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第19話

 佐川の翌朝の出発は早かった。一件だけ、ではあるものの、五人家族の遠方への引越しだ。動かす荷物も多いし、子供を含む世帯なのでアクシデントやトラブルも頻発する。いつものメンツじゃないこともあって勝手が違い、気を使い、いろんな意味で重労働だった。引越しする家族が三姉妹で、一番上の女の子がひとつ違いで、ものすごくかわいくて愛想もよくて、佐川の筋肉を褒めてくれたことが唯一の救いだ。一応、丁寧にムキムキアピールしておいた。筋肉好きに悪い人はいない。  営業所に戻ったのは、渋滞も絡んで八時を過ぎていた。神坂の貴重な休みが終わりかけている。バイトに出たことを後悔してはいない。感謝もされたし、今回一緒だったチームには女性がいて、その人も結構かわいかった。でも、神坂とのデートをふいにしたのは残念でならない。  佐川が急いで家に帰ると、神坂はリビングで、いつもどおりかわいらしい女の子の格好で寛いでいた。丈の短いスカートで膝を抱えて座ると、中が見えると思うのだけれどどうなのだろう?あいにくというか幸いというか、今日の神坂はきちんと膝を揃えてまっすぐにソファに座っていた。その膝は、真っ白でほんのりピンクという、子供みたいな仕様だ。 「おかえり」 「ただいまです……史織くん、飯食いました?」 「食ってない。肉が食いたい」  満場一致で"夕飯は焼肉"案を採択し、いつもとは違う店に連れて行かれた。豚がメインの焼肉屋さんだった。肉は牛だろう派の佐川も、これはこれでうまいとモリモリ食べた。神坂の選ぶもので、ハズレはないようだ。 「史織くんは一日何してたんですか?」 「部屋の片付けとか。冬物クリーニングに出さないとだし」 「まだ寒いですよ」 「気温の問題じゃない。暦で動くものなんだ」 「そうなんですか」 「バイトに行かせたのは僕だけど、お前、進学の準備はいいのか」 「あーそうだ。教科書販売の日が……いつだっけ。まあ、四回生で取る講義はほとんどなくて、ゼミ室入り浸って卒論ですね」 「院試は?」 「なんとかなります」 「あっそ」  佐川の通う、神坂も通っていた大学は、入学も卒業も進学も容易ではない。それを知っていて、自分も通った道だからこそ、神坂は佐川を心配したのだけれど、佐川にしてみればどうということはないようだ。神坂が手越に聞いている以上に、佐川は優秀な学生なのかもしれない。それこそ、世が世ならば、出世払いで遊べるほどに。 「……デザート食う?ここの店、ゴマ団子美味いから」 「焼肉屋でゴマ団子?なんか変。でも食います」 「うん」  神坂お勧めのゴマ団子は確かに甘くて美味かった。今日は二人とも好きなだけアルコールも飲んで、ほろ酔い気分で帰宅する。神坂はフカフカした靴を脱ぎながら、佐川に風呂に入れと言った。佐川はその靴は、お洒落なのか防寒なのかと観察していた。そしておそらくお洒落だろうと納得した。防寒なら、素足では履かないだろう。 「史織くん、先にどうぞ。お湯溜めますか?」 「いい。疲れてるだろう。外に連れ出して悪かった。先に入れ」 「全く悪くないです。史織くん、明日は仕事でしょう」 「うっさい。さっさとしろ」 「一緒に入りましょうか」 「入るわけないだろう、馬鹿」  神坂は舌打ちをして、佐川を押しのけて家に入る。佐川のこういう言動は、たいてい実行しないから実現しない。からかわれているわけではなさそうだけれど、一々反応していたら身がもたない。頬が熱くなるのは止められないけれど、神坂はできる限り何気ない風を装った。佐川はその背後で、本気なのになぁとぼやいている。嘘付け、エロガキ、と神坂はこころの中で毒づいた。 「史織くん、本気ですか?」 「風呂の順番くらいで、いつまでこだわってるんだ」 「いや、本気で一緒に入らないのかなって」 「……僕が聞きたい。本気で一緒に入るつもりだったのか」 「はい。駄目ですか?」 「駄目に決まってるだろうが!」 「……すみません」  神坂にはわからない。付き合ってひと月も経たないうちに、キスをしろと言われたり一緒に風呂に入ろうと言われるのが普通なのかどうなのか。婚約指輪は、給料の三か月分が妥当だと言われるように、昔、初めてのキスは三度目のデートの時がそのタイミングだと聞いたはずだ。いや、エッチだったかもしれない。あれは標準ではないのか。うら若い女性と男性のカップルの話と、自分たちでは事情が違うのだろうか。デートには、焼肉を食べに行くことも含まれるのだろうか?  神坂は自室でコートを脱いで、それを片付けた。ついでに外出用に穿いた細身のパンツを、楽でかわいいスカートに穿き変える。