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第28話

【番外編】春爛漫 ◆  春らしい日が続く、少し暑いくらいの四月の終わり。神坂と佐川は、二人で旅行に出かけることになった。  まだ寒かった頃、仲違いをしたときに、神坂は佐川のために休みを取ると言った。しかし、バタバタして、その約束を果たせていなかった。神坂はそれを気にしていた。 「トラ、この辺、バイトする?」 「どの辺ですか?……ああ、休みですね」 「……休みなの?この辺」 「はい。同じチームで動いてる尾野さんって社員の人が、休むので、その辺」 「ふぅん」 「別のチームに応援に行くこともよくあるんですけどね。今、人手は足りてるみたいなので、俺と内藤さんも仕事なしです」  その辺、というのは、春の連休に挟まれた平日部分だ。企業によっては出勤だったり、まとめて休みに設定したりする、カレンダーの表示は黒字だけれど、休日扱いになる社会人も多い、その辺の日程。  晩飯を食べ終えて、風呂にも入って、二人でリビングで寛いでいた。佐川は大き目の卓上カレンダーをパタリとテーブルに倒して、来週の予定を書き込み始める。神坂はそんな佐川の、無駄に巨大な肩を眺めながら、ぽつりと呟いた。 「僕、休める、けど」 「えっ」 「会社としては出勤日なんだけど、仕入先とか発注元企業が休むから、慣例としてうちの研究室のメンバーは有給取れるんだ。室長だけは、出勤するけど、それはあの人の趣味だし」 「この辺、全部ですか?」 「うん。その辺、ずーっと」 「まじっすかー……」  佐川はカレンダーをじいっと見つめた。二日……いや、三日か、平日にそんなに休みが合うなんて、この先なかなかないだろう。神坂は佐川の隣で、カレンダーではなく佐川の横顔を見つめていた。 「どっか、行く?その……泊まりで」 「はい。行きたいですね」 「ごめん。もっと早くに言えばよかった。ホテルとかもう空いてなさそう」 「いえ。探せばありますよ。俺、探しますからちょっと待って?」 「……うん。かな?」 「はい。どこに行きたいですか?」 「えー……急には思いつかない。トラは?」  佐川はカレンダーをテーブルに立てると、ふっと目元を緩めて眼鏡のブリッジを押し上げる。こういうときの、佐川の優しい表情が、神坂は好きだ。ちなみに佐川は、長いまつげを瞬かせながら自分をじっと見つめる神坂の顔が好きだった。 「俺はね、時々考えてたから、いっぱいあります」 「そうなの?考えてた?」 「はい。史織くんと泊まりで出かけたら、楽しいだろうなって」 「……あっそ」 「はい」  神坂はプイッと顔を背けて、脚をぶらぶらさせる。佐川がそんなことを考えていたなんて思いもしなかった。今日たまたまタカミネに、休みはどう過ごすのかと聞かれて、どう過ごそうかと考えただけなのだ。  例年、ほとんど家からは出ないけれど、今年は佐川がいる。余計に家にいたい。でも、一緒に出かけられるなら、楽しいかもしれない。単純にそんな風に思っただけなのだ。 「トラの、いっぱいあるうちで、採用できそうなプランはどこだ?」 「この三日間、で考えていいですか?二泊三日」 「うん」 「じゃあ、本州ですかね。それも、新幹線か飛行機で移動できる場所」 「車ならあるけど」 「渋滞するでしょう。史織くんと一緒なら、渋滞も楽しいですけどね。疲れちゃうから」 「……うん」 「どこがいいかなー……温泉?ああでも、俺としては、温泉は冬にしっぽり行きたいんだよなぁ……」  佐川は楽しそうにブツブツと、独り言を言い始める。神坂は、アイスティーを飲みながら、そんな佐川を見つめていた。  神坂が休めると言った日まで、わずかに一週間。佐川は翌日から、意欲的に情報を集めた。