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第18話

 佐川は曜日に関係なく、朝から晩までバイトに励んでいた。時々大学のゼミに顔を出したけれど、基本的にはバイトが休みであれば家にいて、掃除をしたり洗濯をしたりして、神坂を待ちながら過ごした。  神坂は仕事が徐々に落ち着いて来たらしく、以前のように九時過ぎに帰宅する事が増えた。佐川の方がいつも遅い。佐川にしてみればそれがすごく不満だったが、仕方がない。 「おかえりなさい」 「……何やってんだ」 「ちょうどかなと思って」 「あっそ」  ある夜、佐川は九時過ぎにバイトが終わった。神坂にもう家にいるかとメールを送れば、もうすぐ駅に着くと返ってきた。考える必要はなく、当然、愛車で駅前へ向かう。いつかと同じように、駐輪場の陰で神坂を待ち、神坂はそれを見逃さなかった。 「飯、コンビニで買って帰ったほうが早いだろう」 「ですね。あーでも、この時間ならまだスーパーのお惣菜コーナーが充実してます」 「じゃあ、そっち」 「はい」  佐川なりに、この照れ屋な人との付き合いの進め方を考えていた。  男同士だし活動時間が微妙に合わないし、できればどこかへデートに行きたいけれど少し難しい。神坂がどういうことに興味があるのか探りきれていないということもある。時々映画のDVDを観ているようなので、映画にでも誘いたい。  でも今の所、焼肉デートが精一杯だ。それはそれで美味しいししあわせだけれど、さらなるデート先を開拓すべく、またしても待ち伏せを敢行したわけだ。努力の甲斐あって、コンビニデートより若干格上に思える、スーパーマーケットデートが実現した。 「トマトジュース、もうないですよね」 「うん」 「パスタも買っとこうかな。ソース、何味にします?」 「ペペロンチーノとミートソース。あと砂糖」 「砂糖?」 「コーヒーの砂糖」 「ああ」 「茶色いのがいい」 「ですね、はい」  楽しい。楽しすぎる。佐川は買い回り用のバスケットを手に、神坂と相談しながら買い物をする。二人の生活で使うものだと思うと、鼻の下が伸びる。このスーパーはけっこう大きくて品揃えもよく、日用品もドラッグストア並に安いので、ほとんどの物をここで購入する。重くなるぞと言う神坂の心配など、全く無用だと聞き流す。 「あと、洗剤……柔軟剤はまだあったかな」 「洗剤、CMのやつがいい」 「お隣さんがテンション高めの外国人のやつ?」 「ううん、なんか、商品名しか言わないカラフルなやつ。気になるから」 「へ?何それ?知りませんね……どれ?」 「これじゃねぇ?これでいい」 「いいんですか?じゃあ、それで」  性的嗜好の確認で、多いにズレた感のある二人の関係だったけれど、そういう話題を持ち出さないと決めたので、穏やかで心地いい状態が続いている。  もちろん佐川には不満はある。だけど、付き合い始めなどそういうもののような気がする。二人の速度はマチマチで、いかに相手に合わせられるかが鍵だろう。幸い一緒に住んでいるので、毎日顔を見られるし、声も聞ける。  神坂の偉そうで不機嫌そうな低い声は、佐川にとっては耳障りのいい優しい声に聞こえる。それが、甘く変化するのを聞きたくないわけではない。むしろそれを切実に望んでいる。しかし、神坂の方は至ってそっち方面に無関心のようだ。熱を出した彼の手を何度も握りはしたが、常時の彼とはそういうスキンシップもない。佐川も、それほどの手練手管があるわけではないので、なかなか上手く雰囲気を盛り上げることもできずにいた。  一度思い切って、一緒にテレビを観ている時に、こっちに座りませんかと誘ってみた。神坂はいつも一人掛け用のソファに座っていて、佐川がいくら端に寄っても触れ合うことはない。だから、自分と一緒に長椅子に座らないかと聞いたのだ。そうすれば、肩とか抱いたりできるかもという下心があった。そっからチューとかできそうだという野心もあった。  神坂は画面から目も離さずに、この席が好き、と答えた。