24 / 40

第24話

 神坂は遅刻は何とか免れたものの、息を切らして研究室に駆け込むという体たらくだった。何故か、タカミネは涼しい顔で「おはようございまーす」とか言っていた。何故だ。  神坂は室長への朝の挨拶もそこそこに、ハセガワの元へ駆け寄った。 「ごめんっ!ハセガワごめん!!」 「や、全然……」 「本当にごめん!一人にしてごめんな!?ごめーん……」 「も、マジで。大丈夫なんで、気にしないでください」 「うー」  神坂はハセガワの手を握らんばかりの勢いで、謝り倒した。頬を赤らめて、息を切らして、かわいい顔でこれだけ謝られたら、ふざけるなとは言いにくいだろう。神坂にあざといような気持ちはまったくないのだけれど、された側にしてみれば、顔がにやけるのを隠しながら問題ないと言うしかない。  古参の研究員はその様子を見て、傍にいたコバヤシと小さく笑いあった。 「はい、一丁上がり、だ」 「はーやっぱり史織さん最強かぁ」 「そりゃそうだ。俺らが大事に育てたんだからな」  ハセガワに気がすむまで謝りつくした神坂は、タカミネに禁酒令を通達している。タカミネは聞こえないふりをしてシカトを決め込んでいる。 「おはようございまーす」 「あ、コバヤシ、おはよう。昨日ありがとうな」 「いえいえ。トラ川君、怒ってませんでした?」 「え?……うーん……」 「ひどいこと、されませんでした?」 「トラが僕に、手をあげたりはしない。そもそも、連絡が行き届かなかったぐらいで殴られてたまるか」 「そーですかー……あげなくていいんですけどね、出せば」 「何?聞こえない」 「何でもないです」  神坂はバタバタと仕事を始め、寝不足からくる妙なテンションで業務に勤しんだ。ハセガワは相変わらず使い物にならないけれど、ファイルから手を離したタカミネを逃さず、すかさず質問するスキルだけは身につけ、他のメンバーに対しても、謙るという態度を覚えたようだ。お礼も言えるし謝ることもできる。レベルとしては幼稚園のしつけ段階だけれど、本人が前向きであればいずれ育つだろう。  常に手足がぬくいような気分で、実際ぬくいのだけれど、神坂は何とか仕事を終え、フラフラしながら帰宅した。ハセガワの早出に付き合えなかった分、残業したので十時を回っていた。佐川は当然いない。しかし、それを寂しいとか、帰りを待っていようかなどと考える余裕はなかった。朦朧としながら風呂に入り、ベッドに直行してばたんきゅーで爆睡開始。食事もしなかったけれど、睡眠欲は食欲よりも上位にあるらしい。自分のベッドでものすごくしあわせな眠りをむさぼる神坂は、帰ってきた佐川が勝手にそこに潜り込んだことにも気づかなかった。  うまくいかないときは何もかもうまくいかない。逆もまた然り、だ。  翌朝、たっぷりの睡眠と違和感で、神坂は目覚ましが鳴るよりも先に目が覚めた。いつも行儀よく、ベッドのど真ん中で大の字で寝ているはずの自分が、なぜか端っこにいる。落ちないように支えている太い腕を見て、背後の山みたいな存在に気づく。キャーッと騒ぐよりも先に、ため息が漏れた。 「はぁ……お前、馬鹿だろう。勝手に入ってんじゃねぇよ!」  神坂は照れと怒りに任せて、佐川を蹴り落とした。神坂のベッドは高さがある。腰掛ければ、足先が床に届く程度だ。そんなところから佐川は転がり落ち、大きな音を立てていた。 「ひどい……痛い……」 「何これ!?夜這い!?お前の頭ん中はどうなってんだ!」 「史織くん、いいって言いましたもん」 「意識のない僕から言質を取るな!」 「だって、いいこと言おうと思ったのに、史織くんが寝てるから」 「僕のせいかよ!?前の晩の睡眠時間知ってるだろうが!」 