行き先は、関西とした。神坂に多少の土地勘があるので予定を組みやすかったのと、マリちゃんに会いに行こうという話になったからだ。  大阪、京都、兵庫あたりは、いろんな交通網が発達しているので移動は早くて簡単だ。普通の飛行機は高いし、LCCは時間が合わないしで、結局新幹線で移動することにする。  佐川にとって、一番重要だったのは宿泊だ。できれば落ち着ける、いわゆる"いい宿"に泊まりたい。しかし時期が時期だけに、通常でも高額な宿泊代金は、最高値に設定されているし、そもそも空きがない。  緑に囲まれた離れで、広い内風呂があって、食事はおいしい地元の名産で……なんて、そんな宿は夢のまた夢だ。せめて、味気ないビジネスホテル以外を探すのが関の山で、神坂の好きそうな、かわいい内装など、望むべくもない。まあ、そういうホテルは別のジャンルで探せばあるのだけれど。  佐川がゼミ室で、スマートフォンで検索し、ガイドブックを熟読していると、気のいい友達がアドバイスをくれた。全国展開している女性に人気のホテルチェーンがあって、そこは値段も手ごろだという。普通の客室はビジネスホテルよりはマシ、という程度らしいが、ねらい目は、スイートルームだそうだ。 「スイートって……あれだろ?最上階とかで、いっぱい部屋があるんだろ?」 「そうそう。部屋がつながってる。つながるための部屋、かも。スイートっていい言葉だなー」 「無理。予算オーバー」 「そう思うだろ?それが穴場を作り出すわけだ。ちょっと検索してみな?」  彼は佐川の友達の中でも、ダントツに女の子にモテるやつだ。神坂との初デートの時も、色々と教えてくれた。優しい笑顔で、自分の知っていることを惜しまず何でも話してくれるので、本当に助かった。佐川は本気で、俺が女なら抱かれてもいいと言ったほどだ。  佐川は素直にスマートフォンで検索し、試しに関西近郊の値段をチェックする。……え?マジで? 「……いける」 「だろ?下手に高級ホテルの低層階に泊まるより、ほどほどホテルの最上階。コレ鉄板だから」 「えーすごい!!うわ!どうしよう!?」 「もし夜張り切っちゃって、彼女がアンアン言っちゃっても、スイートなら気兼ねしなくていいしねー」  そのアドバイスは佐川にはあまり有益ではなかった。神坂がセックスの最中に、周りに響くほどアンアン言うことなどないからだ。しかしまあ、たまに盛大に口げんかをするので、壁が厚いに越したことはない。  ホームページで確認すれば、関西にいくつも系列ホテルがある。どこにすればいいのかさっぱりわからない。駅に近いほうがいいのだろうけれど、どの駅がいいのだろう?佐川がガイドブックの路線図を指で辿っている隣で、友人は頬杖をつきながらニヤニヤしている。 「だーれと行くのかなーはじめちゃんはー?」 「ないしょでーちゅ」  旅館ではないので夕飯はついていない。破格ではないけれど、部屋の紹介にある広さや設備は、十分すぎるほどで、さらに言えば、掲載されている写真はとてもエレガントだ。神坂が好きそう、と佐川は思った。もちろんその写真を鵜呑みにはできないけれど。  結局、スイートとジュニアスイートに空きがあったのが関西近郊では数軒で、その最寄り駅をメールに羅列して、利便性が高いのはどこですかと神坂に送信した。ホテルは自分が選びます!!と佐川は息巻いていたので、詳細はまだ教えたくなかった。  程なく神坂から返信があり、彼はこの駅だと便利、とひとつの私鉄の駅を指定していた。佐川は即座に、その駅に最寄のホテルの部屋を予約した。  小さなスマートフォンの画面では気が急いて、電話をかける。感じのいいレセプションスタッフは、お応えできるかわかりませんが、と前置きしつつも、リクエストの有無を聞いてくれた。