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第25話

 佐川が目を覚ましたとき、ちょうど廊下を歩く耳慣れた足音が聞こえた。出かけるにはまだ早い七時半。佐川も身体を起こし、うきうきしながらベッドの上でストレッチを始める。 「おはようございます」 「おはよ。コーヒー飲む?」 「はい。何か食べますか?」 「うん。何かある?」 「パン焼いて……玉子ゆでましょうか。あ、ヨーグルトがあるんだった」 「十分だな」  神坂がコーヒーを淹れて、佐川は、玉子の入った片手鍋のお湯が沸いたところで食パンをトースターに放り込む。  神坂はあまり朝食を食べない。出勤時は一人でコーヒーだけを飲んで出かけていく。たまに佐川が夜のうちに、テーブルに小さめのパンやマフィンなどの軽食を出しておくと、それは食べてくれている。時間がないわけではなく食欲がないわけでもなく、別にどちらでもいいというスタンスのようだ。 「映画の最中に、おなかが鳴ると困るし」 「ですね」  朝食べることが少なくても、休みの日の昼飯に食べることもあるので、食パンは常備してある。ちなみに神坂のリクエストで、ちゃんとしたパン屋さんまで行って厚切りを買う。大阪にいた頃に四枚切りの食パンを知って、以来神坂はぶ厚いのが好きらしい。今日も外はこんがり中はふわふわの厚切りトーストを用意した。バターは神坂の担当だ。佐川にはメーカーの名前も読み取れないけれど、非常においしい。  佐川はまだパジャマだったけれど、神坂は身支度を終えていた。さらさらの髪はまっすぐに整えられて、いつもより艶々して見える。何か特別なことをしたのかどうか、佐川にはわからない。ただ、今日もかわいい人だなと思った。  のんびりしていたら、出かける時間が迫りつつあった。佐川はバタバタと着替えて身づくろいをし、リビングで待っていた神坂に、行きましょうかと声をかける。 「……トラ、今日おしゃれだな」 「そりゃ、初デートですから。多少は」 「うん」  母の強い勧めで、めったに着ないけれど佐川もそれなりの服は一揃い持っていた。シャツとネクタイを合せることが前提のちゃんとしたスーツではないが、いいお店で家族みんなで会食、とかなら問題ない。靴も、恥ずかしくない程度のちゃんと磨いてあるローファーだ。パンツもプレスしてあるし、シャツにしわもない。羽織ったジャケットはベーシックな形と色だけれど、まったく使いこなせないポケットチーフの代わりに、襟元に小さなピンブローチが刺さっている。姉からのプレゼントで、貰ったその日からずっと刺さったままだ。学生の身分では、この程度で許してもらえるし、これ以上畏まると、使えるシチュエーションが激減する。いざというとき用のスーツは、実家のクローゼットに吊るされている。 「背、高いし、見栄えがするよな」 「そうですか?姉いわく、無駄に大きい筋肉の凹凸が、洋服のラインを台無しにしているそうですよ」 「あはは。まあ、一番太いところに合せると、サイズが難しいかな」 「ええ。年々、サイズは上がります。史織くんはいつも通り、安定のおしゃれさんですね」 「別に、僕は普通」  神坂もシャツにジャケットだったけれど、色も素材もひどく垢抜けていて、いつも通り上品で、だけど程よく気が抜けている。佐川は、自分に合わせてカジュアルダウンしてくれているんだろうなと考えた。  神坂は佐川の着飾った姿に、ちょっと惚れ惚れしてしまう。でも、いつものTシャツとかを着ているときも好きだ。いっそ、何でもいい。ちょっと照れながら靴を履き、立ち上がると、すでにスタンバイ済みの佐川にじっと見つめられた。その視線の意味を、取り違えることは、この先ないだろう。神坂は頬を赤くして、まぶたを伏せる。佐川は神坂の手を握りながら、唇を寄せた。  一緒に家を出て、電車で最初に映画館へ行った。佐川が予約していたシートに並んで座って、神坂のリクエストした映画を観る。封切られてから日にちが経っているからか、空席が目立ち、静かに観ることができた。終わってから館内が明るくなって、神坂がすごーく面白かったと嬉しそうに笑った。佐川は、ものすごい手柄を立てたような気分になった。そして、暗闇の中で手を繋げばよかったと悔やんだ。  その後、少し歩いたところにあるフレンチの店でランチを食べた。