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第20話
神坂も佐川も、新しい年度が始まり、色々と気ぜわしい日々を送っていた。
佐川は四回生になり、卒論と来年以降のことを考えて、ゼミ室に入り浸っていた。新しくゼミに入ってきた学生や、外部入学の院生との、歓迎という名のコンパや飲み会もしょっちゅう行われ、教授に気に入られていることが災いして、ほとんど全部の会に顔を出さなければならない。何せ、佐川のバイトのスケジュールに合せて日程を決められるのだから、逃げようがない。自分がしてもらったように、親睦を深めなければと、一次会は出席するようにしている。
飲み会もアルコールも嫌いではないけれど、自宅にいる時間がほとんどないのが嫌だったし、神坂が苦手だという煙草のにおいがつくのにも閉口する。夜遅くに帰っても神坂とまともに話もできないし、一緒に食事もできない。彼を出迎えることもできない。
神坂にしても、新入社員を迎え、自分のチームのメンバーの配置換えもあって、バタバタしていた。前触れもなくよくわからない肩書きが付いて、今までは無駄だの一言で無視できたことができなくなり、事務処理に手を取られる。しかも宛がわれた新人は、佐川と同じ歳のはずなのに、恐ろしく意思の疎通が難しい。佐川の数倍しゃべるのに、何故か意味がわからない。だからといって放置はできないので、育てるしかないのだけれど、一日に何度もいろんな人と喧嘩をする。喧嘩というか、相手を怒らせる。そのたびに取り成すのも、いい加減面倒になってきた。
佐川なら、と考えている自分に気づくと、ため息が出る。今朝は社員証がないと騒いでいたようだ。社屋や研究室へのパスにもなっているので、最初のゲートを通過できずに玄関先でカバンをひっくり返していたらしい。幸い、神坂はもう社内にいたので、後からやってきた誰かが面倒を見たようだ。昼を過ぎた今でも、そいつは研究室に来ていない。佐川なら、自分が渡した合鍵をなくすなどありえないだろう、と考えて、またため息が出る。社員証と合鍵は別次元だし、佐川と新人だって別人だ。私生活と仕事も混同するべきではない。
残業して家に帰っても、佐川がいない日が多い。メールは、さすがに学生だけあって時間に関わらず送られてくる。とは言っても、買い物の確認や、帰宅時間の連絡程度だ。一緒にいなければ、物足りない。
佐川はバイトがあれば夜は遅いし、その間を縫うように飲み会に出かけるので、一緒に夕食を食べたのがいつだか思い出せないほどだ。
神坂は、ふと肉が食べたくなって、佐川に今日は何時に帰ってくるのかと聞いた。遅くなりますと返信がある。神坂はそれを見て、コバヤシやタカミネを誘って肉を食べに行く。
「あーもーめっちゃムカつくあのクソガキ!!」
「はー……俺も結構、きついっすわ、史織さん……」
「うん、僕も」
コバヤシとタカミネは、神坂の二期下の後輩だ。二人は学卒で同い年の同期なのだが、愛想のよくない神坂をよくフォローしてくれて、とても頼りになる。仕事にも意欲的で、気遣いがある。武闘派のタカミネはともかく、人当たりのいいコバヤシでさえ愚痴るほど、新人の勢いは凄まじい。肉を焼いてやりながら、神坂も思わず同意してしまった。
「なんにもできひんくせに、口だけは一丁前って、いっちゃんアカンやつちゃうん!」
「おーおータカミネが訛ってる。すげー訛ってる。久々だー」
「うっさいわ!訛ってんちゃうわ!地が出とんねん!」
「史織さん、びっくりしてるよー」
「史織さんは、大阪弁好きやっちゅうねん!な?史織さん、好きやんな!」
タカミネは大阪の出身だ。神坂の勤める会社は大阪に本社があるので、神坂も半年ほど、大阪にいたことがある。仕事中は雑談している暇もないほど忙しいので、タカミネの大阪弁を聞く機会は少ないし、関西の人は標準語のイントネーションを覚えるのが早いので、タカミネも例に漏れず、意識していれば関西出身だと気づかれない。こうして私的に食事に行くと、マシンガントークが始まるのだけれど、神坂は確かに大阪弁が好きだった。史織という聞きなれた名前ですら、アクセントが違って面白い。
コバヤシは生まれも育ちも東京なので、タカミネの言葉が時々聞き取れないらしい。