「だから起こさなかったんですよ」  佐川はようやく床から起き上がり、よいしょとベッドに登ってくる。神坂はそれを再び蹴り落としながら、自分の寝癖や寝巻きのことが気になった。やばい。ボサボサだ。ヒラヒラだっ。慌てて布団を自分のほうへ引き寄せて、頭から被る。佐川はベッドに上がることを諦め、目覚まし時計で時刻を確認している。 「今何時ですか……?ああ……超早起き……」 「お前は自分の部屋で寝てろよ!」 「もういいでしょ?いつもの時間まで、もう少し寝ませんか」 「何がいいんだ。今週はずっと早出だ。もう起きるから出てけ」 「……俺を避けてるんじゃなくて?」 「どうやったらそういう結論になるんだ?どけ」 「ってか、寒いんですか?布団被って」 「いーからお前がさっさと部屋を出ろ!」  神坂は佐川を自室から追い出し、布団を被ったせいでますますボサボサになった髪に手をやりながら、息を吐く。ものすごく寝た気がする。それは佐川のおかげなんだろうか?その……一緒に寝たから、とか。それを考え始めると、さすがに頬が熱くなる。二日連続で同衾など、普通ではない。だって付き合い始めてまだ……何日目だっけ?神坂は寝起きでうまく頭が動かない。  ベッドから降りて、着替えを済ませ、洗面所で身づくろいをしてからキッチンを覗く。佐川がコーヒーメーカをセットしている最中だった。 「……おはよ」 「おはようございます。コーヒーだけでいいですか?何か食べます?」 「……ありがと。コーヒーだけでいい」 「はい」  佐川は寝る気がないようだ。神坂は食欲がない。佐川は淹れたコーヒーをそれぞれのマグに注いでくれて、神坂を促してキッチンにある小さめのカウンタテーブルに落ち着く。そこに、封筒が置いてあった。 「?何これ?」 「バイトの給料です。受け取ってください」 「まだ言ってるのか。要らない」  佐川はタカミネのように聞こえないふりをして、ふーっとコーヒーを冷ましている。最近の年下連中はなんて都合のいい耳を持ってるんだろうと、神坂は感心した。熱いコーヒーを口にしながら、ぼんやりと佐川の横顔を見る。佐川はあくびをかみ殺している。二度寝をすればいいのに、と神坂は思った。 「……えっと?なんだっけ?いいことがあるって言ってなかったか?」 「あ。そうです。俺、明日の土曜日のバイト、休みになりました」 「……あっそ」 「今日も、多分史織くんより早く帰れます」 「……ふぅん」 「史織くん、休日出勤しなくなったって言ってましたよね?」 「……かな」 「出かけましょう、一緒に。デートしましょう」 「…………うん」  神坂が頷いてくれて、佐川はものすごく嬉しかった。かわいい顔に似合わずダイナミックな寝相の神坂と、二日連続で無理やり勝手に一緒に寝た甲斐があるというものだ。神坂は再び封筒に視線を落とし、それを細い指で摘みあげ、小首を傾げて佐川に差し出しながら言う。 「ちょうどいい。これを使え」 「え。いや、でもそれは」 「せっかくの初デートなんだ。おいしい飯がいい」 「……スペイン料理とか?」 「え?あ、そうだ。スペイン料理、好き?ここおいしかったから、行く?」  神坂はそう言いながら、財布の中からショップカードを一枚抜き出して、テーブルに滑らせる。佐川はそれをじっと見て、苦笑いで首を振った。なんて気負いなく話してくれるんだろうと、自分の嫉妬は何だったのだと、佐川は苦しかった日々が馬鹿馬鹿しいように思えた。そして、神坂への愛しさが募る。 「嫌か?でもなんか、ネットでも評判だって。夜はバールになるんだぞ。僕が行ったのはランチだけど」 「もっといい店、探しておきます。昼も夜も、おいしい飯食べましょう」 「うん。釣りはとっとけ」 「あはは。