神坂は、ランチなのに個室だったことに少し驚いた。なんとなく、佐川らしからぬチョイスに思えたからだ。神坂としては、ラーメンでも丼でも構わない気分だったのだ。聞けば、こういうことに詳しい友達に教えてもらったのだと恥ずかしそうに言う。ランチはそんなに高くないし、とも。それでも学生の身には、背伸びをしている部類だろう。 「すーーーーっごい、おいしい」 「はい。ですね。よかった」 「うん。よかった。ありがと」  本日二つ目の大手柄だ。ランチとはいえ、一応コースのような体裁を取っていて、前菜とメインとデザートが出る。きれいで鮮やかな盛り付けは、神坂の目も喜ばせたようだ。デザートに至っては、神坂はお皿を出してくれた給仕に了解を得て、スマートフォンで撮影までしていた。彼が去り、二人になると、神坂はテーブル越しにかわいい顔で佐川にパタパタと手を振り、皿を指差す。 「ここ。見た?星の形してる」 「え?あ、ほんとですね。俺のは、ハートです」 「そうなの?違うのか」 「ええ。交換しますか?」 「……うん。ハートがいい」 「はい。じゃあ、どうぞ」  神坂は嬉しそうにまた写真を撮っている。その様子を、佐川は撮影した。本人は多分、自分が撮られていると気づいていないので、至近距離からの盗撮だ。あとで画像を見せて謝ろう、と佐川はニヤニヤしながら考えた。  ゆっくり時間をかけた昼食を終えると、百貨店やショッピングモールが立ち並ぶエリアへゆるゆると歩きながら移動した。途中に家電量販店があって、神坂は佐川に、パソコンがないと不便じゃないかと聞いた。アパートの火事騒ぎのときに、佐川の所有していたパソコンを含めてすべての家電は使えなくなった。遊びで使う程度であれば、スマートフォンやタブレットでもどうにでもなるけれど、学業で使うとなればそうはいかない。当然、どの程度のスペックが必要なのか、神坂は知っているし、それが結構な金額になることも承知している。 「要りますね、もういい加減に」 「僕に金を渡している場合じゃないだろう」 「それとこれとは関係ありません。それに、友達に色々融通してもらって協力してもらって、適当に作ってもらうつもりなので、市販品ほど高くはならないですよ」 「あっそ」 「そいつの就職が決まって手が空けば作ってくれるらしいので、それまでは我慢ですね」  他愛もない会話を交わしながら、にぎやかな音楽のもれてくる家電量販店を通り過ぎる。  セルフサービスのコーヒーショップの前を通れば、注文の仕方が未だに理解できない、決まったやつしか頼めない、時々聞く呪文みたいなオーダーの内訳は何なんだ、という話になった。ファストファッションの巨大な店舗の前を通れば、利益率はどうなっているんだ、今はパジャマだけではなく靴やバッグまで置いている、という話になる。  神坂はふと、デートしてるんだなぁと実感して、満たされた気分になった。佐川と一緒であれば、ただこうやって街中をぶらついているだけで楽しいのだとわかって、嬉しかった。 「トラ」 「はい?」 「楽しい、な」 「はい。すっげぇ楽しいですね」 「うん」  佐川は眼鏡のブリッジを軽く押し上げながら、至って無表情にそう言った。  やがて最近オープンしたらしい、オシャレなショッピングモールに入り、佐川のエプロンを探そうということになった。 「どういうところに売ってるんですかね?」 「キッチン用品屋さんとかじゃね?」 「キッチン用品屋さんですか……湯沸かし器とかガスコンロじゃないですよね?」 「それはそれこそ家電屋さんだろ。僕の言い方がまずかった?かわいいスポンジとか、手に優しい食器用洗剤とか、きれいな色のホーロー鍋とか、そういうのが売ってる店」 「ああ」 「……わかってないだろ」 「はい」  佐川は目を細めて、史織くんについていきますと笑っている。  わざわざ探すまでもなく、適当に広いなーきれいだなー混んでるなーと言いながら歩いていたら、それらしい店に行き当たった。佐川はその店頭のディスプレイを見て、神坂の言った物すべてが並んでいて感心した。  店内には女性客しかいない。揃いのエプロンをつけてうろうろしているスタッフも全員若い女性だ。しかし、入口の傍に目立つように、料理男子特集が組まれていて、エプロンその他の商品のうち、男性向けが集められていたので入りにくいとも思わずに済んだ。 