「そうだな。大阪弁は好きだな。でもタカミネ、とりあえず声がでかい」
「はぁい。でも、ムカつくねんもん」
「タカミネー。お前さ、史織さんにタメ口とか、ありえないんだけど。いい加減に直せよ」
「飲んでるときだけやし。自分が慣れたら?」
「はい、焼けたから食え」
「「はーい」」
コバヤシとタカミネはとても仲がいい。声だけ聞いていると、タカミネは常にコバヤシに喧嘩を仕掛けているように聞こえるけれど、小柄でパッチリした目の、えくぼのかわいい顔はいつも笑っている。前髪のそろった髪形といい、お人形のような女性だ。声もかわいい。出る言葉が、口調が、若干武闘派寄りなだけだ。
肉を焼きながら、久しぶりだな、と神坂は思った。最近は佐川と一緒に行く機会が多かったし、そうなると佐川がほとんど焼いてくれる。ものすごく大きい手で、器用にトングを使って、神坂の食べやすいタイミングで次々と……。
「ほんでね、今日なんか、あいつパスなくしたんですよ。信じられへんでしょ」
「さすがに相当怒られたらしいですよ。史織さんにも、連絡いきませんでした?」
「うん。今忙しいって言って、総務からの内線切ったら、すぐもう一回かかってきて、お前んとこのガキをとっとと引き取りに来いって、すごい剣幕で呼び出された。でも、本当に忙しかったから、室長に丸投げした」
「ほんで?室長、迎えにいったんかな」
「知らない。だって本人が部屋に来ないんだから」
そうなのだ。新人は結局、今日一日顔を見せなかった。帰ったかどうかも知らない。週明けも来なかったら、フェイドアウトで辞めるパターンかもしれない。神坂は、フォロ-したほうがいいかと考えて、連絡先を知らないことに思い至る。月曜日の朝、ゆっくり考えよう。今は、肉だ。
「おいしー」
「うん。史織さんに連れて来てもらう店って、全部おいしい。特にお肉」
二人はニコニコしながら食べている。タカミネはともかく、コバヤシは、佐川とあまり身長が変わらないのに、佐川より食が細い。なので、神坂は注文しすぎて、食べ切るのに四苦八苦する羽目になった。しかもコバヤシは下戸だ。
佐川よりも付き合いの長い二人なのに、佐川の影響でおかしな具合になる。神坂は少し落ち込みながら、焼酎を口にした。ビールを飲みたいのに、おなかがいっぱいで入らない。ビール党の佐川だったら、一口くれたのにと思うと、なんだかつまらない。貰ったことなどないけれど。
「来週来るんかな、あいつ」
「さあ?しれっと来そうだけどな」
「あーしれっとしてそうームカつくー」
「お前らも、新人のときは色々やらかしたんだ。ちょっとは面倒みてやれ」
「「無理っすー」」
「仲いいな、お前ら……」
口ではそう言ったものの、神坂の記憶にこの二人のやらかしエピソードはない。ちょっとした失敗や至らないところはあったのだろうけれど、そういうことを一々覚えてはいない。だからこそ、久々の新しい後輩のパンチの効いた行動に動揺するのだ。
「だってあいつ、挨拶もろくにせぇへんし」
「てゆうかね、新人が一番出勤遅いってどうなんですか。しかも、やれって言われたことも、時間になったら適当にごまかして帰るんですよ!?次の日、できてるもんだと思ってデータ見て、愕然としたことが何回あったか!」
「帰りにチェックしないお前が悪い。ちゃんと最後まで責任持たせろ」
「でもこないだ史織さんだって、終わってないのわかってて「もういい。時間だから帰れ」ってゆーてたやん!」
「それは切れたんだ。投げたんだ。諦めたんだ」
「うわー。史織さんに助けてもらわれへんかったら、地獄見るのになぁ……」
神坂のチームには、神坂よりも先輩だっている。しかしその人たちは本気の研究者なので、協調性に欠ける。従って、いつの間にか、チーム内の進捗を確認してフォローするのは神坂になっていた。
神坂が特別面倒見がいいわけではない。できないならできるようにしてやるのが上の人間の仕事だと思うだけだ。できないままだと面白くないから、仕事に身が入らない。しかし、そういういつもの考えも、今回の新人には通用しそうにない。できないことを認めないので、そこから気持ちが萎えるのだ。
「要らんわー。ほんま要らんわ、あいつ。フジオカさん、戻ってけぇへんかなぁ」
