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第22話

 佐川が出ていったあと、神坂はフラフラとリビングへ行った。佐川が畳んでくれた洗濯物が、神坂の分だけソファに載せられている。いい匂いのするそれを両腕で抱いて、神坂はため息をついた。そのままぼんやりと時間を過ごし、空腹を感じたのが午後九時だった。ノロノロと洗濯物を片付けて、いつも満タンの冷蔵庫を覗いて、適当なもので食事を済ませる。  佐川が戻ってきたのは、日付が変わってからだった。  神坂は買って来た着慣れないパジャマを着て、彼の帰りをリビングでずっと待っていた。それなのに、佐川は玄関から自室へ直行し、その後はそのままバスルームへ行ってしまった。  神坂は、馬鹿トラの馬鹿、と呟いて、彼がバスルームから出るのを待たずに自分の部屋へ戻った。 「…………はぁ……」  佐川は、ほとんど拭かないままの髪から雫を落としながら、勢いよくリビングのドアを開けた。なのにそこに神坂がいなくて、重いため息を吐く。  帰宅した時、リビングに神坂の気配を感じて、佐川は慌てた。自室にいると思っていたからだ。ムシャクシャして友達に頼まれるままにコンパに行き、いつもはパスする二次会のカラオケにまで参加し、密室の中で煙草の煙にまみれたことを一瞬で後悔した。急いでシャワーを浴びて念入りに髪も身体も洗い、ロクに拭きもせずにリビングに駆け込んだのに、神坂はもういなかった。もしかしたら、最初に感じた気配も気のせいだったのかもしれないとさえ思う。  芸能人がよく離婚に理由にする「すれ違い」というものの威力をひしひしと感じる。一緒に暮らす自分たちの間の距離が、途方もないもののように思える。  今日は一体、誰と逢っていたんですか。  佐川はそれが聞きたくて、聞きたくなくて、苦しかった。友達や知らない女の子たちと騒いでいる間も、ずっとずっと頭から離れなかった。握りつぶしたレシートは、今でもジャケットのポケットに突っ込んである。  自分の知らない神坂がたくさんいて、彼はそれを説明しようともしない。聞けば教えてくれるのかもしれないけれど、どんな表情で、どんな声で聞けば、みっともなくないのかがわからない。そもそも、彼と話す時間がない。  佐川は手にしていたタオルで適当に髪を拭きながら、自分の部屋に戻って黙々と筋トレをした。それしかする事がなかった。  翌日神坂が起きた時間には、すでに佐川は出かけたあとだった。恐らくバイトだろうけれど、よくわからない。日曜日をダラダラと過ごし、昨日と同じように三食を適当に済ませ、神坂はいつも通りの好きな格好をして、早々に自室に閉じこもる。昨夜のような思いは二度と嫌だと思ったからだ。一度しか着ていないスウェットのパジャマは、小さく畳んでガサガサする袋に入れて、引き出しの奥に押し込んだ。  ベッドに潜りこんで本を読んでいたら、いつの間にか眠っていたので、佐川が何時に帰ってきたかは知らない。  週が明けた月曜日の朝、佐川はいつもよりもずっと早く起床した。神坂の出勤に合わせて自分が起きれば、少なくとも一緒に朝食を食べながら話ができる。しかし、いつも七時に出かける神坂は、佐川が六時半に起きたときにはもういなかった。避けられているんだろうか?そう考える事さえ、二日酔いの頭には面倒に思えた。食欲もない。連日の暴飲暴食が祟っているようだ。そんな自分の生活にも嫌気がさす。 「今日もバイトだっつーの……」  佐川はリビングのソファにだらしなく寝転がってため息をつく。  佐川の通常のバイト量であれば、こんなに連日忙しくはならない。しかし、卒論書き上げの時期にバイトはできないから、今のうちに稼いでおきたいとも思うし、同じ営業所のベテランの人が辞めて、そちらへのヘルプを頼まれるので、週五とか、ひどい時は毎日バイトに出ている状況だ。  講義はなくとも大学へは行かなければならない。買い物その他の家事も絶対に手を抜きたくない。教授に来いと言われれば、バイトが終わってからでも飲み会に顔を出す。だけどもう、そんなパターンも終わりが見えていた。