「エプロン……最近のはかっこいいんですね」 「な。結構有名なメーカーのもあるし。どんなのにする?」 「さっぱりわかりません。撥水?防水?難燃性……は無理かな」 「うちはIHだから、火の心配はない」 「いらっしゃいませーエプロンをお探しですか?」  男二人でヒラヒラとエプロンを揺らしていたら、愛想のいいかわいい女性スタッフが笑顔で声をかけてくれた。佐川が、自分の使うエプロンが欲しいがサイズはあるのかと聞くと、背もお高いですし、逞しいですもんねーと言われた。女性スタッフは、大きめのサイズ展開のある商品をすべて引っ張り出し、やれポケットが、だとか、タオルをここに、だとか、それぞれのいいところを端的に教えてくれた。料理はせず、もっぱら皿洗いに使うのだと佐川が言えば、少し考えてから、では、と三種類ほどを手で示す。 「でしたら、このあたりの商品がいいと思います」  女性スタッフは一番シンプルなものを薦めてきた。妥当な選択だろうと佐川も思った。佐川がちらりと神坂のほうに視線をやると、彼は佐川には用途がわからない何かを、手慰みにポンポンしている。佐川は店員の勧めを断り、さっさと店を出てしまった。遅れて出てきた神坂を振り返ると、何が気に入らなかった?と聞かれる。 「気に入らないんじゃないですけど、それほど欲しくないと言うか」 「まあ別に、ないと困るほどでもないし」 「そうですね。ここにしか売ってませんかね?」 「時間はあるんだから、探せばいいだろ」  神坂は気にした様子も見せずに、ジャケットのポケットに両手を突っ込んで歩き出す。佐川はそのすぐ後ろを付いていった。エプロンにしか目が行かないわけではなく、靴だ鞄だTシャツだと結構楽しみながら歩いていたら、似たような店は後二つあった。どこでも、男性物は入口付近に展開され、手に取りやすいように工夫されていた。二軒目では、何とかという、腰巻のようなデザインの長いエプロンを薦められたりもした。 「お客様のように、背が高くて体格のいい方が着けると、本当にかっこいいですよ!」 「……腹近辺が濡れるでしょ?」 「そこは気をつけていただいて」 「はぁ」  ちらりと神坂を見ると、得体の知れないグニャグニャした器の蓋を開けたり閉めたりしている。佐川は二軒目もパスし、三軒目でようやく、一枚のエプロンを購入した。濃いネイビーのデニム素材で、前ポケットがひとつあるだけのシンプルなものだ。肩紐と腰紐とポケットの縁が落ち着いた若草色で、前ポケットの生地にだけ、滲んだような掠れたようなハートマークが転々と白抜きされている。ちらりと神坂を見れば、じっと佐川の手にあるエプロンを見ていた。佐川は即座に、これを下さいと言っていた。 「いいのが買えて良かった。ありがとうございます」 「うん。僕もそれ、いいと思う」 「そうですか?気が合いますね」 「それしてれば、おなか、あんまり濡れないよな」 「はい。バッッシャバシャ洗えますね」  施設内には広々としたドラッグストアもあった。最寄り駅のすぐ傍にあるのと同じチェーン店なのに、陳列棚の配置も照明も、すごく見やすくてオシャレだ。神坂はここでハンドクリームを買おうと言った。佐川は、神坂が選ぶのはもっと女性的で、佐川には読めないようなブランドの、いいにおいがしそうな商品を選ぶと思っていたので意外だった。 「手荒れを治すなら、それなりの成分が入ってないと無理だ」  神坂はそう言って、一応設置されているかわいい系ハンドクリームゾーンを無視して、味も素っ気もないハンドクリームゾーンの商品をひとつずつ確認している。俯きがちに棚を覗き込む神坂の、つむじが二つ見えて、佐川は鼻の下を伸ばしていた。  神坂はそんな風に見られているとも知らず、最終的に残った候補を二つ持ち、んーんんー……と悩んでいた。 「トラ。いつ塗るんだ?」 「いつって?」 「普段学校とかバイト先で、こまめに塗るか?」 「あー……自信ないですね。学校はともかく、バイト先は難しいです」 「うーん……」  佐川は自分の手のために、神坂がこんなに悩んでくれて、真剣に考えてくれていることが嬉しくてたまらなかった。少し、挙動がおかしくなるほど、嬉しい。踊りだしそうな自分を落ち着かせようと、一緒に考えているふりをしながら陳列棚を眺め、なじみのあるワセリンを手に取る。 「ワセリンがいいのか?」 「いえ。