かっけー」  早く起きたので、妙に時間が余った。神坂が飲み終えたマグをシンクに置き、洗おうとしたら佐川に止められる。自分がやると、神坂を退かせ、さっさとでかい手でポップなスポンジを握る。 「そのぐらいできるし、どっちがやったっていいだろう」 「駄目でしょう。荒れた手で、かわいい服とか」 「……ヒラヒラ、嫌い?」 「へ?全然。よく似合ってますよ?」 「スカートとか……おかしい?」 「史織くんは何を着ても似合います。スーツもかっこいいですけど、女の子の格好もよく似合うし、どれも変じゃないですよ」 「うん……」 「どうして?俺、何か言いましたっけ?」 「……別に」  神坂は、今さらながらに自分の思い込みを恥ずかしく思った。ものすごく恥ずかしいけど、そのうち佐川に話そう。佐川ならきっと、スウェットも似合うと言ってくれるだろう。なんと言っても、お揃いなのだ。  神坂は手持ち無沙汰で腕を組み、シンクの横に置いてある冷蔵庫に、片方の肩でもたれながら佐川を見ていた。正面から見てもハンサムだけど、神坂は彼の横顔が好きだ。鼻が高くて、眼鏡のフレームがあまり邪魔にならない。  眼鏡というアイテムは、否応なしに「見られている」という意識を強くさせる。だから好きだ。完全に神坂の趣味だ。しかし二晩連続で一緒に寝起きしてしまい、見慣れない佐川の眼鏡をしていない顔を何度も目にして、神坂は素顔のほうが好きになっていた。  佐川は二つのマグを洗うには多すぎる泡を、バシャバシャと洗い流していた。 「あー……っと。またか」  結構な量の水が、佐川の腹あたりを濡らす。そもそも佐川は、家事が得意なわけではないはずだ。神坂の知らないところで、こうやって苦戦しながら色々こなしてくれているのだろう。こころが、あたたかくなっていく。佐川を見ているだけで、ぽーっとする。 「……トラは?手、荒れてんの?」 「元々、手はバイトでガサガサですしね。今さらです」 「……明日、ハンドクリーム買う?」 「塗ったほうがいいんですかね?史織くんが選んでくれます?」 「うん。エプロンも買う?」 「ヒラヒラの?」 「ヒラヒラでもいいけど。サイズがなさそう。お前は似合わなさそう。もっと、カッコイイのがいい」 「それも選んでくれますか?」 「うん」  マグを二つ、水切りカゴに伏せて、佐川はタオルで手を拭きながら、神坂のほうを見る。本来佐川は、不の感情とは縁のない男だ。穏やかで優しい。それは表情には出ないけれど、彼を包む雰囲気に滲む。神坂は、自分が佐川に惹かれるのは、そういうところだと思う。 「車、要るか?」 「要りません」 「あっそ」  車は本当に便利だし、恋愛アイテム的にも重要度が高い。なんといっても動く密室だ。誰かに会話を聞かれる心配もなく、ゆっくり話ができる。場所を選べば、誰の目にも留まらずに、接近もできる。ドライブだけで降車しないのなら、神坂が好きな格好をしていたってかまわない。しかししばらくはコバヤシに会いたくない。佐川は、コバヤシが普段運転している車だと思えば、なんとなく初デートにだけは使いたくないと思った。それが神坂の所有物であっても、だ。  神坂がぼんやりと佐川を見上げていると、佐川は神坂に向かい合うようにして、冷蔵庫にトンと手をついた。冷蔵庫の幅分の二人の距離。その距離で佐川にじっと見つめられて、神坂は、キスされるのかな、と考えた。そして、して欲しいな、と思った。そう思ったら、自然と瞼がおりていく。目を閉じたところで、唇にふかふかのあたたかさが押し付けられた。  時間にすれば僅かに数秒だった。神坂にとっての初めてのキスは、ひどく穏やかで、優しいものになった。重なっていた唇が離れると、寂しくて目を開ける。