飲み会の頻度は下がり、四月という時期もあって新しいバイトも増えた。佐川は早く、どうにかして、神坂との時間を作りたいと考えていた。それでも、今日もバイトだ。 「……」  神坂が帰宅した時、いつも通り佐川はいなかった。スーツのままでぼんやりと冷蔵庫を開け、律儀に補充されている食品を、適当に取り出して腹に収める。鬼門のような気分でリビングを通り過ぎようとしたとき、開いたままのドアの向こうのローテーブルの上に、見慣れないものを発見した。近づいて手に取れば、大きめの卓上カレンダーだ。余白が大きく、予定が書きこめるようになっている。 「……忙しいことだな」  今日、月曜日からその書込みは始まり、今週は水曜日と金曜日以外の五日間にバイトという文字がある。初めて見た佐川の文字は、綺麗だった。すれ違ってばかりで、メールも減っているお互いの予定を知らせ合おうというのだろう。佐川の心遣いに、神坂は泣きそうな気分になる。  そしてため息をつきながら、ジャケットの内ポケットからボールペンを取り出し、水曜日に接待、金曜日に署内歓迎会と書き込んで、自室に引きこもった。  佐川は夜遅くにバイトから戻り、リビングを覗いた。案の定無人だったけれど、自分の置いたカレンダーに、神坂の文字が追加されていた。今週は、一緒にゆっくりできる日がない。佐川は憂鬱な気持ちになったけれど、それを知れただけでもいいと思い直した。神坂と同じ家にいる。それだけは間違いないのだから。  神坂の勤める会社の大阪本社の偉い人たちは、何故か月曜日から東京支社に来ていた。色々と視察するつもりらしいけれど、変人の室長の率いる研究室に在籍しているので、神坂は煩わしいことには巻き込まれず、日常を過ごせていた。  月曜日の朝、ハセガワは意外にも、神坂を出迎えられる程度には早く来ていた。白衣を着て、神坂は自分のデスクの端末の電源を入れる。届いているファクスの束に目を通し、自分や他のメンバーのデスクに置いて回り、戻ってきたら基幹システムが起動していた。テケテケとコードやパスを入れてログインだけを済ませる。その様子を、ハセガワはじっと黙って見ていた。神坂はハセガワに視線をやって、小首を傾げる。 「お前の今日の予定は?」 「え?えーっと……いつも誰か来てから、これやっとけって言われます」 「じゃあ、これやれ。多分一日じゃ終わらないけど、終わるまで帰るな」 「……はい」  神坂は今目にしたばかりのFAXの一枚を、そのままハセガワに渡す。多分何が書いてあるのか、何をしたらいいのか、読み取れないだろう。神坂は、自分はあまり親切なほうではないと自負している。  単語の意味がわからなければ調べればいいし、わからないことは、相手の状況を窺いながら教えを請うべきだ。そういう手間を含めれば、就業時間内には終わらないだろう。それでも、相手のリクエストから始まって、最後の返信までをやらせなければ、責任感は培われにくい。  ハセガワは新人で、この研究室にも仮配属という名目になっているので、個人的に使用できる端末はまだない。プリンタをはじめとする機器に繋いでいる汎用のマシンの前に座らせて、仕事には直結しないけれど、社内ネットワーク上にある資料や申請書の話から始める。よくこの数週間知らずにいられたな、と思うほど、ハセガワは無知だった。教えなかった自分たちが悪いと、神坂はつくづく反省する。そしてそれをハセガワに言うと、ハセガワはまたモゴモゴと、自分が悪かったっぽいんで、と言っている。その自覚が芽生えただけでも、今日の早出に意味があったと神坂は考えた。  その後も次々と、研究室内の備品や誰でも勝手に見てもいい資料の場所、何があっても開けてはいけないキャビネットなどの説明をして回っていたら、他のメンバーの出勤時間になっていた。  神坂より年上のメンバーは、神坂がハセガワの指導をしているのを見て、目を細めて頷いただけだったけれど、タカミネとコバヤシはそうはいかなかった。 「おはようございまー……す……?」 「おはよう。タカミネ、ハセガワには今日、僕の手伝いをやらせる。