「戻らない。今頃、造幣局の通り抜けでも行って、歩きながらカップ酒だろう」
「造幣局の通り抜けってなんですか?」
「コバやん、うるさい」
「マジかーこれもうるさい扱いなのかー」
三月まで一緒に働いていたフジオカという男が、大阪本社へ転勤した。人員の補充を、もちろん申請したけれど、入ってきたのはあの新人だ。戦力のマイナスは一人分ではなく、お荷物分も含めて二人分だ。神坂をはじめ、他のメンバーにかかる負担は大きい。
「でも史織さん、無理しんといてね。今史織さんに倒れられたら、私ら路頭に迷うし」
「え?あ、うん。ちょっと前、休んだな。ごめん、気をつける」
「史織さん、あれは土曜日だったから、休んだとは言いません。でも、マジで無理しないでくださいね」
「うん。ありがと」
「トラ君は元気ですか?」
「んー」
神坂は、一番最近見かけた佐川を思い出そうとして、よくわからなくなってやめた。毎朝同じ時間に出かける神坂にしてみれば、いつも佐川が寝ているのがちょっとムカつく。佐川がその時間に起きれば、わずかでも話ができる。そこまで考えては、バイトと学校と飲み会で忙しいし、帰りも遅いし疲れているんだろうと思い直す。そして、でも二度寝すりゃいいんだから、朝ぐらい起きろよ!と考え、自分勝手さに自己嫌悪を抱え、一人で静かに出勤する毎日だ。焼酎の減りが早い。
「んーって何ですか。もういないんですか?」
「いる。バイトだなんだって、夜はあんまりいないから顔を合せない。朝は寝てるし」
「ええなー。学生に戻りたいわ。あの頃みたいな生活、今は絶対できひんし」
「トラ君、遊び人なんですか。なんか電話のイメージと違うなぁ」
「遊び人?バイトと学校と付き合いで忙しいのは、普通の学生だろう」
「えー。でも、史織さんと顔合わせないぐらいって、やっぱり外、出すぎでしょ。遊びすぎだよ、いいなぁ、学生」
そうか。佐川は遊び人なのか。神坂はなるほど、と納得した。そして、焼酎のグラスを空ける。腕時計で時間を確認して、二人を促して店を出た。夜はまだ寒い。神坂はスプリングコートの前をかき合せて、ふう、と息を吐く。少し酒を過ごしたようだ。
「史織さん、覚えてる?来週、接待あるの」
「ああ。水曜日だっけ?」
「そう。あいつ、俺も行っていいですか?とかゆうねん。お前が来て、何をどう接待する気やねんって。お前はナンボほど偉いねんっちゅー話やわ」
「タカミネー。マジでタメ口やめろ」
「あ!思い出した!あいつ、しれっと史織さんとか呼んどんねん!あほかっちゅーねん!ファイルのカドでデコはたいたったわ」
「タカミネ、僕へのタメ口はともかく、後輩への実力行使はよせ」
「デコはたいただけやもん」
「ファイルのカドで、デコははたけない。状況的に不可能だ。どう手加減しても、打ち込む形になるだろう、カドを、デコに」
「えーそうかなーものの見方って、人それぞれだよねー」
「都合の悪いときだけ、標準語でしゃべるな」
訴えられたら負けるレベルだ。研究室内にあるファイルは大体が分厚い。そして、中身が重いゆえに、ものすごく頑丈で、傷みやすい角は金属で補強されている。そんなものでデコをはたけるわけがない。タカミネの手では、片手で掴むのも難しいほどなのに。
「ご馳走様でした!週末、ゆっくり休んでくださいね、史織さん」
「ああ。気をつけて帰れよ」
「「はーい!」」
元気でかわいい後輩たちは、神坂とは違う方面のホームへ仲良く去っていった。気のおけない仲間と、大好きな焼肉をたらふく食べたというのに、神坂はなんだか気分がよくない。飲みすぎただろうかと後悔した。酒には強いけれど、疲れが溜まっているから酔いやすいのかもしれない。
混んだ電車に乗って、最寄り駅まで辛うじてたどり着くと、でかい人影が神坂の目の前を塞いだ。
「おかえりなさい」
「……トラ」
「同じ電車だったんですね」
「お前、遅くなるって言ってただろう」
「遅いですよ、十分。今日はちょうどよかったけど」
「……うん」
こころが騒ぐのを止められない。神坂はうつむきがちに、佐川の後ろを歩き、それぞれに改札を抜けて、同じ家を目指す。人もまばらになり、神坂はようやく、佐川のほうを向いた。佐川は自転車を家に置いてから出かけたらしく、二人とも徒歩だった。
「……煙草くさい」