すぐ傍に佐川の顔が合って、目が合うと彼が少し笑った。 「また、腕組んでますよ」 「ああ―――……」  二の腕の辺りを撫でられて、促されるように腕組みを解く。その間もずっと、神坂は佐川の目を見ていた。佐川の手が、神坂の手をひとつ、捉まえる。  あ。本当にカサカサしてる。  今まで手に触れた事は何度もあったのに、神坂は気が動転してばかりでそんなことに気づかなかった。今朝はなんだか、ドキドキしているけど、恥ずかしくない。佐川が優しいからかもしれない。いや、佐川はいつも優しい。神坂は迅速に、よくわかんない、と結論付けた。そしてまた、目を伏せれば、佐川がキスしてくれる。 「もう、いく」 「……この状況で、その台詞とか、俺はもうどうしていいかわかりません」 「ごめん。でも、仕事に遅れるわけにはいかない」 「いや、そっちの意味じゃなくて」 「なに?」 「…………早く帰ってきてくださいね?」 「うん。もう一回してくれたら」  神坂が佐川にキスを要求し、佐川はそれに応える。  神坂を仕事に送り出した後、佐川の頭の中では神坂の「もう、いく」が、「らめぇえ!もう、いっちゃうう!!」に変換され、あっという間に股間を直撃し、早朝から大量のティッシュを消費する破目になった。  真面目に勤めて、神坂が駅に着くと、いつもの場所に佐川がいた。ほんの少し、神坂もそうであって欲しいと期待していて、だから余計に嬉しかった。二人並んでのんびりと家に帰る。一緒に冷蔵庫の中のもので食事を済ませると、神坂がしきりに佐川に風呂に入れと勧める。佐川が史織くんが先にどうぞと言っても、頑として聞き入れない。 「どうしたんです?一緒に入ります?」 「先に入れ。その間に、僕はちょっと……やる事がある」 「そうですか……」 「さっさとしろ。後がつっかえてんだよ」 「はい」  不思議に思いながらも佐川は先にシャワーを浴び、出てきても神坂はリビングにいた。空きましたよ、と声を掛けると、あっそ、と佐川が取り込んでまだ畳んでいなかったタオルを数枚抱えて持って、ソファから立ち上がる。 「タオル、まだありましたけど?」 「いいの!僕が片付けとくっ」 「畳みましょうか?」 「いいの!行ってくるっ」 「はぁ……いってらっしゃい……」  神坂は明らかに挙動不審だったけれど、佐川は髪を拭きつつ、彼を見送った。  そのままリビングで洗濯物を畳みつつ寛ぎながら神坂を待っていたら、廊下をポフポフと早足で歩く音が聞こえた。ほんの数日前であれば、避けられただろうかと慄いていたけれど、どうやら神坂は、自室で髪を整えているようだ。綺麗に乾かした髪にきちんと櫛を通して、ピンで留めたりヘアバンドを巻いたりしてからリビングに来る。佐川にはよくわからないけれど、いつもかわいいので嬉しい。テレビを消したところで、神坂がリビングに入ってきた。佐川は思わずリモコンを落とす。 「え……どうしたんです?」 「………………変?」 「いえ。変とかじゃなく……どうしたんです?」  神坂は見慣れないパジャマを着ていた。ちっともかわいくない、平凡な量産品だ。しかも、佐川が今着ているものと、色違いのお揃いだった。佐川はうわー……とこころの中で頭を抱えた。喜びと、悔恨で、顔が引きつる。 「……お前が好きかと思って、こういうの」 「お揃いですね。この間、これが欲しくて出かけたんですか?」  神坂は、コクリと頷いて、恥ずかしそうにそそくさと一人掛け用のソファに座ろうとした。佐川の腕が伸びてきて、やや強めに引っ張られて、あっけなく佐川の隣に着地する。俯けば、視界に入るのは自分と佐川の下半身だ。同じ物を身につけているだけに、体格の差が歴然と見て取れる。 