べったべたになるし、好きじゃないです」 「吸収されないからな。根本的に、用途が違うと思うけど」 「ですね。部活でも使いましたね」 「怪我したとき?」 「擦り傷程度ならね。あと、すごい長時間泳ぐときに、脇の下に塗ったり」 「へぇー」  神坂は結局、佐川も目にした事のある、古くから売られている商品を、これにしろ、と選んでくれた。佐川は手のひらサイズのその箱をありがたく受け取って、プロテインのコーナーを指差し、ちょっと見て来てもいいですかと神坂に聞く。  筋肉量を増やすというのは、気合で何とかなるわけではなく、必要なものを摂取し、必要なトレーニングを続ける必要がある。ストイックになり始めれば、食事制限や他の栄養素のサプリメントを導入することもあるけれど、佐川は必要最低限のプロテインぐらいしか飲まない。以前神坂に貰ったサプリメントは、筋肉量を増やすものではなく疲労回復を助けるタイプのもので、良質だったからか、さすがに飲んでいると身体が楽だった。すでに飲みきってしまったけれど、常時使い続けるには値段が張る。  一口にプロテインといっても多種多様で、佐川はここ最近ずっと同じものを飲んでいるけれど、新製品はやはり気になるものだ。 「そういうの、おいしい?」 「いいえ。俺の、飲んでみますか?」 「いい。やめとく」  佐川は一番下の陳列を見ようと、その場にしゃがむ。神坂は手に取りやすい位置の商品を適当に見ていたけれど、つまらなくなって佐川の隣に同じようにしゃがみこんだ。彼がどれを気にしているのかが知りたかったのだ。 「ちょっと待ってくださいね」 「うん。いい。それ、買うのか?」 「いえ。いいのがあっても今は買いません。デート中ですから」 「そっか。そうだな」 「はい」  佐川は見慣れない海外製品を手に取り、新しい成分や配合なのだろうかと確認して、値段を見て、こんなものかと納得して棚に戻す。隣で、自分と同じ目線になるように膝に手を置いてしゃがんでいる神坂に微笑んだ。神坂は、いいやつ?お買い得?と聞いている。 「目新しいものじゃないですね。安いですけど、今のと置き換えるメリットはなさそうです」 「ふぅん。サプリメントってやっぱり高いのは高いんだな」 「はい。価格には、理由がありますからね」  二人でよいしょと立ち上がると、神坂がシャンプーをチェックしたいと言う。  神坂の家のバスルームのシャンプーや液体石鹸は、神坂が補充する。全部オシャレなボトルに詰め替えられているので、商品名さえ佐川にはわからない。佐川が筋肉系サプリメントを気にするのと同じように、神坂はボディケア商品が気になるのだろう。買うのかと聞けば見るだけだと言うので、佐川はハンドクリームの会計を済ませてくると言って神坂から離れてレジに並んだ。  レジの近くに、たくさんのコンドームが置かれていて、佐川はそのうちのひとつを手に取った。  付き合いが始まってから、佐川は一応、あっちの分野の知識を仕入れようとはしている。最初は、手っ取り早く動画を参考にしようとスマートフォンで検索し、適当に再生して即ブラウザを閉じた。神坂の容姿に慣れすぎた佐川には、受け入れがたい映像だったのだ。検索ワードがまずかったかもしれないと、神坂のような男が映っている映像を探したけれど、あいにく見つけられなかった。ちなみに必ず、"自慰"とか"女装"とか"マリちゃん"を検索から除外した。  やはり勉強は文字だ。佐川はそう思いなおし、ブログなどのテキストサイトを参考にしようとした。もちろん除外ワードを設定して検索をかける。世の中には親切丁寧にやり方を説いてくれる人がいるものだ。佐川も馬鹿ではないし童貞でもないので、書いてあることを鵜呑みにするわけではない。しかし、マナーだとかエチケットだとか禁忌だとか注意だとか、そういうことは全部頭に入れた。そのうちのひとつが、"コンドーム必須"だ。  佐川はそれもレジに渡して、ハンドクリームと一緒に購入した。  ショッピングモールを出て、再びいろんな路面店の並ぶ大通りをのんびりと歩く。どこかで一服しようという話になり、カフェに入る。足音が心地いいような床材に、広々としたレイアウトで、落ち着いた雰囲気の店だった。隣に流れる小さな川のほうが全面ガラス張りで、神坂はその席がいいと言う。店員はニッコリ笑って二人を案内してくれた。