そうですか、以外に何と返せばよかったのだろう。  神坂は自分の知らないときに、自室で自慰に耽っているのだろうかと考えただけで、ちょっと眩暈がする。掃除してもいいと言われて彼の自室に出入りするようになった。探っているわけではないけれど、彼の使う道具も自慰の痕跡も見当たらない。近づいたはずなのに、彼のコアな部分からは遠のいた気がする。公私を分ける神坂の、自分は公の方に分類されているのだろうか?どちらも欲しいと思うのは我侭だろうか。 「トラ?」 「……っはい?」 「大丈夫か?」 「え?はい。ちょっと、腹減ってぼーっとしてました」 「どれにする?」 「あ、はい。史織くんは?」 「これ」 「はい。じゃあ俺はこれ」  お惣菜コーナーでそれぞれの夕飯を選び、夜も遅いのでデートを切り上げて自宅へ向かう。マウンテンバイクのハンドルに、はち切れそうなスーパーのエコバッグを二つ引っ掛け、ゆるゆると歩きながら、寒いなぁと言い合う。 「トラ、明日はバイト?」 「あ、いえ。休みです」 「ふぅん」 「曜日の感覚ないなぁ……えっと、火曜日ですよね、明日?」 「そう。僕も休み」 「え?そうなんですか?」 「創立記念日」 「学校みたいですね」 「うん」 「……どっか、行きませんか?」 「……うん」 「はい」  休日出勤するつもりだったけど、目処が付いたから行かないのだと神坂は言う。佐川は、もっと早く教えてくれていれば前もって計画できたのに、という言葉を呑み込んだ。仕事というのはかくも不規則で未確定要素の多いものなのか。  本物のデートができることに舞い上がり、どこがいいだろうかと考え出せば、寒さなど忘れてしまう。映画は今、何をやっていただろうか?神坂はいつもどこで買い物をしているんだろう?一日の休みで行ける範囲は限られる。 「トラ吉」 「はい?」 「……車、要るなら出せるけど」 「え?そうなんですか?持ってました?」 「使わないから、後輩に貸してる。言えばすぐ持ってくる」 「……コバヤシさん?」 「うん」 「じゃあ、選択肢に入れます」 「うん」  佐川も免許は持っているが、普段動かすのがトラックばかりなので乗用車は不慣れだ。神坂はどうだろうか?車を持ってきてもらうなら、コバヤシさんに会うことになる。確認したいような気になるけれど、どうしようか。  車が出せるなら、デートの王道、ドライブが実現する。自分の車を持っていない佐川はしたことがない。初めてのドライブが神坂と一緒だなんて嬉しい。出かけた帰りに夜景を見て、ムードが盛り上がれば、付き合いも進むかもしれない。てゆーか、進むだろ。進もうぜ。  そんなことを考えていたら、マンションの前に着いた。  マンション自体からの照明も明るいし、街灯も点いている。だから、そこにマンションを見上げるように男が立っているのも、すぐにわかった。  その男は、佐川と神坂を見た途端、驚いたように小さく声をあげ、数歩後ずさって、くるりと背中を向けて走り去ろうとした。  まさか、神坂に付きまとっていたのがこの男だっただなんて。  佐川と神坂は、同時に男の名前を呼んだ。 「内藤?」 「内藤さん!?」  呼ばれて立ち止まり、恐る恐るこちらを振り向いたのは、さっきまで一緒に引越し屋のバイトをしていた、無口で無愛想な内藤だった。  驚いて二の句が継げない佐川を見上げて、神坂が怪訝な表情で「知りあいなのか」と聞いてくる。内藤も佐川も、何も言わずにじっとお互いを見ていた。  佐川としては、その場で内藤を問い詰めたかったけれど、神坂が寒いと言うので仕方なく家に入れた。その家だって神坂の家なので、佐川の拒否権はない。  内藤は佐川と目も合わせず、ただボソリと一言、「なんでお前がここにいる」と言った。佐川はそれには答えなかった。 「バイトの先輩だって?」 「……はい」 「すごい偶然。世間は狭いな」  買って来たものを冷蔵庫に仕舞っていると、神坂がキッチンにやってきた。二人で話があるから、トラは席を外せと言われたのだ。