「俺は、意味もなくこれを着てるんですけど……好きそうでした?」 「や……なんか、お前、ヒラヒラしたのより、シンプルなほうが好きかなって。あれだろ?着古したTシャツとか、高校の時のジャージとか着て寝るんだろ?僕は持ってなかったから、買ったの。行った店に同じのがあったから、これにした」 「……すみません。史織くんの思考過程がよくわかりませんが、俺は寝巻きに興味もこだわりもないんです。だから、なんでもいいんです。史織くんが、いつもかわいい格好で寝るのは、大好きですよ?」 「……ありがと」 「今日のパジャマは、お揃いで嬉しいです。すっげぇ嬉しい。髪も、かわいいですね」 「トラ吉」 「はい」 「僕、明日、トラが着てるみたいな、シンプルでカジュアルな服、買おうかな」 「史織くんは男物でも、いい服着てますもんね。ボタンが凝ってたり、ポケットの形が変わってたり」 「トラの好きっぽいのが、欲しい」 「今のが好きですよ。史織くんは、俺が着るみたいな服は似合いません」  佐川は神坂の髪形を崩さないように注意しながら、どこをどう触ると崩れるのかもよくわからないけれど、肩に着きそうな毛先を指でサラサラと弄った。あの苦しかった日を思い出し、だけど神坂なりに自分との関係を考えてくれていたのだと思えば、わが身を振り返って反省しかない。佐川はそうっと、神坂の額にキスをした。拒否される気配は微塵もない。 「俺のは、着られればいいっていう安物です。シンプルでカジュアルって言えば聞こえはいいですけどね」 「でも」 「欲しいのなら、買いに行きましょう。でも俺は、いつもの史織くんの格好が好きですよ」 「……一応、見たいから、店に連れていってくれ。この間もうまく探せなくて、結局偶然会った後輩に手伝ってもらった」 「……今度は誰です?」 「ハセガワって新人。お前と同い年じゃないかなぁ」 「そうですか……偶然?」 「そう。どこに行けばいいのかって悩んでたら、偶然」 「……で、パジャマ買いに、連れていってもらったんですか?」 「うん。あそこ、パジャマもあるんだな。あと、ルームウェアとか、ふかふかしてかわいいのがいっぱいあった」 「それは買わなかったんですか?」 「……その時は、トラがそういうの好きじゃないかも知れないって考えてたから」 「明日、買います?」 「買わない。女物はネットでしか買わない。変な目で見られる」 「そう?そんなに誰も気にしませんよ、部屋着ぐらいなら」 「……考えとく」 「はい」  "偶然会っただけの寝巻きに詳しい新人ハセガワ"への嫉妬は、あまり湧かなかった。佐川は自分がいかに大事にされているかを思い、嬉しくてありがたくて、神坂の肩に腕を回す。首を傾けて、神坂の目を覗きこめば、彼は少し恥ずかしそうな顔をしてから、目を閉じてくれた。佐川は自分の拳ほどにしか思えないくらい小さな顔の、絶妙な位置にあるかわいい唇に自分のを重ねた。押し付けるだけのキスは、正直に言えば物足りないけれど、それでもしあわせすぎて鼻血が出そうだ。 「じゃあ、明日は映画と買い物と、飯ですね」 「うん」 「観たい映画ありますか?俺あんまり詳しくないから、史織くんの好きなのにしましょう」  佐川はそう言って、自分のスマートフォンを手にする。デートの王道を全部やりたかった。そして、神坂にとっていい思い出になってくれれば嬉しい。神坂は少し考えてから、幾つか映画のタイトルを口にして、佐川はその場で予約する。合間合間に、ディスプレイを覗こうと顔を寄せる神坂にキスをしながら。神坂は、トラ吉、しつこい!と頬を赤くしている。それでも、キスをすれば長い睫を伏せて受け止めてくれる。 「飯はどうするんだ?」 「もう決めてます。楽しみにしててください」 「うん。