佐川はゼミ室から出て、人気のない場所で色々と質問をし、一つ二つ、リクエストを出す。  電話を切って振り返ると、そこにはヘラヘラと笑う友人が立っていた。 「ふーん。はりきっちゃってーはじめちゃーん」 「ば……お前、盗み聞きすんな!!」 「全部は聞いてないぜ。春だから、かわいいお花を飾って欲しい、だけ聞こえたけど?」 「一番恥ずかしいくだりを、選りすぐって聞くな!」 「お花が好きなお相手なのかなー?それとも、お花が似合うお相手?」 「あーうるさい。情報には感謝するけど、もうほっとけ」 「で、どこ行くの?誰と行くの?何しに行くの?」 「言うわけないだろが」  佐川は、優しくも抜け目のない友人を蹴散らして、ゼミ室に戻る。忘れないうちに神坂にホテルの予約が取れたとメールを送り、時間を確認して、ああ、返信はないなと考えて、スマートフォンをバッグに放り込む。友人はまだ佐川にまとわりついて、ねぇねぇ、画像とかないのー?と食い下がっている。 「だってさー、佐川に彼女なんて、久々じゃん?俺、嬉しいの」 「何で嬉しいのかわからん」 「えー。周りがハッピーなほうがいいでしょ。で?どんな子?」 「うるさい。彼女なんかいない」 「取らないってばー見るだけー味見もなしー誓うー」  佐川は友人の悪ふざけを聞き流し、パソコンに向かう。今日はバイトがないので、帰りに買い物をして、神坂が帰ってくる前に三日間のタイムスケジュールを組んでおこう。あまりタイトだと疲れるから、空白を多めにして、時間が余ればホテルでゆっくりすればいい。なんと言っても、最上階のスイートルームだ。神坂はそういうところに泊まったことがあるのだろうか? 「佐川」 「なんだよ」 「無表情でにやけるって、超器用。今度やり方教えて」  優しい友人は、ニッコリかわいく笑ってゼミ室を出て行った。佐川は自分の頬を、ぐにゅーっと引っ張って、にやけを払拭しようとした。  ◆ 「こんな感じです」 「おー……一日目……新幹線で移動。それだけ?」 「はい」 「二日目……午前中は水族館。あとはブランク」 「はい。」 「で、三日目も移動……だけ」 「はい。どこかのタイミングで、神戸牛が食いたいです」 「ああ。いい店、その辺詳しいやつに聞いとく」  その夜帰宅した神坂に、佐川は直筆のしおりを差し出した。  色々悩んだけれど、一人で考えるのがつまらなくなったので、こんな結果だ。あまりにも決定事項が少なくて、要らないプリントの裏にフリーハンドで走り書きしただけ。  佐川はガイドブックを手に、神坂の行きたいところへ行きたいと笑った。神坂も笑いながら、佐川の手元を覗き込む。わざと少しだけ、佐川の太い腕にもたれる。それだけでひどくドキドキする。 「三都物語する?」 「サント物語?すみません、知りません」 「大阪・京都・神戸が三都。昔、都が置かれていたところを周遊するんだ。ざっくり言うと、鉄道使ってあちこちで遊んでねっていう、JRのキャンペーン」 「なるほど……奈良は?」 「奈良の方が、都っぽいけどな。大人の事情だろう。奈良は結構独自路線だから。奈良かぁ……奈良もいいなぁ……大阪市内から奈良市なら、それほど遠くはなかったはずだけど」 「奈良の観光名所って、大仏ですか。鹿と……せんとくん?まんとくん?」 「なーむくん……春日大社も……あーやっぱり今回はやめとこう。移動ばっかりになっちゃうから。奈良に行くなら、泊まりたいホテルもあるし、その……また、今度……とか」  神坂は恐る恐る、そう口にした。どこまで期待していいのか、まだよく掴めない。また今度があると思ってもいいのだろうか?  佐川は神坂の小さな緊張など意に介さず、眼鏡のブリッジを押し上げながらコクコクと頷いた。 