ここでも佐川に拒否権はない。二人はリビングで何事か話しているらしい。お茶も水も出してやるものかと拗ねていた佐川をよそに、神坂は自分で冷蔵庫から水のボトルを二本取り出している。それはさっき一緒に買って帰ってきたものだ。 「あとで、話聞かせてくれますか」 「……うん」  佐川はその答で自分を無理やり納得させ、神坂の手のボトルを、ちゃんと冷えているものに交換した。スーツ姿のままで、神坂は佐川に頷きリビングへ戻っていった。  苦しい。しんどい。神坂には一体どれだけ秘密があるのだろう。それを佐川に教える気はあるのだろうか?  学生と社会人の差かもしれない。佐川には、大学とバイト以外にはほとんど交友関係もないけれど、神坂の携帯電話に登録されている人たちは、佐川の想像を超える人数で、理解を超えるつながりを持つ人たちなのかもしれない。  深いため息を吐き出し、空になったエコバッグを畳む。リビングから声は聞こえない。本当にリビングにいるのだろうか?神坂の自室……寝室にいるんじゃないだろうな?  一緒に食べるはずだったお惣菜も冷蔵庫に片付けた。神坂は言えばすぐに持ってくると言っていたけれど、車を使うなら早くコバヤシさんに連絡しないと、向こうの都合もあるだろう。明日は二人で出かけるというさっきの話さえ、実現するのだろうかと不安になる。どこへ行こうかというワクワク感よりも、神坂の掴みどころのなさに落ち着かない。焦るけれど、何もできない。  自分の部屋へ戻ろうかと、佐川が腕時計で時間を確認した時、玄関で物音がした。どうやら内藤が帰ったようだ。そのままじっとしていると、神坂がキッチンを覗いた。 「帰ったから」 「……飯、食いますか」 「うん。腹減った。待たせてごめん」 「いえ」  佐川は片付けたばかりの二人分の夕食を温め、神坂はビールを二本持って、ダイニングに移動した。いつもよりも静かな食事。神坂は何を話そうか迷っている風だし、佐川は必死に自分を制していた。  食べ終えて飲み終えて、どちらからともなくモジモジし始める。口火を切ったのは神坂だった。 「……内藤の、付き合ってる人が、僕のファンらしい」 「ファン?」 「そう。で、内藤に、僕みたいになれって言うらしくて、色々教えて欲しいっていうのが始まり」 「……?史織くんみたいにって?」 「女装とか、自慰とか」 「……会ったことあるの、その人と?まさか、見せてないですよね?」 「公開してたのを見たらしい」 「……………………は?」 「本当に公開してたから、ネットで」 「はああああぁっ!!??」 「今はしてない」 「そういう問題!?」 「そういう趣味だって言っただろう」  そうそう、言ってたねー……じゃなくて!  佐川は驚きと、理由のわからない怒りで思わず椅子から立ち上がっていた。神坂は少し困ったような顔で、腕組みをして佐川を見上げる。  頭が混乱する。確かに、同居している人間にたまに自慰を見せる事を、公開というのは大げさだと思った事はあった。でもまさか、本当に世界中に公開していたなんて思ってもみなかった。  佐川は責めていいのか受け止めるべきなのかわからず、拳をギュッと握り締めて黙り込む。神坂はさすがに言葉が足りていないと思ったのか、説明を始めた。 「ブログに、ちょっと載せてた時期があった」 「何を」 「最初は女装。こういう服買ったよ、とか。自己満足な写真を撮っては載せてて、で……結局それがエスカレートして、動画になった」 「……!?」 「コメントがつくようになって、自慰のコツとか答えてたら、予想以上に閲覧数が増えて。ヤバイなと思って、全部下げたけど、未だにあちこちの動画投稿サイトで出回ってる」 「……!!!」 「馬鹿なことしたって反省してる。だから、公開の規模を縮小した」 「その結果が、同居人探しですか」 「そう」 「そうって……!」 「……ごめん」  佐川は怒鳴りつけたいのをグッと我慢した。何を怒鳴っていいのかわからなかったからだ。そもそも、ブログで細々と女の子の服を着た写真を載せていたのが、どういうエスカレーションで自慰動画の公開に繋がるんだ?