二つの小ぶりなソファは、外の景色が楽しめるように窓に向かって隣り合って置かれていて、少し照れくさい気がする。 「コーヒーすっごいおいしい」 「はい」  天気は悪くない。薄い雲越しの穏やかな日差しが、春っぽい。家の外で、陽のある時間に神坂と過ごすのがこんなに楽しくてしあわせだとは知らなかった。佐川のテンションは予想以上のデートにうなぎのぼりで、知らずに顔が緩み、隣に座る神坂ばかり眺めていた。 「トラ」 「はい」 「僕の顔に穴が開く」 「……気をつけます」  神坂は不機嫌そうな低い声でそう忠告し、それとは裏腹に、恥ずかしそうに目元を綻ばせる。かわいくて仕方がなくて、佐川はどうがんばっても目が離せない。そんな自分に笑っていると、何がおかしいんだかさっぱりわからない、と神坂は呆れている。 「甘いものが食べたいなぁ」 「入口のケーキ、おいしそうでしたね。でも、晩飯の予約、七時ですよ」 「んー……」 「半分こしますか?」 「んー……」 「なんでしたら、食べた後に、どこかで腹ごなし、でもいいですが」 「んー……って馬鹿。僕がお前のトレーニングに付き合えるか」 「そうじゃないんだけどなぁ」  結局神坂は、小さなクッキーを注文し、それで十分満足したらしく機嫌よく笑っていた。佐川は、そんな神坂をまた、穴が開くほど眺めていた。  その店を出ると、すぐ近くに佐川がよく服を買うチェーン店があるのに気づいた。佐川がそう言うと、神坂は是非入りたいと意気込んで歩き出す。別に、大した商品置いてませんよと、店員の耳に入れば睨まれそうな評価を口にしながら、佐川は神坂の後に続いた。 「ふーん……」 「ね。全然、史織くんっぽくないでしょう」 「あ。でもこれ、いいな。春物のパーカーが欲しかったし」 「えー……それですか?」 「なんで?変?」 「変じゃないですけど。着てみたらどうですか」  佐川の言うとおりに、神坂はシンプルなパーカーを試着した。そして黙って脱いで畳んで戻した。神坂は無言のまま、店を全部、つぶさに見て回って、セールになっていたニット帽を試着もせずに買った。それだって、ただ単なる負け惜しみに近い。 「史織くんには、もっといい服が似合うんです。この店のじゃなくて」 「学生向けのあまりにもカジュアルなのだと、シンプルでも意外と浮くんだな」 「でも、その帽子はいいですね。てっぺんのボンボリが大きくて」 「そう、かな」 「寒くなったら、それを被ってまたどこかへ行きましょう」 「うん」 「俺は史織くんの、いつもの格好が好きですよ」  佐川は自分のエプロンの入った紙袋を広げて、神坂の帽子の入ったショッピングバッグを納めた。ドラッグストアの袋もそこに入れてまとめてある。気が済んだらしい神坂と一緒に、佐川は地下鉄で、予約しているイタリアンレストランに移動した。  少し離れていたけれど、そこにして正解だったと思う。  普段着よりは多少気を使っているとはいえ、ごく普通の大学生の男と、身なりのいい綺麗な顔の男の二人連れを見ても、店の人はにこやかにテーブルに案内してくれて、テーブルを担当してくれた壮年の給仕は、さり気なく笑顔で色々と気遣ってくれた。非常においしい食事を、にこやかに穏やかに、ゆっくり楽しく味わうことができた。  佐川は、ディナーは少し背伸びをしたかった。神坂は本当にいい店ばかり訪れているようだから、そんな彼に喜んでもらえそうな店を友達や先輩に聞いて探した。しかしちゃんとレストランとなればちょっと腰が引ける。自分は別に構わないけれど、同席した神坂が自分のせいで恥ずかしい思いをしては困る。  そういう事を勘案して、結局佐川は、カトラリの使い方どころか、綺麗に盛られた皿の上の、どれが食べるものでどれが飾りだかも判断できなさそうな、え?全部食べられるんですか?的な高級フレンチよりも、イタリアンなら多少格式が上っても馴染みもあるし、何とかなるだろうと考えた。  夜をこの店と先に決めたので、ランチは女性の院生の人に強くお勧めされたフレンチの店にした。スペイン料理は早い段階で除外した。誰に聞いても、神坂がショップカードを持っていた店を勧められたからだ。  佐川は食事をしながら、そういう話を神坂にした。神坂はそれを聞きながら、そういう佐川が大好きだと思った。変にかっこつけなくても十分かっこいいと感じる。自分のできる範囲で精一杯、という選択ができる潔さが頼もしく思える。