「史織くんがいいなら、今回は見送って、奈良は次のときにしましょう。ああでも、次は俺、寒いところの温泉に行きたいので、次の次でもいいですか?」 「あ、桜は?京都もきれいだけど、奈良も名所がたくさんあってすごくきれいだって」 「はい。じゃあ、今度の桜は奈良で、その次は京都ですね。あ、京都は今回も行くんですよね?三都三都」  神坂は嬉しくて、言葉もなくペシペシと佐川の太ももを叩く。佐川が表情も変えずに、次々とずっと先の話をしている。当たり前のように、一緒にいるつもりなのだと思えば、こころが満たされるような気持ちになる。佐川が言うのだから、きっと温泉旅行も桜見物も、実現するのだろう。 「メインはマリちゃんなので、二日目は朝から水族館へ行って、ゆっくりしましょう。しばらく行ってないなぁ、水族館。ショーとかありますよね?」 「うん、多分。僕も大昔に行っただけだから、あんまり覚えてない。バシャーってわざと水かけられたのって、水族館のショーだっけな?」 「ああ、そういうの、テレビで観ました。あれは、事前に了解を得てるんですかね?」 「テーマパークだと、この辺は水が飛びますよって注意書きがあるよな。水被りたい人!って立候補制だったり」 「へぇ……知りません。今度テーマパークも行かなきゃ、収まりつきませんね」 「……やきもち?」 「はい」 「別にそんなの、会社の親睦会で行っただけだしっ!」 「いいんです。やきもちは、しょっちゅうです。俺以外と、親睦深められたらムカつきます」 「あっそ!」 「あ、お好み焼き食べたいなぁ」 「すっごいおいしいとこ知ってるぞ」 「史織くんは物知りですね」 「まあな」  のんびりと過ごす夜は楽しい。佐川は明日から旅行当日までずっとバイトがあるので、こうやって過ごせるのは今夜だけだ。神坂は、写真満載のガイドブックを楽しそうにめくっている。佐川は熟読済みなので、そんな神坂を眺めながら、ビールを飲んでいた。 「清水寺……金閣寺……嵐山……」 「京都観光がいいですか?」 「大阪にも観光名所ってあるのかな?走ってる人の看板と動いてるカニの看板くらいしか思いつかない。観光なら京都じゃね?」 「じゃあ三日目、京都にずっといます?」 「そうだな。あ、でも、新幹線、指定席取れなかったんだろう?じゃあ新大阪から乗らないと、座れないと思う」 「じゃ、二日目を京都で。マリちゃんは、着いたその日に会いに行きましょう。そのまま神戸にいて、三日目は大阪で」 「何時に行くの?」 「お昼ご飯を、向こうで食べるくらいの時間のつもりです」 「そっか。じゃあ、うん、そうする」 「はい」  佐川は頷いて、空になった缶とグラスをキッチンへ運び、リビングに戻ってくると、神坂からガイドブックを回収した。 「具体的なプランは、各自自習して、行きの新幹線の中ですり合わせましょう」 「え?あ、うん」 「はい」  佐川はソファに座る神坂にキスをした。お誘いのキスだ。彼の頬がポッと染まるのがかわいい。暖かくなってきたので、神坂の寝巻も薄くなり、今夜はガーゼ素材のグリーンのTシャツに、柔らかいスウェットの白いハーフパンツだ。  初めての旅行に、佐川は非常に興奮していた。楽しみで仕方がない。浮かれまくりだ。いつもならベッドに行くのに、立ち上がろうとする神坂にその場で圧し掛かったのは、多分そういうおかしなテンションのなせる業だろう。 「おい、トラ、ここで?」 「んー……ベッド行きましょう。でも、ちょっとだけ」  佐川はよくわからないことを口走りながら、神坂をソファの背もたれに押さえつけて、唇を塞ぐ。音を立てて、神坂の口の中を味わい、舌を舐め合わせる。神坂の手が自分の頬のあたりに添えられているのが嬉しい。  テキパキと神坂の下半身を丸裸にして、スベスベの腹を撫でて、そのままツルツルの股間に手を伸ばす。