さっぱり理解できない。  落ち着こう、と佐川は自分にいい聞かせ、神坂を残して無言でダイニングを出た。これは逃げるんじゃない。冷却だ。その証拠に佐川は二人分のコーヒーを淹れた。コーヒーメーカが仕事をしている間、何度も深呼吸を繰り返す。 「コーヒー、飲むでしょう」 「……うん。ありがと」 「こっちで」 「うん」  ダイニングに顔だけ覗かせて、佐川は神坂を誘う。神坂はほっとしたような顔でパタパタとテーブルの上の食器をキッチンに下げ、佐川の後を追ってリビングへ来た。  佐川はいつもの場所に座ってローテーブルに自分のカップを置き、一瞬考えて、自分の隣に神坂のカップを置いた。試したわけではない。けど、多少の気持ちは込めていた。  あとから入ってきた神坂は、一人掛け用のソファの前に自分のカップがないのを見て、黙って佐川の隣に腰を降ろした。佐川の手が届く場所だ。 「……色んな趣味があるから、史織くんの趣味を責めはしないけど、危ないでしょう」 「うん。反省してる」 「なんで洋服の写真が自慰の動画になるんですか」 「え?なんでって……見られたら興奮すると思って。服も、かわいいね、似合うねって言われたら嬉しいだろう」 「そもそも、なんでああいう自慰に発展したんです?」 「きっかけは覚えてない」  淡々と答える神坂は、本当にあんまりこの趣味に関しては恥じらいがないらしい。最近の照れ屋な彼に慣れていたので忘れていたけれど、自慰を誰かに見せる自分の性癖を悩んでいる節は全くないし、変態的だとも思ってなさそうだ。  佐川はどう聞いたら自分の納得できる答が返ってくるだろうかと、一生懸命考える。 「ブログはもう削除済み?」 「まだある」 「なんで!?」 「消し方がわからなくなった。パスワードとか忘れたから。どうせ何も載せていないし放ってある」 「動画とか写真は消したんですよね?」 「うん」  そもそも、匿名で遊んでいたブログで、顔も出していなかったと言うのに、どうしてそれと神坂が結びつき、挙句に連絡先や住所まで知られているのだ。  佐川にしてみれば、神坂の趣味よりも、そっちの方がよっぽどの恐怖だ。内藤以外の人間に悪意を持って攻撃されてもおかしくはない。 「その頃よくつけてたアクセサリがあって」 「史織くんが?」 「そう……で、動画にそれが映ってた。普通は気づかないと思う。でも内藤は、同じのを持っていて、偶然だけど、電車の中でそれをつけている僕を見かけた」 「そんなに珍しいものなんですか」 「別に。今はもう日本から撤退してるけど、普通に市販されてた。自分でカスタムできるタイプだったから、全く同じっていうのはあまりない」 「で、内藤さんは、史織くんイコールブログの人だって察したんですか」 「みたいだな。改札を出たところで「マリちゃんですか」って言われて、無視すればよかったのに、びっくりして振り向いてしまった」 「……その動画は」 「もちろん消した。あんまり出来がよくなかったから、ネットでも出回ってない」  出来の良し悪しはこの際置こう。きっと理解できない。佐川は自分で入れたコーヒーを一口飲んだ。神坂もそれに倣う。今さらながらに、彼と隣に並んでいることを意識して、少しドキドキする。 「顔バレしたからって、名前も住所も連絡先も教えるなんて、無防備すぎませんか」 「それが……中学校のときの同級生だったんだ」 「……そこまで来ると、偶然もオカルトですね」 「だよな」 「で?内藤さんの、付き合ってる人が、史織くんのファンなんですね?」 「そう」 「それがどうして、何年も付きまとう流れになるんですか」 「お前もマリちゃんみたいになれって、彼氏に言われるんだって。でも上手くいかないから、色々教えて欲しいのにブログの更新が止まって、動画も画像もなくなって、どうしていいかわからなくなったって」  今彼氏という単語が聞こえた気がしたけれど、どうやらスルースキルを試されているようだ。佐川は無表情にそこをオフレコにした。