「はぁ……やっぱり?隣に来るなって言っても、酔ってるから言うこと聞かないんですよ」
「後輩?」
「先輩です。外部からの人だから、親しくないけど」
「ふぅん」
「史織くんは、焼肉のにおいがする」
「……っごめん!」
「え?なんで?」
「お前、肉好きだし?僕だけ、なんか」
「いいですよ。夕方、帰り時間聞いてくれましたよね。誘ってくれようとしました?」
「うん……」
「すみませんでした。えーっと……コバヤシさん?」
「と、タカミネ」
「そうですか」
神坂はものすごく恥ずかしくなった。焼肉のにおいがするなんて、カッコ悪いし、かわいくない。髪にもついただろうか?気になって、佐川から距離を取る。
「何?どうしました?」
「……別に。お前は今日、何食べたんだ?」
「もう居酒屋メニューも飽きましたね。食べた気がしません。家で適当に追加しようかな」
「ごめん……」
「史織くんが謝ることじゃないです」
「いや、だったらどこか寄ればよかったなって。気づかなくて」
「寄りません。早く帰りましょう」
あとほんの少しでマンションに着く。人がいないのをいいことに、佐川は離れてしまった神坂の手を掴み、自分の方へ引き寄せた。ふわん、と焼肉のにおいがして、佐川は笑ってしまう。酒が入っているので、ご陽気なのだ。
「何笑ってんだ」
「美味しそうだなと思って」
「何が?」
「史織くんが。あー、食いたい。食っちゃいたい」
佐川はそう言って、眼鏡のブリッジを押し上げながら、神坂に笑いかける。神坂も飲んでいるので、ああそう、と聞き流してしまう。過激なことを、言われているのに。
「史織くん、明日は仕事ですか?」
「休み。今年度から、休日出勤するなって話が出てて」
「俺もです。久しぶりですね」
「……うん」
「どこか、行きませんか?念願の、待望の初デートです」
「考えとく」
「明日なのに?」
「今ちょっと、ぼーっとしてるから、後で考える」
「ぼーっとしてるんですか?じゃあ、つけこもうかな」
神坂はぼーっとしていた。だから、神坂を食っちゃいたい佐川につけこまれるというのがどういうことなのか、いまいちピンとこない。ただひたすら、焼肉のにおいが気になっていた。一緒にエレベータに載りこんで、密室の中で手を引っ張られて、佐川の腕の中に抱き込まれそうになる。
「は?お前、馬鹿、何やってんだ」
「ぼーっとしてないじゃないですか。史織くんの嘘つき」
「ふざけんな。酔ってるのか」
「史織くんだって飲んだんでしょ?」
「飲んだよ。お前がいないからビールが飲めなくてイライラした。だから飲みすぎた」
「へ?ビールくらい、飲めるでしょ?」
「おなかいっぱいで、一杯は無理だったんだ!それもお前のせいだ!」
「はい、着きましたよ」
ブツブツ文句を言っている神坂の腰を抱いたまま、佐川は器用に片手でボディバッグから鍵を取り出してドアを開ける。
神坂は帰宅した安心感から、やれやれと大きなため息を吐いて、玄関に腰を降ろした。重い鞄を脇に除け、いつも通り靴紐を解く。そんな神坂の前に、佐川は膝をつくと、神坂を抱き締めた。手加減のない抱擁は苦しいほどだ。自分の首元に顔を埋めてくる佐川の体温が高くて、神坂はパニックになる。思わず彼のジャケットを握って引っ張っていた。
「ちょ、トラ……!」
「本当に、食いたいです。史織くんを、全部食いたい」
静かで低い声でそう告げられて、神坂は何も返せなかった。佐川を引き剥がそうとしていた手は、弱弱しく彼の背中に添える。張りつめた硬い筋肉が、時々動くのがわかる。もしかして佐川は、ものすごく我慢しているんだろうかと一瞬頭に浮かび、だけど酔いと混乱ですぐに霧散していく。
「……すみません。酔ってるんです。史織くんも酔ってますよね」
「……ちょっとだけ」
「風呂入って、いつものにおいになったら、もう一回ハグさせてください」
「うん」
「はい。家に、あがりましょう」
佐川はいつも通りの無表情に戻り、神坂を解放すると、眼鏡のブリッジを押し上げながら神坂の手を引いて立ち上がらせる。付いていけずに動揺している神坂は、佐川をじっと見上げた。そんな神坂に、大丈夫ですよと微笑む。
「飲みすぎ、じゃないのか。ガキのくせに」
「史織くんだって、いいオトナなんですから飲み過ぎないで下さい」
