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第23話
佐川はジャケットのポケットに両手を突っ込んで、フラフラしていた。幹線道路の脇を歩いているのに、何もかもが静かに感じる。眩しいはずのライトさえ気にならない。
何も、考えたくなかった。頭の中は後悔と自分への憤りでいっぱいで、何度も何度も、神坂の顔が浮かぶ。驚いたような傷ついたような顔に、自分がさせたのだと思えば、絶望的な気分だった。
とっくに終電はなくなっていて、神坂の家から離れようと思えば、ひたすら歩くしかない。自転車に乗ることも思いつかずに家を飛び出したので、結局そう遠くへは行けず、大学の近くのファミリーレストランへ入店したとき、佐川は自分の行動範囲の狭さに嫌気が差した。
それをきっかけに、自分がいかに取るに足らない平凡な大学生で、面白い遊びも気の聞いた台詞も知らない、ただのガキなのかと思い、ひどく落ち込む。拗ねて飛び出して、行き着く先が学校の近くのファミレスって、中学生レベルだ。暗い声でコーヒーを注文すれば、ドリンクバーですねーと明るく返される。普通に落ち着いてコーヒーが飲みたいのに、自分が選んだ店ではその程度のことも叶わない。
佐川がフロアの端にあるドリンクバーの設置エリアに行くと、中学生だか高校生だかわからないような若い子がたくさんいた。たまり場なのだろうか。自分はこいつらと同じだと思えば、情けなくて涙も出ない。
腕にはめた時計で、時間を確認すれば二時過ぎだった。眠気は感じない。ぼんやりと、これからどうしようかと考えていた。携帯電話は鳴らない。電波が悪いのかと疑って、何度起動しても、何のメッセージも受信しない。
「さすがにさぁ……呆れたよな……」
深夜にも関わらず、明るく騒がしい店の隅で、佐川は独り言を呟いた。
絶対に我慢しようと思っていた。|神坂《社会人》には|神坂《社会人》の苦労があって、|自分《ガキ》にそれはわからない。だからこそ、疑わず、腐らず、彼の時間が空くのを待とうと思っていた。
今日だって、今と同じように鳴らない携帯を睨みながら、電話をかけたいという気持ちをねじ伏せて、じっと待っていた。終電の時間になって、駅まで迎えにいった。JRと地下鉄の乗り入れ駅なので、両方の終電が終わるまで待っていたけれど、神坂は出てこなかった。
何かあったのだろうかという危惧がグルグルと頭を回る。あたりの様子を窺いながらマンションに着けば、神坂は知らない男と車に乗っていた。
楽しそうに笑う神坂と、彼に至近距離で話しかける男を見ていたら、自分への戒めが一瞬で弾けた。それでも、コバヤシへの対抗心で、何とか平静を装ったけれど、限界を突破するのは早かった。
どうしたら、許してくれるだろうか。あんな繊細な人を傷つけた。大きな声で怒鳴りつけた。もう佐川を嫌いになったかもしれない。話をしようと言ってくれていたのに、捻くれて、それに応じられなかった。謝る言葉なんか、みつからない。神坂は泣いたかもしれない。自分のこころない言葉で、態度で、彼は今頃、自分の部屋で膝を抱えているのだろうか。
どうしてこんなことになってしまうんだろう。今までの彼女に、こんな風に感情的になったことはない。だから、こんな風に喧嘩をした経験もない。神坂だけなのだ。それなのに、どうして大事にできないのか。
佐川は辛くて苦しくて、コーヒーなど一口も飲めなかった。まんじりともせずファミレスの雑踏に紛れ、時間だけがただ過ぎていく。何をすべきなのか、佐川はまったくわからなかった。
夜明けには遠く、外には漆黒の闇が広がり、その力を借りて窓が自分を映している。無様だな、と佐川は思った。そして、ふいに涙が滲む。泣く資格なんかないのはわかっていたけれど、神坂を傷つけて泣かせたかもしれないことが、辛くて悲しくてやりきれない。謝りたいけど、どうしたらいいかわからない。彼と離れなくてはいけないかもしれないのが、怖い。失うことが耐えられない。どうしよう。どうしたらいいんだろう。