つーか、その彼氏?マリちゃんみたいになれって意味わかんない。マリちゃんの自慰動画で興奮して、それを内藤さんに求めるって、本当に意味わかんない。それに従う内藤さんも、マジで意味わかんない……。 「……えーと?じゃあ、内藤さんも女の子の格好して、ああいう自慰をしてるってことですか」 「かな」 「内藤さんは、史織くんみたいに、かわいいタイプではないんですけど?」 「……別に、僕もかわいいタイプじゃない」  え、そこで?そこで照れるの?もうよくわかりません、俺。  でも佐川は、すぐ隣で照れる神坂がかわいいので、もういいやと思った。手とか繋ぎたいけど、イマイチ根性がない。 「史織くんはかわいいです」 「……内藤の彼氏はっ、ああいうマッチョな男の女装が好きなんだってっ」 「それで史織くんみたいになれって、矛盾してません?」 「惚気てるんだろう、結局。無理言われて、必死にかわいい服探して、それ着て一生懸命自慰してる内藤が好きなんじゃないの」 「全然理解できません」 「僕だってよくわからないけど、同級生だし、気の毒だから色々教えてた。付きまとわれてたわけじゃない」 「手越さん、心配してましたよ」 「……それは、悪かったと思ってる。お前のことも含めて、今度謝っておく」  佐川のことをどう謝るのだろうか。というか、どう説明してくれるのだろうか。まさか手越にまでトラだとは言わないだろう。言わないよね? 「なんで今夜は、内藤さん来たんだろう?」 「明日、彼氏の誕生日なのに、喧嘩したらしい。プレゼント買うのに、別のバイトもしてたくらい尽くすタイプなんだ。最近は、自慰とか道具とか服とかの話より、彼氏と喧嘩したら泣きついてくる」 「史織くんの誕生日はいつ?」 「元旦」 「過ぎたじゃん……」 「そのうち、また来るだろ」 「来ますけど」 「お前は?」 「俺は、夏です。八月」 「ふぅん」  神坂は改めて、心配させてごめんと言った。佐川は、気がかりだったストーカーの正体と目的を聞いて、ひとまず納得したので頷いた。神坂はそれを見て、ほっとしたように少し微笑んだ。整った顔は、笑うと可愛らしさが増す。  過去を知り、誕生日を知り、少し距離が近づいたような気がした。実際今夜は、隣同士に座っている。手を繋ぎたい。キスをしたい。そう思うのは自分だけなんだろうか?佐川は自分の太ももに肘をつき、神坂の顔を眺めながら、明日はどうしますかと聞いた。いつもと違う角度から見る神坂は新鮮だ。 「うん……えっと……」 「行きたい所、ありますか?映画とか、買い物とか……車はもう、無理かな」 「……なんか」 「はい」 「……デート、みたい、じゃね?」 「………………」 「……僕、変なこと言った?」  佐川は、太ももに両頬杖をついたまま、ちょっと神坂をみつめてしまった。ズレるにも程がある。今自分は、明日のデートの相談をしているのに、神坂は何でもない日常だと思っているのだろうか?それは困る。同じ意気込みでいて貰わなければ、思い出に温度差が生まれてしまう。  佐川は眼鏡のブリッジを押し上げて、神坂に言い聞かせるように、いいですか、と続けた。 「みたい、じゃなくて、デートなんです。ガチのデートです。初デートなので、記念日にしてもいいようなイベントです。ちなみに、付き合い始めた日も、記念日ですから、覚えといてください」 「えっ!?えっ!!?何日だっけ?ってか、覚えるの、増えすぎないか!?」 「そうですか?あと増えるのは、二つか三つですよ」 「そ、そうか。じゃあ、まあ、いけるか」 「デートです。付き合って最初のデートです。誰かに初デートについて聞かれたら、明日の思い出を答えてください」 「わかったってばっ」  お互いの誕生日と、あとはまあ、初めてキスした日とエッチした日くらいか。もしも将来プロポーズでもすれば、その日も覚えていて欲しい。別にその日を祝いたいわけではないけれど、こころに留めていて欲しいのだ。佐川は記憶力に自信があるので苦にならない。神坂は乙女チックな格好を好むのに、そういうところはこだわらないのだろうか?  