「うっさいな。僕にだって飲みたい時があるんだ」
「……会社で何かありました?トラブル?」
「別に。風呂、僕が先に入る」
神坂は最近焦りを感じる。佐川が何を考えているのかわからないときがあるからだ。以前は余裕がなくて、自分が佐川を理解していないなどと思い至ることもなかったけれど、佐川が傍にいる日常に慣れて、ようやくそういうことが気になるようになっていた。
付き合いを進めることを望んでいることは知っている。自分の経験値の低さが、それを阻んでいることもわかっている。付き合いを始めて、仲を深める方法は、タイミングは、みんなどこで学ぶのだろうか。
|佐川《経験者》のリードに任せればいいのかもしれない。しかし、神坂は佐川がずいぶん年下であり、学生であることを気にしていた。負担をかけたくないと、真剣に考えていた。お世辞にも社交的とは言いがたい筋肉の固まりに、自分の面倒を見させるのは気が引ける。だから、自分から行動するべきなんじゃないだろうかという結論に至っていた。佐川とのすれ違いが続き、考える時間と余裕ができた結果だ。そしてそれを実践するべきは今かもしれないと思った。
佐川は自分の部屋に入っていき、神坂も自室に引き取る。着ていたコートとスーツを脱いでハンガーに掛け、消臭剤を吹きつける。ネクタイを外してそれにもたっぷり消臭剤を吹きつけ、ワイシャツ一枚でウロウロするわけにもいかないので、ウェストがゴムになっているジャージ素材のマキシスカートを穿く。ふと、髪のにおいも気になって、髪用のにおい対策スプレーをプシューーーーーとふりかけた。ちょっとはマシだろうか?うっすらと湿った髪を手櫛で梳きながら、神坂は佐川の部屋のドアを叩いた。
「はい。……ワイシャツにそのスカートは、おしゃれですか?」
「間に合わせだ」
「そう。長いスカートもいいですね。どうかしました?風呂は?」
「今から入る。……」
「……?」
神坂はなんと言えばいいのかわからず、いつもの癖で腕を組んだ。そして、組むなと言われたことを思い出し、解いた腕を、佐川に巻きつけた。木を抱いているような気分になる。太くて硬くてゴツゴツしている。煙草くさい。でも、佐川だ。
神坂の突然の行動に、佐川は驚いて、それでもよろけることもなく抱きとめた。
「何……どうしたんですか?」
「……しても、いいぞ」
「はい?」
「キスとか、しても、いいってばっ」
神坂は早口にそう言って、恐る恐る顔を上げて佐川を見上げた。縁のない眼鏡の向こうの目が、驚いたように見開かれる。この後どうすればいいのかは、まったくわからない。神坂は焦りながらグルグル考えて、そうだ、キスのときは目を閉じるものだと思い出し、ぎゅっと目をつぶった。
佐川は神坂の行動が理解できず、かわいい顔を顰めて目を閉じる神坂をじっと見つめた。そして、ああそうか、と納得し、そっとため息をついた。
「……ありがとうございます。でも、いいです。また今度で」
「え……」
断られるとは思っていなかった神坂は、びっくりして目を開けた。怒っては、いないようだ。でも、困らせたらしい。アプローチの仕方が悪かったのだろうか。それともタイミングだろうか。服装かもしれない。おかしな格好だという自覚はある。それともやっぱり、焼肉のにおいか。風呂に入ってからにすればよかったのか。
神坂は動揺しすぎて、硬直して動けなくなった。佐川は表情を崩さずに、自分の腰に回された神坂の腕を、そうっと解く。佐川が一歩下がって、距離ができて、神坂は血の気が引くように冷静になった。
「……風呂、入ってくる」
「はい。いってらっしゃい」
佐川は眼鏡のブリッジを押し上げながら、神坂に頷いた。神坂は恥ずかしさのあまり、目も合せられずにポポポポポと間抜けな足音を立てて、廊下を走り、バスルームに飛び込んだ。いつもの恥ずかしさではなくて、居たたまれないような、歪んだ大きな羞恥心が内面を焼く。そして神坂は、自分はやっぱりこういうことがちゃんとできない人間なのだと、強い恐怖感と一緒に落ち込んだ。脱衣所の冷たい壁に背中を押し付けて、ずるずるとその場に座り込んで動けなくなる。
一方の佐川は、慌てて走っていく佐川を見送ることもできずに、俯いて深いため息を吐いていた。今夜の神坂は普通じゃないようだ。飲みすぎたのだと言っていたけれど、酔いに任せてあんなことをするなんて。