佐川はただひたすら後悔して、怖気づいて、そこに佇む以外できなかった。神坂に逢いたい。想いが強すぎて、幻さえ見える。
佐川がぼんやりと眺めていた窓に、映る姿は本物の神坂だった。
じっと窓越しにみつめ、やがて佐川は緩慢な動きで首を巡らせ、テーブルの傍に立つ神坂の方を向いた。
綺麗な顔は、綺麗なままだった。泣いた跡さえない。コートのポケットに両手を突っ込み、長い睫の大きな目で、佐川を見ている。
「僕が悪かった」
敵わない、と佐川は思った。自分はオロオロしながら泣きべそをかくことしかできなかった。なのに神坂は、迎えに来てくれて、非を認めたのだ。不機嫌そうな低い声は、佐川の大好きな声だ。恋している、と改めて思った。
「帰るぞ」
神坂はテーブルの上の伝票に手を伸ばしかけ、フンと鼻を鳴らすと、くるりと背を向けて店の出口へ歩き出した。佐川はその薄い背中をじっと見つめ、彼が出て行って、見えなくなったところで立ち上がった。佐川にだって意地も自尊心もある。迎えに来てもらったからといって、そそくさとその背中を追いかけるのは気恥ずかしい。
会計を済ませて外に出たら、神坂が街灯の下に立っていた。佐川を見ると、一瞬ホッとしたように表情を緩めて、すぐさまプイッと顔を背けて歩き出す。さすがに佐川もその隣に追いついて、同じ速度で歩き出す。神坂は佐川のほうを見ずに、低い声で話し出す。
「お前を食わせているつもりなんかない。そんな風に考えるな」
「……」
「毎日僕に飯を食わせているのはお前のほうだ。まともに生活できるのも、お前のおかげだ」
「……」
「だから、今度のことは僕が悪かった」
神坂は大人だ。普段非常識だったり突拍子もないことをしたりするけれど、もう何年も社会で働いている人間だ。理不尽でも納得いかなくても、引くということを知っている。相手の状況を慮って、歩み寄ることができる。自分よりも人生経験の浅い人間が、必死に無理をする事でストレスを溜めたら、それを解消してやりたいと思う程度には優しい。
しかし今夜は、そういう理性ではない。普段面倒を見ている後輩たちに対する気持ちとはまるで違う。ただひたすら、自分の何かが佐川を追い詰めたらしいことを後悔していた。何度も、佐川は我慢しているのかもしれないと感じていたのに、佐川の優しさに甘えたのだ。見栄も意地もない。彼が聞いてくれるのなら、謝りたい。その一心でここまで来た。傷つけたのなら、やり直せないだろうか、と。
ずっと黙り込んでいた佐川は、おもむろに口を開く。
「……そうですよ。浮気でしょう」
「違うだろう、馬鹿か」
「女と二人で飲みに行って、ベッタリ化粧つけられて。送り狼と二人で車に乗ってあんな時間に帰ってきて。浮気でしょう。浮気です」
「……知らない。世間の常識でそういう判定を食らうなら、そこも謝る」
「本当に悪いと思ってますか?」
「思ってるから迎えに来たんだろう」
「こんな夜中にウロウロしないでください。危ないでしょう」
「僕は男だ。夜中に歩き回るくらいで危険な目に遭ってたまるか。第一、お前が出て行かなければウロウロせずに済んだんだ」
「出て行ったんじゃないです。頭冷やしてただけです」
「あんな暖かい店で、冷えるわけないだろう」
「もう……本当に悪いと思ってます?」
悪いのは自分だ、と佐川には自覚があった。だからこそ、ずっとさんざん後悔して、できるものなら許しを請いたいと、だけどどうすればいいのかと、頭を抱えて蹲っていた。
神坂が浮気なんて姑息なことをするはずもなくて、男も女も関係なく、面倒見がいいから後輩と一緒にいただけ。それがたまたま遅い時間だっただけ。そのうちの一人が、佐川をからかっただけ。神坂は、出会った頃から、ずっと佐川に優しい。