ヒラヒラと手で自分の顔を扇ぎ、頬が赤いのを気にしている神坂は、シャツにネクタイというスタイルでも、ほんのりかわいい。あーダメだ。キスしたい。 「史織くん」 「なに」 「キスしてくれませんか」 「はっ!?」  猥談にNGを出した神坂に、キスを迫れば嫌われそうな気がした。付き合う前に、何度となく触るなと言われた記憶も邪魔をする。だから彼からしてくれれば、嬉しいと思っただけなのだ。なのに神坂は真っ赤になって立ち上がり、トラはガキのくせにエロいことばっかりだ!と文句を言いながら、腕組みをしてそっぽを向いた。逃げられる、と思ったら、佐川も立ち上がっていた。 「キスはエロじゃないです。エロいキスでもいいですけど」 「馬鹿じゃないの!?エロいキスって、お前!」 「嫌ですか?」 「早いだろっ!つ、付き合って、何日だよっ!?」 「十二日ですかね」 「バカトラの馬鹿!」 「なんで!?」  頭ひとつ分低い彼を見おろしつつ、佐川は焦っていた。雰囲気がなさ過ぎただろうか。もっと大人っぽくムーディに迫るべきだったか。キスして欲しいなど、子どものようだったかもしれない。男らしく、有無を言わさずグイッと引き寄せてブチュッとかませばよかったのだろうか。  神坂は腕を組んだまま、ほとんど佐川に背を向けるようにして、ぼそりと呟いた。 「……初めてだし」 「え?なんですか?」 「つ、付き合う、とか。初めてだから、どうしていいかわからない」 「……え?」 「今までどうだったかって、トラ吉は聞くけど、そんな経験ないし、でも……ないって……言えなくて……」  聞こえないくらいに低くて小さいな声で、神坂は白状した。赤かった頬は、白い。つまり彼がそっぽを向いているのは照れているからじゃない。多分、緊張しているのだろう。  佐川は神坂の肩を掴んで、自分の方へ向き直らせた。俯く彼のつむじが二つ、よく見える。 「すみませんでした。俺が無神経でした」 「……おう」 「話してくれて、ありがとうございます」 「もう、誤魔化せないだろ……」 「はい。誤魔化さなくていいです」  佐川は、神坂の手首を掴んで組んでいる腕を解き、そのまま自分の腰に回させた。そして、腕の中に彼を抱き寄せる。薄い背中に腕を回し、やったぜ、とこころの中でガッツポーズした。スキンシップ成功だ。 「史織くん、腕組まないでください」 「……」 「ちょっと拒絶されている気になります。腕組まれて離れられると」 「……わかった」 「嫌ですか?くっつくの」 「嫌じゃ、ない」 「俺も。腕組むより、俺にくっついてください」  ふぅ、と息を吐き、佐川は自分に密着している神坂をさらに抱き締める。華奢な身体は、女とは違う。だけど、抱きやすい。彼の髪に頬を押し付け、全身で彼を包む。固まっていた彼の手が、モゾモゾと動いて、佐川の腰と背中を撫でた。 「トラ、苦しい」 「すみません。でも、もうちょっとだけ」 「うん」  誰とも付き合った事がないと言う神坂に、確かめたい事はたくさんあったけれど、今はようやく彼と気持ちが通じたような気がして、言葉よりもこの体温を大事にしたかった。  サラサラの髪にちゅっとキスすると、神坂は咄嗟に佐川の服を引っ張って抗議してくる。きっと卑猥なことをするなと言うのだろう。でも佐川はそれに気づかないふりをして、何度も髪にキスをして、自分の肩口にへばりついている神坂のおでこにもキスをした。  神坂からの抗議は苛烈を極め、佐川の服は原状復帰を望めないほど引き伸ばされつつあった。 「史織くん、ちょっと、引っ張りすぎ」 「このドスケベ!」 「えー……もうちょっと、こうしてましょうよ」 「どけ!僕は風呂に入る!」 「じゃあ、お湯が溜まるまで、もうちょっと」 「いい加減にしろ!」  再び真っ赤になっている神坂は、グーで佐川の顔を押しのけ、脱出を計る。本当にこの人はなんでこんなに勝気なんだ。ムードに流されてくれたっていいだろう。佐川なりに頑張っているのだ。モテナイ大学生には、これ以上のアダルトな雰囲気は出せそうにない。