もかも全部寄越せ曝せと迫るほど、佐川は強くない。大人には大人の事情があると言われれば、太刀打ちできない。そんな風に言われるくらいなら、最初から引き下がったほうがいい。佐川もコーヒーを飲み干して、マグをローテーブルに載せる。 「仕事は落ち着きそうですか」 「そうだな。タカミネが急に張り切りだしたから、何とかなりそう」 「……コバヤシタカミネさんは、会社の後輩?」 「コバヤシとタカミネは別の人。両方とも後輩」 「そうだったんですか。タカミネさんは、男?女?」 「女」 「ものすごく、踏み込んだことを聞きますが」 「……なに」 「史織くんは、男が恋愛対象ですか?それとも女?今までどうだったのか教えてください。ちなみに俺は、女としかつきあったことはないです」  女装が好きだとはいえ、神坂の中身は男性的だ。少なくとも女々しくはない。滅法かわいいけれど、それはまた別の問題だ。尻を使って自慰をしているとはいえ、女を抱かない理由にはならない。性的嗜好の確認は大事なことだ。もしかしたら神坂は佐川を抱きたいと考えているのかもしれないのだから。  神坂は再び真っ赤になって、小さな口をパクパクしながらうろたえている。質問が直球過ぎたようだ。でも、佐川にはこれが精一杯だった。男に突っ込む派?女に突っ込む派?それとも男に突っ込まれる派?男女関係なくにオモチャで……ってそういう聞き方をしなかっただけでも褒めて欲しい。  佐川は眼鏡のブリッジを押し上げて、神坂の返事を待った。待っても待っても返事はない。佐川は自分はこんなに気が短かっただろうかと思いながら、口を開く。 「教えてもらえないんですか」 「そそそそういうこと、聞く必要あるか!?いいだろう、なんでも!」 「よくないです。付き合ってるんですよ?いずれそういう」 「トラには、恥じらいってもんがないのかっ!」 「ありますが、いざって時に恥をかくよりはいいでしょう」 「いざって、いざってお前っ」 「だって仲良く一緒にいるだけじゃ足りないから、付き合ってって話に」 「もういいっ!!」  神坂は堪りかねたように立ち上がった。佐川はビックリして何も言えなかった。ずれた眼鏡を直して、神坂を見上げる。彼は本当に恥ずかしくてたまらないような顔をして、佐川を睨んだ。涙目なのは、熱が上がっているからじゃないよなと心配になる。幸い、真っ赤ではあるけれど発熱はしていないようだ。 「そういう話は、苦手だから、しないっ」 「俺だって、史織くんのこと知りたいんですっ」 「僕はトラ吉でいいって言ったんだ!過去は関係ないし、お前の好きにすればいい!そうされて構わないから、付き合うんだろう!」 「…………」 「い、いざ、いざって、時、とかっ、トラが、テキトーにっ、すす好きにすれば!?それでいいだろ!」 「史織くん、謝るから、座ってください」 「別に謝らなくていいし怒ってないし全然普通だしっ」  神坂はボスンとソファに腰を降ろすと、膝を抱えて佐川に背中を見せるように丸まった。  佐川は眼鏡を弄りながら、俯いて密かにため息を吐く。  なにこのかわいい人……鼻血出そうなんですけど。照れ方が反則なんだよ、公開自慰が平気なのに、この程度の話題がダメって何そのギャップ?萌えるだろ、普通。どさくさに紛れて、何されてもいいって言われた気もするぞ?俺だって知識さえ仕込めば、色んなことする感じだぞ?わかってんのかな。  佐川は両手で自分の顔をゴシゴシ擦って、にやけっぱなしの表情を何とか元に戻す。そして、神坂を呼んだ。神坂はもぞもぞと、一応佐川の方に身体を向けてはくれたけれど、自分の膝に頬を押し付けて、目を合わせようとはしない。 「すみませんでした。加減がわからなくて、ちょっと聞き過ぎました」 「……おう」 「一応、念のため、わかってると思うけど、言っときますね。俺今、コバヤシさんにもタカミネさんにも、得体の知れない付きまとう人にも、嫉妬してますから」 「……あっそ」 「大事な史織くんに、何かあったら困るし、何かされたら許せないから。ウザくてすみません」 「……別に、ウザくはない」 「そうですか。もう、夜も遅いし寝ましょうね」 「………………トラ」 「はい」 「……怒った?」 「怒りません。怒る理由がありません。照れる史織くんがかわいいとは思いましたし、変なこと聞いて困らせたことは反省しています」 「……うん」  神坂はようやく顔を上げて、佐川を見た。佐川も彼の目をじっと見つめて、寝ましょうね、ともう一度言った。神坂はまだ薄っすらと赤い頬をして、コクリと頷いた。きゅっと噛み締めた唇が、心憎いほど佐川の劣情を煽る。  自慰を見てたときは、勃起さえしなかったのになぁ……。  佐川は、人間は感情の動物だと痛感する。性的ではない彼の仕草に、性的な反応をしてしまいそうになる自分が恨めしい。あーだめだ。絶対おかずにしちゃいそうだ。付き合ってるんだしいいのか?交渉前だし悪いのか? 「……ごめん、トラ吉」 「いいえ」 「おやすみ」 「おやすみなさい」  神坂が自室に入るのを見届けると、佐川は悶々としたものを吐き出すために、一人で自慰に没頭した。最初はちゃんと小さな携帯画面に映るエロ動画をおかずにしたけれど、案の定、いつのまにかそんなもの放り出して、神坂をおかずにしていた。  二人の付き合いは始まったばかりだ。

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