お前の手が足りないときは僕に言え」 「……何をさせる予定ですか?」 「色々。指示だけ出して放置だから、お前のところにも質問に行くかも知れない。ファイルから手を放して聞いてやれ」 「ファイルが私の手から離れることは、あまりないのですが」 「ハセガワ。デコが大事なら、その貴重なタイミングを逃すな」 「は、はぁ……」  タカミネは心底面白くなさそうな顔をして、それでもそれ以上何も言わずに自分のデスクに向かった。タカミネのすぐ後ろで話を聞いていたコバヤシからは、質問は出なかった。その代わり、目が合った途端に、肩を竦められた。神坂はそれを、委細問わず了解、の意味と取った。  その日の昼休み、神坂はハセガワに、水曜日の接待にお前も来るかと聞いた。試用期間中のガキに邪魔されたくない場ではあるけれど、あまりない機会なので、本当に興味があればねじ込もうと考えた。ハセガワは、何度も読み返していろいろ書き込んでいるファクスを手に、即座に首を振った。場違いっぽいんで、とモゴモゴ言っている。わずかな時間で格段の進歩だ。神坂は、あっそうとだけ言って、食堂へ行った。ハセガワは多分、今日は昼飯抜きだろうが、晩飯も夜食も抜きになるよりはマシだろう。  神坂はとりあえず一週間は朝早く来いとハセガワに言い、自分もそれに付き合った。佐川が自分に合わせようと起床しているなど夢にも思わず、何も言わずに行動していた。ハセガワの進捗に合わせて、黙々と残業にも付き合う。  そんな事を始めた三日目の水曜日の朝、いつもどおりコーヒーだけ飲んで出勤しようとパタパタしていたら、自分のマグがキッチンのテーブルに出してあって、その下にメモが挟んであった。きれいな字で、帰る時間がわかったら連絡をくださいと書いてある。神坂はそのメモをじっと眺め、コーヒーを淹れながらじっと見つめ、コーヒーを飲みながらスーツの内ポケットに仕舞った。自分を待ってくれているのだろうか、と考えれば、ポケットのあたりがドキドキして、あたたかいような気さえした。  そもそも今回の接待になぜ神坂の研究室が呼ばれたのかは不思議だった。建築資材を必要とする業界の人間が相手ならともかく、あまり聞かない粉体を扱うメーカーと特殊紙業メーカーだ。社長がわざわざ大阪から来て、東京支社長と開発業務部門の取締役までいる。上層部で何か大きなプロジェクトでも考えていて、回りまわって自分たちも携わるのかもしれないけれど、今現在一緒に仕事をしているわけでもなければ、異業種なので共通の話題も少ない。しかしその分、お互いの力関係も曖昧なので、思いのほか和やかに食事会は進んだ。  神坂は自分の好きな中華料理であることに気をよくし、同じ円卓を囲む先方の技術者と、どういうことが自分の専門分野なのかをお互い話し合っていた。ずいぶん年上ではあったけれど、同じ大学の先輩であると知って、親近感が沸く。  神坂がそんな風に恙無く接待をしている間に、別のテーブルに着けられたタカミネは、運悪く性モラルに疎い馬鹿ばかりに囲まれて、執拗なセクハラを受けていたらしい。一緒に座っていた室長が必死に庇ってくれたそうだが、さりげない嫌味も話題変えも、馬鹿な豚と馬鹿なヒキガエル(タカミネ談)には伝わらなかったようだ。神坂がその惨事を知ったのは、食事会が終わり、役員たちが二次会と称して高級クラブへ去っていった後のことだった。  彼らを乗せたタクシーを頭を下げつつ見送り、他の出席者の分もタクシーを手配して、それぞれの目的地に向かわせる。ようやく電車で帰る、自社の人間だけになったのが、十時前だった。やれやれとため息をついて、さあ帰ろうと駅に足を向けた神坂の腕を、タカミネの小さな手が引きとめた。  どうした?と聞く神坂の声にかぶせ気味に、タカミネの大阪弁がものすごい勢いで噴出した。幸いにも声は低く小さく、周囲に聞こえる心配はないものの、発せられる雰囲気は殺意に満ちている。車の音や雑踏にまぎれて神坂の耳の届く単語も物騒なものばかりだ。第一、かわいい大きな二重の目が据わっている。  神坂はよくわからないままに、わかった、わかったと何度も言って、流しのタクシーを一台止めた。