そして相手の協力は望めない。  神坂が暴れ倒して仕方がないので、彼を解放しようと腕を緩めたところで、尻のポケットの携帯電話が震えた。ああくそ、邪魔をしてくれるのは一体誰だ。画面を確認すれば、バイト先の尾野だった。 「はい」 『おー悪いな、こんな時間に。今いいか?』 「はい」 『本当に悪いんだけど、明日一件だけ行ってくれないか?』 「……明日、ですか」 『ヘルプ頼まれたんだけど、俺も内藤も、明日はちょっと無理なんだわ』 「はぁ……」  佐川は応答しながら、神坂を逃がしたくなくて、腕からは出したものの、無意識に彼の手を握っていた。神坂はどうしていいかわからず、されるがままにその場に残っている。  そして、佐川の横顔を見つめている。眼鏡の良く似合う、鼻の高いハンサムな横顔だ。喋るたびに、喉仏が動くのもひどく男っぽい。腰に腕を回して知ったのは、ものすごい厚みの身体ということだ。どこを触っても硬く引き締まっていて、とても重そうな身体は、確かに細マッチョという言葉には当てはまらない。胸や腹も、すごくデコボコしている。よくわからないけれど、本当にトラになりかねない。そのくらい、同じ人間とは思えない。    佐川は電話をしながら、あまり変えない表情を曇らせている。どうやら突発的なバイトが入りそうらしい。神坂は佐川の腕を引いた。 「行け」  佐川は神坂に視線をやると、優しそうな顔で首を横に振った。佐川は神坂と話すとき、大抵こういう顔をする。無表情なくせに、甘いというか緩いというか締りがないというかだらしないというか、穏やかだ。神坂はもう一度彼に、行けと言った。この間バイトを休ませてしまったのを申し訳なく思っていたからだ。挽回できるのならしておいたほうがいい。  佐川は相手に、少し待ってくださいと礼儀正しく告げて、スマートフォンを自分の分厚い胸に押し付けて、無表情に神坂を見た。 「明日は、出かける約束でしょう」 「今度でいい。お前は、頼まれたのならバイトに行け」 「今度っていつですか。こんな機会、なかなかないから嫌です」 「僕が作る。だから、明日はバイトに行け」 「……はい」 「うん」  佐川は自分が神坂の手を握っていることに気づき、照れたようにちょっと笑うと、そのまま器用に神坂を自分の腕の中に巻き込んだ。そして、相手の人に「明日、現場出ます」と言っている。それを聞いて、神坂はやっぱりちょっとしょんぼりしてしまったけれど、気兼ねしながら過ごすよりはいいだろうと思い直した。やがて佐川が通話を終える。 「史織くん」 「声掛けてもらえるうちが花だ。この間、休ませてもらったんだし、応えられる時は行っとけ」 「はい。機会、作ってくれますか?」 「僕の会社はブラックじゃない。一段落すれば休みだって取れる」 「平日は?」 「平日だ」 「二日くらい取ってください」 「………………調整してみる」 「はい」 「どけ。風呂に入る」 「はい」  佐川は嬉しそうに笑い、そして、明日デートできなくなってすみませんと謝った。神坂はもういいと言うと、また佐川がエロトラになる前に、腕から脱出した。佐川は少し困ったような残念そうな顔をしている。  神坂はその視線から逃れるようにリビングを出た。ドアのところで振り返ると、佐川は頭を掻きながらため息をついていた。どうしよう。佐川を失望させただろうか?と神坂は焦った。しかし神坂には、好きな人とのコミュニケーションもスキンシップも経験がない。恥ずかしくって、顔もまともに見られなくなる。嫌なわけではないのだけれど、このままでは誤解されるかもしれない。 「トラ」 「はい」  顔を上げた佐川に向かって、神坂はちゅっと投げキスを送った。これならあまり恥ずかしい思いをしなくて済む。でも、多少の照れはあるので、神坂はさっさとバスルームに退散した。  佐川は神坂の一撃で、心臓を射抜かれてソファに沈んだ。

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