まだやわらかい性器を握りこみ、キスを続けながらゆっくりと扱く。 「ん……んぅ……!」  緩急をつけてペニスを刺激し、Tシャツをまくり上げて小さくて色の薄い乳首に吸い付くと、神坂の声が甘くなる。こんなに明るいところでコトに及ぶのは初めてだ。わずかに粟立つ肌も、唾液で濡れて光る乳首もよく見える。ああ、そういえば眼鏡をしているからか。 「トラ、も、ちょ……!」 「イクとこ、見せてください」 「や、だっ。恥ずかし……あ、んっ」 「おねがい」  神坂は朦朧とする頭で、かわいいこと言いやがって、と思っていた。おねがい、とか言われたら聞いてやりたくなるに決まっている。  佐川はさらに熱っぽい声で、脚開いてください、ソファに上げて、と囁いてくる。神坂は言われるがままに大きく股を開いて膝を曲げ、足を座面に乗せて、佐川に何もかもがよく見えるような格好になる。神坂は羞恥を堪えて、佐川の愛撫に身を委ね、久々に明るいリビングで絶頂を迎えた。  佐川はそんな神坂の様子に満足して、荒い息を吐く彼に何度も軽いキスをし、じゃあ本番行きましょうと腕を掴んでベッドに連行した。神坂は半分引きずられるようにして、佐川の部屋に連れ込まれた。  ◆  旅行の前日、神坂はすでに連休に突入していたけれど、佐川は日付が変わるまでバイトだった。それでも翌朝、二人とも申し合わせていたよりもずっと早く起きだし、身支度を整え、少し照れながら一緒に家を出たのは、予定より二時間近く早かった。  空いている在来線で新幹線の乗り入れ駅まで移動し、新幹線に乗る前に駅弁を買い込み、旅行というよりは遠足に近いワクワク感で、笑いあいながら発車ベルを聞く。 「あー俺、新幹線久々です。子供のとき以来です」 「今も子供だろうが」 「もっと子供だったとき以来です」 「あっそ。旅行で?」 「はい。家族旅行じゃなくて修学旅行ですが」  一緒にお弁当を食べながら、珍しくお互いの子供の頃の話をし、トンネルを通るたびに耳が痛くなるけど予防するには?新幹線の清掃スタッフチームのプロフェッショナルぶりを知っているか?などと話題は尽きない。新大阪駅に着くのはあっという間だった。  そこから電車を乗り継いで、ひとまずホテルに荷物を置きに行く。  佐川はまだ、神坂にホテルの話をしていなかった。最寄り駅を降りてすぐに見えた建物は、あまり目を惹くものではなく、レセプションもビジネスホテルとそう変わらない。スタッフはとても親しみやすい笑顔を浮かべてくれていたけれど、期待しすぎただろうかと佐川は少し、気落ちした。 「きれいなホテルだな。新しいの?」 「え?さあ……」 「お前が選んでくれたんだろが」 「ですね」  神坂がおかしそうに笑っている。佐川はその笑顔で気を取り直して、カウンタ越しに、予約をしてあるのだけれど、チェックインの時間にはまだ早いので、荷物を先に預かって欲しいと申し出る。佐川の予約内容を確認したスタッフは、殊更に笑みを深くし、お待ちしておりましたと改めて頭を下げた。  自分よりずっと年上の人に、こんなに丁寧に接してもらったことなどなく、そもそもホテルに自分で泊まるなど、受験のとき以来だ。佐川はどういう態度でいればいいのかわからず、隣の神坂に目顔で助けを求める。 「堂々としてろ」 「はい」  堂々と、とはどういうものなのかもよくわからないまま、佐川はとりあえず、色々と準備をしてくれているらしいレセプションのお姉さんをじっと見つめた。お姉さんはその無表情な視線を受け止めて受け流し、どうぞこちらへ、と上品な手つきで、ぴかぴかに磨かれた重厚な猫足のデスクへ案内してくれた。 「本日はご予約を頂きましてありがとうございます。お部屋のご用意はできてございますので、今すぐのチェックインも可能でございますが、いかがなさいますか?」 