コバヤシも察して一緒に乗ろうとしたけれど、「酒も飲まれへん奴はすっこんどかんかいっ!!」とタカミネに一喝されて立ち尽くす。タカミネは神坂の腕をぐいぐい引っ張ってタクシーに乗り込み、さっさと車を出させてしまった。ちなみにずっとラ行が巻き舌だ。ああ、怖い。大阪弁は好きでも、ヤカラ口調は好きじゃない。 「えーと?タカミネ?飲むのか?」 「飲まいでかっ」 「?飲むんだな、うん。運転手さん、すみませんが」  タカミネの発する単語はいまいちわからないけれど、神坂はとりあえず、若干困り顔の運転手に、タカミネの自宅方面へ流してもらう。確かわりと近くに、行ったことのあるバーがあったはずだ。定休日でないことを祈りつつ、そこへ向かってもらう。いざとなれば、駅前のチェーンの居酒屋でもいいのだろう。タカミネはさっきから遠慮のない声量で忌憚なく、接待相手を毒づきまくっている。もう、怖いってば。  スーツの内ポケットで携帯電話が振動する。タカミネに適当に相槌を打ちながら取り出せば、コバヤシからの様子伺いのメールだった。タカミネの家の近くのバーに行く、適当に飲ませて愚痴を聞いたら帰すと返信すると、酒が飲めないばっかりにすみませんと返ってきた。コバヤシに非はない。 「タカミネ、コバヤシが心配してる」 「ほんなら私の酒につきあったらええやん」 「酒が飲めないのは体質だ。それをコバヤシは気にしてる」 「……明日謝るけど、今は酒の飲まれへん奴に用はない」 「ああ」  神坂は時間を確認した。もう十時半だ。今日中に家に帰れそうにない。それを佐川に伝えたかったけれど、コバヤシとのメールのやり取りで機嫌を損ねたタカミネが、スマホを触んな!!と言いながら神坂の携帯を没収しようと掴みかかってくる。さっきの席でそれほど飲んだのだろうか? 「ターカーミーネー……さっきの料理、おいしかったな?」 「うん、ボチボチやったね」 「何飲んだ?」 「そら紹興酒やん。私、砂糖入れるん嫌い。知ってる?水割りにしたらおいしいねん」 「へぇー……」 「飲まんかったら「お嬢さんだしねー」とか言うし、飲んだら「ホステスさんみたい」とかほざくし、あのカスども、どないして欲しいねん」 「我慢したよな?そういう感想言うの、我慢できたよな?」 「めっさしたし。室長がびびるほどしたしっ!だから今から飲み直すんやんか!」 「了解、まかせろ。美味しい酒な、よーし、ついたぞー」 「よっしゃぁ!飲むで!!」 「おー……」  紹興酒の水割りとやらを、一体どのくらい飲んだのだろうか?勢いよくタクシーを降りてコケているタカミネを助け起こし、神坂はバーへ向かう。幸い店は開いていて、タカミネはその雰囲気を気に入ったらしく、機嫌よさそうに笑っている。 「史織さん、ほんまいい店知ってるよね」 「うん。いい店しか行かないから」 「そうなんやー……デートとかで、使う?」 「かわいい後輩の接待に使う」 「ナイス!史織さん、超素敵っ!」 「それはどうも」  タカミネは小柄な身体で、重厚なカウンタテーブルにしがみつくようにして高いスツールに座り、頬杖をついて、細い脚をプラプラさせながらバーテンダーに挨拶している。にこやかなバーテンダーは神坂にもおしぼりを渡しながら、お久しぶりですねと笑った。 「えーっと、僕はウィスキー……ロックで。タカミネは?」 「ビールくださーい」 「かしこまりました」  タカミネは相当悪酔いしていたけれど、美味しい酒を飲むのに、愚痴だけではつまらないという事はわかっていた。先ほどまでの怒りの矛先を綺麗に収め、ハセガワの変わりぶりを褒め、自分も頑張るのだと笑っている。そして、コバヤシに悪い事をしたと、少し表情を曇らせた。 「明日謝ればいいだろう。酔った勢いだから、そんなに気にするな」 「んー……」 「相当嫌な思いをしたんだ。別に、同期に八つ当たりしたぐらい、どうってことない」 「史織さんもする?酔って、やんちゃ」 「昔はな。今はそんなに、酔っ払って暴れたりはしない」 「史織さんは、何でもできるもんねー……ええなぁー……顔も、きれいし……」  ポトリポトリと言葉を落としながら、タカミネがカウンタに身体を預け始める。