年下だけど、一緒にいると、何もかも上手くいくような安心感がある。 「すーーーーーーーーっごく、おいしい」 「ふ……史織くん、今日はそればっかりですね」 「最上級の賛辞。ボキャブラリ少ないな、僕」 「いえ。すーーーーーーーっごく、伝わって、嬉しいです」 「うん。僕、イタリアン好きなんだ」 「トマトでしょ?」 「うん!」 「はい。よかった」  何も佐川は、自分の身の丈だけを考慮したわけではない。神坂が好きそうだというのが一番だった。その予想はどうやら当たったらしい。おいしい焼肉を食べたときと同じように、神坂がしあわせそうに笑っている。今日三つ目の大手柄だ、と佐川はひそかに自分を褒めた。 「はぁ……楽しかった。おいしかった」 「はい。また行きましょうね」 「うん。トラ、大丈夫か?本当に全部、お前が出してた」 「はい。あぶく銭が入ったので」 「馬鹿」 「初デートの資金としては潤沢でしたね。おかげでおいしいワインも飲めた」 「そう!あのワイン、おいしかった。僕、あんまり飲まないんだけど、ああいうのだったら家で飲んでもいいな」 「はい。銘柄控えてもらったので、似たようなの、探して買っておきます」 「……」 「どうしました?」 「一緒に、買いに行けば、いいんじゃないかっ」 「……そうですね。そうしましょう。きっと、いいのが見つかりますね」 「おう」  晩飯を食べたレストランからは、最寄の駅まで地下鉄で乗り換えなく移動できた。しかし車内は混んでいて、会話ができる状態ではなく、二人は駅で降りて家へ戻る道を歩きながら、ようやくゆっくり今日のデートを振り返り、会話を弾ませることができた。元々短い道のりが、特別短いと感じるほど、話したいことが次々に溢れてくる。  家に着いても話が尽きなくて、二人で笑いあいながらリビングのソファに座る。家に上がった瞬間から佐川が神坂の手を握っていたので、問答無用選択の余地なしで隣り合って座ることになる。佐川が優しい顔で疲れましたかと聞けば、神坂はフルフルと首を横に振る。時刻は十時前だ。 「エプロン、着けてみたら」 「あ、そうですね」  佐川はガサガサと新しいエプロンを取り出して、紐を摘んで交差させたり引っ張ったりする。仕組みがイマイチわからない。 「ここに、頭入れるんだ。ここは固定されてるから被らないとだめ」 「ああ」 「で、腰紐は結ぶ」 「はい」  佐川は教わったとおりエプロンを被り、立ち上がって腰紐を後ろで結ぶ。出来上がりを神坂に見てもらうと、彼は笑いながら立ち上がった。 「それでもいいけど、紐長すぎだろ。前で結ぶんじゃね?」 「ん?」 「後ろじゃなくてさ」  神坂は佐川の背後に回って、不恰好なリボン結びを解き、そのまま佐川の腰に後ろから腕を回すようにして、へその辺りで結び直した。佐川は、神坂がほとんど自分に抱きつくような格好になっていることにドキドキして、ちょっと緊張する。神坂は視界もないのに器用に結び目を完成させると、佐川の背中から離れて前に回った。 「うん。多分そうやるんだと思う。長さ的に」 「ですね。史織くん、器用ですね」 「リボン好きだから」 「なるほど」  佐川は結んでもらったきれいな蝶々を指で突っつき、ポケットに手を入れたりしてみてから、早速食器を洗うと言い出した。神坂は今洗わなくてもよくないか?と突っ込みつつ、一緒にキッチンへついていく。朝バタバタしていたので、二人が朝食に使った食器がそのままだったのだ。  佐川は張り切ってスポンジを泡だらけにし、ぶくぶくと皿やカップを洗い、豪快に水をかける。やはりピシャピシャと水が跳ね、佐川の腹の辺りに飛んだけれど、かわいいポケットが濡れただけで、佐川のシャツは無事だったようだ。  その様子を神坂は、佐川の隣でシンクに両手をかけて、ケラケラ笑いながら見ていた。 「完璧じゃん」 「はい。ありがとうございます」 「お前が自分で買ったんだろ」 「でも、お店に連れて行ってもらって、選ぶの手伝ってもらったので。俺一人だと、こんないいのはみつけられません」 「……お前さ、僕の趣味に合せて選んだよな?」 「いいえ。俺はこれが一番気に入りました」 「あっそ!」  佐川はあらゆることに満足して、そうっとエプロンを外し、キッチンのカウンタテーブルに載せた。大事に使おう、とこころに決め、濡れた手をタオルで拭う。神坂は、佐川の嘘に顔を赤くしている。 