レストラン?」 「夜はそうですね。ネクタイは要らないですよ。俺が行けるレベルの店ですから」  わかった、と神坂が頷く。佐川は、神坂の何もかもがかわいく思えて仕方がない。女の子とはまるで違うし、キャピキャピしているわけでもない。声だって相変わらず低くて不機嫌そう。なのに、かわいい。顔もだけれど、全部が。あははー、相当お熱だね、俺も、と佐川はご機嫌だった。 「もう寝る」 「はい。じゃあ、どっちの部屋で寝ます?」 「………………各々で」 「え?一緒に寝ないんですか?」  佐川はものすごく意外そうな顔をした。神坂は思いっきり顔を顰めた。そして手のひらでぺしりと佐川の口元を覆うと、親指と人差し指でぐにゅっと両方のほっぺたを押して、佐川を変顔にする。ヒョットコみたいな顔の佐川に向かって、堰を切ったように、文句を言った。 「当たり前だっ!僕には僕の都合があるし、そうそう同衾してたまるか!」 「ふえぇー……でもぉー……」 「グズグズ言うな!本当にもう……最近のガキは何考えてんだか」 「……まさか、しませんよね?」 「何を」 「自慰」 「……したら何か問題が?」  実際神坂は、しようと思っていた。きょとんとしている神坂に、佐川は心底驚いて、神坂の手を顔から外させて、文句を返す。 「え!?本当にするの!?俺がいるのに!?」 「だから、大きな声を出さないように気を使ってる。そのぐらいの節度は僕にもある」 「そっちに気を使うんじゃないでしょう!なんで!?」 「は?何が。お前が見たくないだろうから、自分で」 「見たくないんじゃないです。そうじゃないんですっ」  いや違う。見たくはない。見てるだけなど無理だ。何の経験もない神坂が、自慰の時に誰か別の男を頭に浮かべているとは考えにくい。でもだからと言って、同じ出すなら自分の手で出させたいと思う。そんなことは男としては当たり前だ。佐川はなんと言えばいいのかと言葉に詰まって黙る。無意識に神坂の手を撫でながら色々と考え、しょうがないなと結論を出した。 「手伝います」 「馬鹿かお前。自分でするから自慰なんだろうが」 「結果が同じであれば、過程と動力が多少変わってもいいですよね」 「過程と動力が変わって、同一の結果が得られるはずがないだろう」 「わかりました。同一値ではなくても、近似値なら」 「僕はさっぱりわからない。何がしたいんだ」 「イチャイチャしたいです」 「明日すれば?」 「明日ですね!?言いましたからね!?意識ありますよね!!」 「明日はデートなんだから、イチャイチャするんだろう?違うのか」 「違いません。正解です。デートは、家に帰ってからもデートですからね。朝起きてから、ずーっと一日中デートモードです」 「……そうなの?」 「はい」  神坂の、若干不審げな視線を佐川は受け流し、何度か再考を促したけれど、神坂は一人で寝ると言って聞いてくれなかった。自慰をしないとも言わない。万策尽きて、佐川が神坂の手を離すと、彼はさっと立ち上がって、寝るぞ、と言う。 「寝られそうにないです……」 「自慰でもすれば?」 「史織くん。通常、付き合っている二人がお互いに性的欲求を抱えた場合、距離や時間等の障害がないのであれば、一緒にその欲求を解消する方法を探るものです」  神坂は佐川の説明でようやく事態を察し、顔を真っ赤にした。すわ、成功かと、佐川が一瞬喜んだのもつかの間で、神坂はいつも通り「エロトラの馬鹿!」と言い残して、足音高く自室へ引き取ってしまった。  佐川も仕方なく自分のベッドに潜りこんだものの、今こうしている間にもすぐそこで神坂が尻孔を使って自慰に耽っているかと思うと、興奮して寝つけなかった。

ともだちにシェアしよう!