神坂が黙ってグラスを回していたら、隣から寝息が聞こえてきた。もう、苦笑いするしかない。そして、次の瞬間、感心した。 「おお」 「お疲れ様です……寝ました?」 「すごいな、お前。今落ちたとこ」 「はー……涎こいてるし……嫁入り前の娘がなんつー醜態……」  ラフな私服で迎えに来たコバヤシの台詞を、豚やヒキガエルが口にすれば、タカミネはまた火を噴くように怒っただろう。しかし小林の声は、心底タカミネを心配していた。バーテンダーの勧めでタカミネの隣のスツールに座り、ノンアルコールのカクテルを頼んでいる。 「タカミネって、寝るタイプだっけ?」 「普通のテンションの時はそうでもないんですけどね。怒ったり喜んだりしながら飲むと、バッテリが切れるみたいです」 「あっそ……お前、車か?」 「はい。史織さんのですけどね」 「いや、それはいい。助かった。このままタクシーに乗せるにしても、僕一人じゃ抱えられない」 「ですかね?」  神坂とコバヤシのグラスが空き、三人で店を出る。寝ている人間は本当に重いし、グネグネしていて厄介だ。しかも寝ぼけてるのか時々起きるのか、何事か叫びながら抱きついてきたりする。神坂がタカミネに欲情する事はないとはいえ、若い女が、みだりに男に抱きつくものではない。神坂は苦い顔をしながらタカミネを宥め、コバヤシと力を合わせて車の後部座席に転がした。 「はぁ……僕明日、筋肉痛かも……」 「明日こいつ、会社来られるんすかね?」 「知らない。そこまで面倒は見られない」 「ですねー」  バーからそれほど離れていないタカミネの家に彼女を送り、その頃には少し目を覚ましていたタカミネは、打って変わったように神坂とコバヤシに謝り倒しながら部屋へ入っていった。目覚まし掛けろ、鍵を掛けろと何度も言ったけれど、その嘆願が彼女に届いたかどうかは不明だ。 「史織さん、送りますね」 「あー……悪い。遠慮できない」 「あはは、しなくていいっすよ」  神坂の家は、コバヤシの家と逆方向だ。しかしもうすでに終電間近で、乗り継ぎのアクセスも悪くなっている。車の方がよっぽど早い。ごめんな、とため息混じりに神坂が呟けば、子どもの面倒で疲れてるでしょ、とコバヤシが笑う。 「ちょっとは、マシな態度になってきただろう?」 「ですねー。やっぱ史織さんの人柄?人徳?」 「最強らしいからなぁ」 「ハセガワの口に、建設用の接着剤を塗っておきます」  ニカワだな、と笑いながらコバヤシが言う。酒を飲んでいないとはいえ、コバヤシだって疲れていて眠いはずだ。なのにいつも、彼は明るくて人当たりがいい。社内で大人気の甘くて低いいい声は、眠気を誘う。神坂は自分の家への道順を説明する必要もない安心感で、ついウトウトしてしまった。夢うつつの中で、佐川に連絡しなければと何度も考えていたけれど、疲れには勝てなかった。 「……史織さん?着きましたよ……大丈夫?」 「んー……」 「家まで、連れて行きましょうか?トラ君、呼びます?」 「いや……」  神坂はぎゅうっと目を瞑ったり開けたりしながら眠気を払う。コバヤシの手が、自分を軽く揺すったり叩いたりしている。ようやく目が覚めてきて、ふう、と息を吐いて周りを見れば、自分のマンションの目の前だった。 「悪い……運転させといて、寝た」 「いいっすよ。史織さんは寝てても綺麗な顔でした。タカミネに見習わせないと」 「馬鹿、お前、そんなこと言ったらタカミネに寝顔見せてみろって、僕が詰め寄られる」 「あはは!そうかも!!」 「笑い事じゃないだろー」  ハセガワの、二人は付き合ってるんですか?という質問が頭に蘇る。神坂はどっちでもいいと思った。いい後輩だ、二人とも。優しくて面白い。クスクスと神坂が笑っていたら、コバヤシがフロントガラスの向こうに目をやり、首を傾げた。 「……もしかして、あれってトラ君ですか?」 「え?」  神坂がコバヤシの視線を辿った先に、マウンテンバイクを支えて立っている、佐川がいた。  神坂は慌てて車を降りようとして、シートベルトに阻まれる。