「あ。ちょうどいいからハンドクリーム塗ろう」 「はぁ?風呂入ってからにしろよ」 「史織くんも、帽子被って見せてください」 「お前、服買ってきたら家でファッションショーするタイプ?」 「ファッションショーができるほど、大量に服は買わないです」  わいわい言い合いながらリビングに戻り、佐川は紙袋から神坂の帽子を取り出して渡し、自分はドラッグストアのビニール袋からハンドクリームを出した。コンドームは多分、まだ神坂の目に触れさせないほうがいいだろうと考えた。いずれそのうち来る、そういうときのために、用意してあれば憂いがないというだけなのだから。  佐川はクリームの蓋を開けてぺりぺりとシールを剥がし、じーっと中身を観察する。おもむろに指先に掬って手のひらに載せると、左右をぞんざいにこすり合わせながら神坂を眺めた。神坂は髪をさらさらと除けてから、小さな頭にニット帽を被った。ちょっと浅めに被ったり、目深に被ったり、ボンボリをポフポフしたりして見せて、似合う?と小首を傾げる。佐川は何度も頷いた。 「似合います。かわいいです。顔が小さすぎて、思った以上のボンボリのボリュームです」 「バランス悪い?」 「いえ。背が低いわけじゃないので、問題ないです。俺的には、ですが」 「……こういうの、トラは好きか?」 「そうですね。色が落ち着いてるから、子供っぽくないし、好きです」 「じゃあ、うん、よかった」 「はい。よかったでした」  そして佐川がクリームの蓋を閉めようとした。神坂は呆れて佐川の手を掴む。 「添付文書を読め。しっかりすり込んでくださいって書いてただろう」 「ちゃんと塗りましたよ」 「お前さ、僕に薬飲ませたときは、ものすごく用法用量確認してたじゃないか。なんで」 「俺の手と、史織くんの身体を同じ扱いにはできませんよ」 「しろよ。ちょっとそれ、寄越せ」  神坂は、ジャーを引き寄せて細い指でクリームを掬い取ると、佐川の手の甲にポテン、と載せた。ひんやりしたその感触に、佐川は小さくゾクリとした。そんな佐川に気づかずに、神坂は両手で、佐川の右手を強めに圧迫しながら撫で回し始める。 「え。え!」 「しっかり塗りこまないと駄目なんだよ。ワセリンと違ってちゃんと吸収されるから、そうすればあんな風にべたつかないし」 「や、え、あの」  粘度の高いクリームは、体温で弛んでもさらさらには変わらない。ねっとりというか、ぬるりというか、そういう、やばい系の感触だ。佐川が完全に狼狽して、顔を引きつらせているのに、神坂は知らん顔でヌルヌルネトネトと佐川の手をいたぶる。いびり倒す。ようやく神坂が手を離したと思うと、再びクリームを指に掬って、左手寄越せ、と無慈悲に言い渡す。耐えられたぜと息をついた佐川には、受け入れがたい指令だ。 「じ、じぶんで、しよっかなっ!おれにも、できそうかなっ!」 「しないくせに、偉そうに言うな。いいから手を出せ」 「ああああああの、史織くんっっ」 「どうなんだろ?カサカサのところは入念にしたほうがいいのかな?」 「しないほうがいいんじゃないっすかね!?」  神坂の指が佐川の手をスルスルと辿って検分し、カサカサだと認識したのは指と指の間とか、指先とか、重点的に責められた日には、あることないこと自白してしまいそうな場所だ。神坂はいたって真剣で真面目で、だから佐川は強く拒否できない。でも、マジでヤバいんですってば!! 「なんでこんなに、手が分厚いの?荷物持つから?バーベル持つから?」 「えーっと、はい、ですね、ですかね、かもしれませんね」 「この辺、硬いもんなぁ」  佐川は、神坂による手への愛撫に等しいマッサージから気を逸らそうと、別のことを考えようとして、上の空で答える。神坂は先ほど以上に入念に、佐川の手を揉みまくる。皮膚が薄くなったところをヌルリと摩られれば、どうにも誤魔化せなくて顔が赤くなっていく。  手のひら側の、指の付け根辺りの硬くなった皮膚を、クニクニと押したりするのは止めてもらえませんでしょうかー!! 「あ、の」 「ん?」 「……すみません。ちょっと、マジでヤバい、です」 「何が?」  佐川は限界を感じて、ほんの少し、腕を引いた。おかげで神坂の手で擦られて、またヌルンとした感触を味わう羽目になる。  パッて放して!パッて放して!!ぬるってしないでー!! 「史織くんの、純粋な好意に対して申し訳ないんですが」 「うん?」  