わかっていたけど、神坂の包容力に甘えた。神坂はそんな佐川を許してくれた。きっとこの甘え方は、コバヤシさんもタカミネさんも知らないだろう。そう思って開き直れば、丸まっていた背筋が伸びる思いだった。
「思ってる。だから、休みを取る。いつがいい?」
「本当ですか?」
「ああ。いつでもいい」
「じゃあ、明日」
「わかった」
「え。嘘です。冗談です」
「こんな時間によく冗談が思いつくな」
「史織くん」
「疲れた。タクシー乗る」
佐川が拗ねていじけていたのは、大学の近い二十四時間営業のファミリーレストランだ。ちょっとした繁華街になっている自宅の最寄り駅から離れれば、夜中に行けるところは少ないし、佐川のテリトリも狭い。小さな駅前でも今どきカラオケやバーもどきはあるけれど、そういうところに行く気にはなれなかった。どうしたって煙草の臭いがつくからだ。最近のファミレスは物理的に完璧な分煙が実施されているところが多い。
佐川が夜中や明け方に時間をつぶす場所といえばここぐらいのものだけれど、神坂がそんなことを知っているとは思えない。佐川を探して、深夜営業の飲食店を回ってくれたのだろうか?だとしたら、申し訳なくて、……嬉しい。
自転車なら二十分ほどの距離だけれど、歩くのは遠い。佐川も考え事をしながら歩いたとはいえ、愛車を置いてきたのを後悔していた。神坂はきっともっとあちこち歩いていて、疲れているに違いない。国道で流しのタクシーを捕まえて、近くて悪いけどと自宅まで運んでもらう。
「はん。学生は気楽でいいな。僕は明日も仕事だ」
「すみません」
「もう寝る」
神坂は家に着くと、コートを脱ぎながらポッフンポッフンと足を引きずってバスルームへ向かう。相当眠いらしい。当たり前だろう。今はもう四時を回る。佐川は鍵を掛け、スニーカーを脱ぎながら、風呂入るんですかと声をかける。神坂は背中越しにひらりと手を振った。
「一日くらい入らなくても死なない。着替えて寝る」
「じゃあ、俺もそうします」
「勝手にしろ」
「史織くん、今日のこと、悪かったと思ってます?」
「あぁ?しつこいな……思ってるって……」
神坂の声は眠そうだ。佐川は彼の後ろを追い、一緒にバスルームまでついていった。神坂はあくびをしながらジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めたところで、脱衣所のドアを開けたままそこに立っている佐川を睨む。
「覗いてんじゃねぇよ」
「手伝いましょうか」
「間に合ってる」
「じゃ、一緒に寝ましょう」
「…………は?」
普段なら、神坂は小さな顔を真っ赤にして、馬鹿じゃないの!?と吐き捨てただろう。しかし多少のアルコールと襲い掛かる眠気に、朦朧としているからか反応が鈍い。第一、仕事の後の接待だって、決してのん気な時間ではなかったのだから、いつも以上に疲れている。
佐川はそんな神坂を尻目にポイポイと服を脱ぎ始めた。神坂はさすがにぎょっとして、佐川から顔を背ける。佐川はそれを気にも留めず、脱いだ衣類を洗濯機に放り込み、俺の部屋で一緒に寝ましょうと言って、素っ裸で脱衣所を出て行く。そこに置いてある下着や寝巻きは神坂のもので、佐川のものは自分の部屋に置いてあるからだ。去っていく佐川を見ずに、神坂が低い声で訴える。
「……僕は自分の部屋で寝るぞ。眠いんだ。邪魔するな」
「大丈夫ですよ。俺の部屋で寝ましょう」
「何、言ってんだ……は、眠ぃ……」
佐川は真っ裸にスリッパという間抜けな姿で廊下を歩き、自分の部屋でパジャマと下着を身につける。神坂が部屋の前をパスしないように、ドアのところで彼を待ち構え、スーツを抱えてしれっと通り過ぎようとした神坂を、自室へ連れ込む。照れる元気もない神坂は、うんざりしたように放せバカトラと呻いた。