目は佐川を捉えたまま、手探りでベルトを外そうとするが、うまくいかない。ゴソゴソしていたら、コバヤシが手を伸ばして外してくれた。肩で押すようにしてドアを開け、神坂は小走りに佐川へ近づく。佐川はいつものように無表情で、神坂を見ていた。 「……ごめん。遅くなって。連絡もせずに」 「いえ。おかえりなさい」 「ただいま……バイトだった?トラも今帰ってきたとこ?」  佐川が眼鏡のブリッジを押し上げて何か言おうとしたとき、コバヤシがおーいと声をかけながら二人に寄ってくる。手には、神坂の鞄があった。 「史織さん、鞄忘れるって慌てすぎ。寝ぼけてますか?」 「え?あ。ごめん」 「はい、どうぞ」  コバヤシが差し出した神坂の鞄を、横から手を伸ばした佐川が掴む。無表情に静かな声で、俺が貰います、と言いながら。コバヤシは人当たりのいい笑顔で佐川を見て、空になった手を差し出す。 「どうも、コバヤシです。トラ君、会えてうれし……」 「佐川です」 「…………佐川、トラオ君?とか?」 「佐川基です」 「そうなんだーごめんごめん。佐川君、すーっごい身体してるねー何かスポーツやってるの?」 「いえ」 「……あ、そう……」  マウンテンバイクを片手で支え、もうひとつの手に神坂の鞄を提げる佐川は、コバヤシの差し出した手を握るつもりはない。コバヤシは宙ぶらりんの手はひらひらさせながら、佐川をにこにこと観察した。聞きしに勝る、無表情。コバヤシは面白くて、佐川にちょっかいをかけたくてたまらない。しかし当然、神坂が黙っているはずがない。 「コバヤシ、送ってくれてありがとう。もう帰れ」 「わーお。史織さん、冷たい」 「もう遅いし、明日昼飯でも奢るから、帰れ」 「えー」 「なんだよ。こんな時間に、お茶でも出せって?さっさと帰って寝ろよ」 「はーい。じゃあ、部屋でお茶出してもらうのは、また今度で」 「おやすみ。気をつけて帰れよ」 「おやすみなさい。佐川君も……」  コバヤシはふと思いついたように二人を眺めて、にっこりと笑った。 「これって、あれじゃない?前門のトラ、後門の送り狼」  ねえ?とコバヤシは佐川に同意を求めて、神坂の頭越しに視線をやる。佐川は何も答えず、黙ってその視線を真正面から受け止めた。神坂はそんな二人の雰囲気の悪さに気づかずに、コートのポケットに手を突っ込んで、コバヤシにふざけてないでさっさと帰れと繰り返す。 「はいはい。じゃあね、史織さん。明日遅刻しないでくださいね。ああ……身体、痛いかもだけど、すみません」  コバヤシは神坂に顔を寄せてそう言うと、意味深長な笑顔でもう一度佐川を見て、帰っていった。  車が角を曲がり、見えなくなって、神坂はようやく佐川を見上げた。佐川は神坂のほうを見ないままに、帰りましょうと言ってマンションのエントランスに入っていく。 「あ……ごめん、本当に。ちょっと、メールとかできるタイミングがなくて」 「……今の車に乗ってるときは?」 「え?あ……悪い、寝ちゃって」 「……」  佐川は自分のバッグから鍵を取り出し、部屋のドアを開けると、神坂よりも先に入って、神坂よりも先に家に上がった。神坂は、その背中を追うしかない。  佐川は神坂の鞄をリビングのソファに載せると、おやすみなさいと言って自室に引き取ろうとした。さすがにそれを、神坂が止める。 「あの、トラもバイトだった?カレンダーには書いてなかったけど」 「いいえ。今日は休みでした」 「そう、か。えっと……じゃあ、飲みに行ってた?今帰ってきたんだよな?」 「まさか」  佐川と目が合わない。神坂の視線を避けるように眼鏡に手をやり、はぐらかして離れようとする。神坂はどうしていいかわからずに焦っていた。ただ、このまま離れるのは駄目だと感じていた。 「無事に、帰ってきてくれたのでそれでいいです。明日も仕事でしょう。寝ましょう」 「うん……心配かけて、ごめん。でも、ちょっとだけ話したい。駄目か?」 「何の話ですか?」 「え……何のって……」  何でもない話がしたい。自分と離れている間に、佐川が何をして、何を食べて、どんな事を考えたのかを聞きたい。