察してくれない神坂を見て、佐川に泣きが入る。表情はきっと変わっていないだろう。しかし、こころの中では慌てふためき、絶賛絶叫中だ。  佐川は眼鏡のブリッジを押し上げて、小さな声で訴えた。 「史織くんに、そんな風に触られると、他意がなくても、反応しそうになります」 「反応?」 「…………勃ちます。勘弁してください」 「!」  神坂はびっくりした。佐川の顔を見つめたまま、思わず両手で握る彼の左手をぎゅっとする。すでにクリームは佐川の肌に馴染み、滑ったりしない。しかし、先ほどまでの感触を思い出し、確かに考えようによっては卑猥な行為だったかもしれないと思い至り、神坂は固まってしまった。  さすがに佐川も視線を床に落とす。 「……えーっと、ごめん」 「いえ……俺が悪いんですが。やっぱり、史織くんに触られると冷静ではいられないので」 「トラは悪くない……その、気がつかなくて」 「いや、あの、まだそこはかとなく反応してるだけなので、取り返しがつくというか、今なら引き返せるというか」  股間が落ち着かなくなっているだけで、これ以上はマズイと思うだけで、実際に明らかに膨らんでいるわけではない。  付き合っているんだし、別に勃起自体が恥ずかしいわけではないけれど、相手にそういう気がないのに自分一人が暴走しているのが申し訳ないのだ。  神坂が手を離してくれれば、ゆっくり深呼吸して落ち着けば、事態は収束する。佐川はありったけの気持ちを込めて、神坂の目を見た。お願いですから、放してください、と。 「…………する?」 「え?」 「その、そういう、なんか」 「したいです」  佐川は即答した。本来なら、気長に行きましょうとか、焦らなくてもいいですよとか、ゆっくり待ちますとか、言うべきなのかもしれない。でも、正直にそう白状した。神坂なら、自分の意見に流されたりはしないだろうという信用があったし、誤魔化したくなかったからだ。  神坂は佐川の言葉を受けて、赤くなって俯いている。ボンボリが少し、揺れる。 「無理やりするつもりはないです。でも、俺はしたい。史織くんの気持ちに踏ん切りがついたらで、いいけど」 「……うん」 「史織くんは、どう思ってますか?」  神坂のおかげで、あまり経験がないほど自分の両手がしっとりしている。神坂の手も、いつもより柔らかくてすべすべだ。佐川は自分の左手を掴む神坂の両手に、右手を重ねる。神坂は俯いたままだけど、嫌がる素振りはない。佐川はそれだけでも嬉しかった。 「よく、わからない。想像つかないし。そりゃ、動画とかは見た事、もちろんあるけど」 「はい」 「……今日のデート、すごく楽しかったし」 「俺もです」 「こんな風に、ゆっくり、なかなかできないし」 「そうですね」 「だから、いいかなって……トラが、僕でいいなら……って、別にトラのせいにしてるわけじゃないけど!」 「俺のせいにしてもいいですよ」  佐川がそう言うと、神坂はパッと顔を上げた。佐川は彼が目を閉じる前に、キスをした。握りあう手に、お互いの力がこもる。 「しない。僕は僕の意思で行動する」 「はい」 「僕は、お前を選ぶ」 「しあわせすぎて、死にそうです」 「馬鹿」  唇が触れ合う距離で、神坂は、しようと佐川を誘った。はい、と答えて、佐川は神坂の唇に自分の唇を押し付ける。先へ進もう、と、佐川も誘いたい。神坂の下唇を柔らかく噛んで、その気持ちを伝えようとした。 「んっ……」  神坂はどうしたらいいかわからず、咄嗟にパクリと佐川の上唇を食む。佐川は重ねていた右手を神坂の肩に回して引き寄せ、軽い音を立てて吸い着く。息をしようと、あるいは抗議しようとしたのかも知れない。神坂の唇が丸く開いた。佐川はそこへ、舌を差し込む。ビクンと神坂の身体が強張り、だけど、ぎゅうっと手を握られただけで、拒絶はされなかった。 「好きです」 「僕も、好きだ」  目を見つめあって、そう言葉を交わせば、ためらいは消えていく。遠慮がちなキスは甘く優しく続き、神坂は佐川にたくさんキスして欲しいと言い、佐川は神坂に何度も好きだと囁いた。  ローテーブルの上のカレンダーは、今日の日付が華やかにグルグルと赤く囲まれ、"初デート"と書きこまれている。

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