佐川はどっちが好きだろうかと一瞬考えて、あいつに合せる必要はないと思い直した。そういう無理をしだすと、多分あっという間に辛くなって苦しくなるだろう。  リビングでは、まだ佐川がソファに座ってグズグズしていた。さっさと入れと神坂が促すと、お湯溜めてるんです、と反論される。いつもシャワーだけの癖に何を言ってるんだと思いながらも、神坂は無言でテレビのスイッチを入れてニュース番組を探す。  立ったままの神坂に、佐川が隣に座れと言ってくる。リモコン操作に気を取られ、テレビの画面を見ながら、腕を引かれてフラフラと腰を下ろしたのは、佐川の脚の間だった。佐川は至極スムーズに神坂を捕獲し、背後から腰周りに腕を巻きつけてくる。鍛え上げられた太い腕は、枷に等しい。重いしびくともしない。神坂を挟む脚だって、多分神坂の二倍くらいの体積を誇る。抱きつかれて、厚みや太さだけではなく、幅も全然違うのだと思い知らされる。神坂は焦って、ペシペシと佐川の腕や太ももを叩いた。しかし、そんなことではこのシェルターは抜け出せない。 「隣じゃねぇし、着地点がおかしいだろ!」 「そうですか?安定感抜群で、ちょうどいいと思いますが」 「お前が支えるから安定するだけだ!くっつくな!」 「史織くん……」  佐川は情けない声で神坂の名前を呼び、その背中に額を押し付けて黙り込んだ。神坂は途端に罪悪感を持ってしまい、テレビを消す。だって、お前が恥ずかしいことを平気で次々やるから!という言い訳じみた台詞を、ぐっと飲み込む。リビングには静寂が満ちて、居心地が悪くなっていく。 「……もう、いい。ややこしいから僕が先に入る」 「……はい」 「は、放せ。言っとくけど、嫌じゃない。拒否してるとかじゃないから!辛気臭い声を出すなっ」 「すみません」 「だからっ」  なんと言えば伝わるだろうか、と神坂は考えた。佐川は、神坂が説明するまでもなく、神坂の感情を理解してはいた。しかし理解と許容は別問題だ。こころと身体が別なのと同じかもしれない。  もっと親しくなりたい。イチャイチャしたい。頼って欲しいし、甘えて欲しい。佐川だってそういう気持ちを、うまく口に出せずにいる。子供じみている、と思うからだ。  神坂が佐川と違うのは、佐川のそういう気持ちをまるで理解できていないということだ。相手が何を考えてこんなことをするかなんて、慮る余裕がない。  佐川は自慢の筋力で自分の感情をねじ伏せて、神坂を解放した。そうすることで、大人ぶりたかっただけかもしれない。神坂との歳の差は、どこを鍛えれば跳び越せるんだろうか。 「お湯、ちょうど溜まったと思います」 「……ありがと」 「ゆっくり入ってください。俺も、部屋の片づけするんで」 「……トラ」 「はい」 「ココア、買ってあるから。飲めば」 「ココア?」 「疲れたときは、甘いもの!」  神坂はそう言い捨てて、スカートの裾を気にしながら佐川シェルターから離脱する。振り向くと、佐川は嬉しそうに笑っていた。無性に恥ずかしくなって、神坂はとっととバスルームへ退散した。  こんなんじゃ絶対一緒になんか入れない。神坂は強くそう思った。  微妙な距離感だ。そもそも、付き合いはじめから同居している時点で、通常とは比べられない。相手が実家住まいなら、門限だなんだという障害があるけれど、あいにく佐川と神坂の間にそんなものは存在しない。しかも、同居……同棲と言いたいけれど、同居中だ。なのにいつまでも付き合いが発展しない。多少制約があるほうが、お互いに創意工夫を凝らして、結果につながりやすいのかもしれない。  性別に関しては、様々な衝撃でとっくにその概念が崩れているので、この際勘案しない。後は、歳の差。絶対に超えられない、社会人と学生の壁だ。経済力の違いばかりが目に付くけれど、本当はもっと細々したことで、佐川は自分の了見の狭さを思い知らされる。  神坂は絶対に、そんなことも知らないのかとは言わない。多分本当にそんな風に思わないらしく、顔にも出ない。だけど、佐川としては恥ずかしかったり悔しかったりする。  並びたい、と強く願う。結果として、佐川はできる限り子供じみた発言や行動をしないように気を使う。それは本当に骨の折れる作業だけれど、神坂に近づくための手段を、他に考え付かなかった。時々我慢できずに神坂に手を伸ばせば、決まって拒まれる。神坂は違うと言うけれど、佐川も、彼は恥ずかしいだけなのだとわかっているけれど、二人の間の差を感じるその瞬間が苦手だった。  温度差、歳の差、考え方の違い。摺り合わせるには、佐川は自分が大人になるしかないと思った。

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