他愛ない、日常が知りたい。一緒にコーヒーを飲む、たった十分でいいのに。神坂は佐川に上手く説明できなくて、口を噤んだ。  佐川は、いつもより離れた位置に立っている。そして、神坂は佐川の不穏な雰囲気を感じていた。 「メールもできないほど、忙しかったんでしょう。寝たほうがいい。どうせ、たいした話じゃないでしょう、俺にする話なんか」 「……なんだよ、その言い方」 「俺は仕事の話なんか、聞いてもわかりませんよ。コバヤシさんにしたら?」 「仕事の話じゃねぇよ!」  神坂が佐川に一歩詰め寄る。しかし佐川は、表情ひとつ変えない。神坂は混乱していた。佐川はもしかして、すごく怒っているのだろうか?ツケツケとした口調は、ひどく冷たくて、佐川を遠くに感じる。実際彼は遠くて、神坂は立っていられないほど不安になる。なのに佐川は、さらに神坂を遠ざけようとする。 「一番大事な仕事の話じゃないなら、ますますいつでもいいでしょう。寝てください」 「仕事が一番だって勝手に決めんな!」 「いっつも優先してるでしょ!?」 「当たり前だ!仕事なんだよ!僕の本業だ!でもだからって一番なわけじゃない!」 「そんなこと、俺にはわかりませんよ!」  初めて聞いた佐川の大声に、神坂はびっくりして身体を強張らせる。怒ってる?と聞くのが間抜けなほど、明らかに佐川は怒って、苛立っていた。そして次の瞬間、神坂のネクタイを掴んで、自分の方へ引いた。何をされるのかと恐ろしくなって、神坂は抵抗しようとしたけれど、力で佐川に勝てるはずがない。引きずられるように、顔が近づき、眼鏡越しに目を覗きこまれる。 「仕事、ですか」 「……そうだ。カレンダーに、書いただろ」 「接待でしょう?」 「接待も仕事だ」 「これは何?女の化粧、ベッタリつけて。それも仕事?」 「え……」  佐川が神坂のネクタイをそっと放した。自由になっても、動悸が治まらない。女の化粧って何だ?え?ああ、そうか、タカミネが。神坂は自分ではそんな汚れは確認できないけれど、散々タカミネに抱きつかれたから、化粧が移ってもおかしくはない。 「これは、……接待でちょっと色々あって、タカミネの飲みなおしに付き合ってたら潰れたから」 「それも仕事ですか」 「そうじゃない。だけど、仕事で嫌な思いをした後輩を、放り出したりできない」 「タカミネさんも車に乗ってました?」 「タカミネは先に送り届けて、コバヤシは僕を」 「コバヤシさん、私服でしたよね。なんで?仕事じゃないじゃん。家にでも遊びに行きました?一晩で二人と遊ぶって凄すぎません?」 「ものには言いようってもんがあるだろう!僕が仕事だって言ったら仕事なんだ!それをお前は」 「もういいよ!俺がこれだけ苦しいのに、仕事仕事って、仕事するのがそんなに偉いんですか!?仕事だって言われたら、誰とどこで何してても、何時に帰ってきても、連絡がなくても、俺は待ってなきゃいけないんですか!」  神坂は佐川の言葉で刺されたように、動けなくなった。自分がそんなに佐川を苦しめていたなんて思いもしなかった。そんなつもりはなかった。仕事だという台詞が、何かを誤魔化す口実だったことは一度もない。それが真実なのに、神坂はどう話せばいいのか、まったくわからなかった。自分の声は、佐川に届かないと感じて、言葉をなくして立ち竦む。  佐川はしばらく俯いていたけれど、突然、静寂を破るかのように踵を返し、神坂の鞄の隣に置いていた自分のバッグを手に取る。神坂はそれを信じられないような気持ちで凝視していた。まさか、出て行くのか。 「…………すみません。こんだけ食わしてもらっといて、俺、何言ってんでしょうね」 「……」 「すみません」  それは、出て行くことを詫びたのか、気持ちを吐き出したことを詫びたのか、神坂にはわからなかった。ただ、佐川が出て行くことだけはわかった。そして、引き止める言葉が出ない自分を呪った。佐川はそれ以上何も言わずに、長い脚で大股でリビングを横切り、神坂の家を出て行った。

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