「スーツ、貸してください。掛けとかないとシワになりますね」
「正解だ。僕の部屋に片付けてくる」
「ハンガーくらいありますよ。もう寝ましょう」
「や……ばか、お前……」
「何もしません。一緒にいてください」
「…………」
何もしないというのは、一応本気だ。自業自得とはいえ、佐川だって強烈に眠い。かわいい神坂をぐっちゃぐちゃにしてしまいたいけど、若いがゆえに眠気には勝てない。とにかく今夜は……もうほとんど朝だけど、神坂を傍から離したくなかった。そして、神坂も同じような気分になっていて、佐川以上に眠かった。
がっしりと抱きしめられて、そのままベッドに倒れこまれれば、抜け出すどころかまったく動けない。神坂が、こんな状態で寝られるかボケと毒づけば、太い腕が緩み、布団が掛け直されて、頭を抱き寄せられて髪にキスされる。
「重いですか?」
「……も、いい。寝る」
「はい。おやすみなさい、史織くん」
佐川の太い腕はものすごく重い。腕枕をするには硬くて高い。それを気にしているのか、身体の上から巻きついていた腕は退けられ、頭を抱え込んでいた腕は、二人の間に移動して、神坂の身体を自分のほうへ引き寄せたきり、動かなくなった。体側をぴたりと寄せて、それでもそれ以上は何もしない。
神坂はといえば、寝心地のいいベッドであっという間に眠りの中に引きずり込まれ、好きな人と一緒に寝ているんだという感慨を持つ間もなく、佐川の身体の変化に気づく暇もなく、爆睡モードに突入した。
「あーくそ!遅刻する!!」
翌朝、佐川が最初に聞いたのはその一言だった。眠い目をこじ開けて、壁の時計を確認すれば午前七時。神坂が出かける時間だ。今起きたのだとすれば、確かにマズイ。しかし、佐川は笑いが止まらなかった。彼を振り回しているのが、嬉しかったからだ。神坂にしてみれば迷惑千万だろうけれど、こんなことはコバヤシさんもタカミネさんもできないだろう。そう考えれば、昨日あんなに苦しかった嫉妬心が消えていく。自分は、ちゃんと神坂の近くにいるのだというしあわせを感じられる。
「笑ってんじゃねぇよ!全部お前のせいだからな!帰ったら覚悟しとけ!」
自分の部屋で大慌てで着替えた神坂は、廊下を走りがてら佐川の部屋を覗き、のんきにヘラヘラ笑っている気楽な大学生を発見して、口から火を噴きそうに怒っている。佐川はまだ彼のぬくもりの残る布団を腕に抱いて、ますます笑う。
「今日は、早く帰ってきますか?」
「うっさい!お前だってバイトだろうが!」
「今日は夕べみたいに手加減しませんよ」
「はぁ!?お前が一体いつ、手加減したんだ!」
神坂は吠え、盛大に舌打ちをして廊下を走って行こうとして、足を止めた。腕を組み、仁王立ちで、戸口からベッドに寝そべる佐川を睨み付ける。
「おい、基」
「……!?」
「お前、ガキのくせに手加減とか本当にしてんのか?ガラにもないことすんな」
「や、でも」
「手加減しながら、うまくやれると思うな。そんなもの、すぐにわけがわからなくなる」
「……」
「僕に遠慮しなくていい。僕は……僕に、期待するな。言いたいことを我慢しても、僕はそれを汲んでやれない。ちゃんと、言いたいだけ言え」
「……史織くん、俺は史織くんが好きです」
「わかってる。僕もお前が好きだ。お前が引くと、成り立たない。僕には何もできない。わかったな」
「はい」
「遅刻だ……絶対遅刻する……全部トラ吉のせいだ」
神坂は諦めたように髪をかき混ぜ、大きなため息をついて、トボトボと佐川の部屋から出ていった。……と思ったら、数歩戻って、仰け反りぎみに顔だけを覗かせ、ちゅっと投げキスをくれた。
普段余り顔色を変えない佐川が、ぱっと真っ赤になる。それを見て、神坂は満足げに笑って出勤して行った。
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