佐川は苦しくて、強い力でドアを閉めて部屋に閉じこもる。酒の勢いでは、何もしたくない。なのにあんな風に言わせるほど、自分は神坂に無理に迫っているんだろうか。佐川もいつもよりも飲んでいて、神坂の申し出に襲い掛かりそうになったのは確かだ。それでも、彼が酔っているのだと気づいて、救われないような気分になった。
もっとちゃんとしないといけない。自分は神坂の、初めて付き合う人間なのだから。そして色恋沙汰の経験はないとはいえ、神坂は大人で社会人なのだ。そんな彼に釣り合うように、もっとしっかりしないといけない。
「…………風呂、空いた」
「はい」
神坂が入浴を終えるのに、いつもの二倍の時間がかかった。それでも、佐川の気配のするリビングに直行する勇気が出なくて、自室に戻り、佐川の好きだという髪型に整えてみた。しかしすぐに、こんなことをしたって仕方がないと、ため息をつきながら髪留めを外し、ざっくりとしたタオル地のヘアバンドでお茶を濁す。
風呂上りに、ほんの少し髪を気にすると、佐川はたいてい目を細めてかわいいですね、と言ってくれる。かわいい格好が好きだし、佐川にかわいいと思われたい。だけど、それだって気を使わせているのかもしれない。
ひらひらとしたネグリジェを指でつまみ、神坂はまたため息をついた。好きで着ているけれど、佐川は本当はどう思っているのか。相手の趣味に合せれば、無理が出てストレスになると考えていたけれど、本当はもっと気を使うべきなんじゃないだろうか?一度は、逃げられたのだから。
神坂は、我ながらひどい落ち込みようだと苦笑いをして、リビングにいる佐川に声をかける。佐川はいつも穿いているデニムのパンツに、上半身は半そでのTシャツだけという格好で、ソファに座ってテレビを観ていた。着ている服が減ったからか、煙草のにおいもあまり気にならない。
「遅いから、風呂で寝たのかと思いました。酔ってるし」
「……そんなに酔ってない。もう醒めた」
「そうですか。風呂入って血流よくなると、もう一回酒、回りません?」
「だから、僕はそんなに酒に弱くない」
神坂の反論に、佐川は珍しく何も言わずに肩をすくめただけだった。その途端、神坂は落ち着かなくなる。さっきの拒絶が、失敗が、確実に神坂を頑なにさせる。何もかもが不安になる。
ちゃんと洗ったはずだけど、まだ焼肉のにおいがするのだろうか?やっぱり髪を整えてきたほうがよかっただろうか?こんなひらひらした格好じゃなくて、佐川のようにスウェットのほうがいいのかもしれない。佐川が普段着ている服は、シンプルで形もオーソドックスなものが多い。きっとそうだ。付き合っているのだから、歩み寄らないといけない。
急激に色んなことを考え出し、黙り込んだ神坂の傍へ、佐川が近寄り声を掛ける。
「史織くん?」
「あ……僕、明日買い物に行くから」
「え?そう……買いたい物、決まってるんですか?買い物だけで一日過ごすの?映画とか、飯もどこか」
「いい!僕一人で行くから!トラは、トラの好きなことしてろ!」
「……は……嘘でしょ……」
佐川の顔は見られなかった。ただ、「じゃあ、そうしましょう」と言った声が、神坂の胸に突き刺さる。そう言ってリビングを出て行った佐川の、遠ざかる足音が、胸に痛い。
神坂は逃げるように自室に引きこもった。ハグなんか、どうせされない。待っていても無駄だ。そんなことより、早く佐川の好みに近づきたい。ベッドに潜って頭から布団を被って、神坂は明日買わないといけないものを一生懸命考えていた。酔いなんか、とっくの昔に醒めていた。
佐川は風呂を出て、リビングに誰もいないのを確認してから自分の部屋へ戻った。廊下の先にある、神坂の部屋のドアをじっと見つめて、少し話をしようかと思ったけれど、あれだけ酔っていればもう寝ているだろうと諦めた。朝になれば、あるいは、一緒にどこかへ出かけようと言ってくれるかもしれない。
佐川は遅くまでスマートフォンで、手近なデートスポットや評判のいいレストランを調べてブックマークしておいたけれど、翌日それを呼び出すことはなかった。
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