「あ、もう部屋には入れるんですか?」 「はい、さようでございます」 「じゃあ、…………っと、何ですか?」  すぐに出かけるつもりだから、荷物だけを預けようが部屋に入ろうがどちらでもかまわないけれど、佐川は神坂と二晩を過ごす部屋を早く確かめてみたかった。チェックインしましょうと、隣に座る神坂に言おうとしたら、胸倉を掴まれてぐいーっと引っ張られる。神坂はお姉さんに愛想よく「ちょっと失礼」と断って、佐川に顔を寄せると、小さくて恐ろしく低い声で囁いた。 「お前……どんな予約入れてんだ」 「え?」 「おかしいだろうが。何でこんなに丁寧な応対なんだ。こんなもん、高い部屋に泊まる人間限定なんだよ」 「へぇ。そうなんですか。史織くんはやっぱり物知りですね」 「すっとぼけてんじゃねぇよ、子供ぶりっこしやがって。一体」 「スイートにしてみました。お手ごろだったんで」 「…………お前、結構馬鹿だな……」  神坂に馬鹿だと言われることは日常茶飯事なので、佐川はまったく気にしなかった。ただちょっと、神坂のかわいい顔が引きつってるな、とは思った。大きなため息とともに脱力した神坂を他所に、佐川はチェックインの手続きを済ませ、生まれて初めてのスイートルームに案内された。 「わーすごーい」  佐川の口からは、ありきたりな感想しか出ない。案内してくれたホテルマン?ポーター?よくわからない人が、笑顔で簡単に部屋の説明をしてくれる。佐川は興味深そうに頷いて熱心に聞いていたけれど、神坂は早々に大きなソファにドスンと座って、呆れた顔をしていた。やがてそのスタッフの人も退室して、二人になり、佐川は神坂の隣に腰を下ろした。 「すごい部屋ですね」 「当たり前だ。スイートだなんて、お前は何を考えてるんだ」 「駄目でしたか?気に入りませんか」 「そうじゃなくて!」  佐川は、ソファセットのテーブルに飾られた花を見て目を細める。それがリクエストによるものなのか、標準オプションなのかはわからないけれど、望んだとおりの可愛い花で、とても満足できた。  神坂は少し顔を赤くして、背中で押しつぶしていたクッションを、おなかの前で抱えてぷいっと横を向く。佐川はその横顔にも満たない頬のあたりを眺めながら、説明をした。 「予算には収まってますし、思い出に残るホテルがよかったんです。コレが精一杯ですけど、いっぱいある同じ作りの部屋のひとつより、一部屋しかないスイートのほうがいいかなって」 「……」 「俺がもっと稼げるようになったら、今度はしっとりした高級旅館とかに行きましょうね」 「別に、泊まるところなんか」 「大事です」 「……」 「俺的には、今回のホテルと部屋は大当たりです」 「……あっそ」 「あの、気に入りませんか?部屋、変えてもらいましょうか」 「別に。今更バタバタしたら、ホテルに迷惑だろ」 「はい」  佐川はじっと、神坂の後頭部を見つめて、自分のほうを向いてくれるのを待った。やがて神坂は、クッションをボスボスとパンチしながら、小さく低い声で、何かを言う。 「はい?すみません、聞こえません」 「……ありがとって言ったの!こんなの、僕、考えつかなかったし、内装もかわいいし広いし」 「ですね」 「花とかちゃんとしたウェルカムドリンクとか、そういうのも僕が好きな感じっていうか」 「はい」 「……だから、嬉しいから。ありがとって」 「はい。よかったでした」 「……おう」  ようやく佐川を見た神坂は、少し目がうるんでいるようだ。佐川は首を傾げて、その目をのぞき込む。神坂はもう一度、囁くように、ありがと、と言って目を伏せた。佐川はこころの中でガッツポーズをしながら、かわいい唇にキスをした。 「トラ」 「はい」 「でも、男二人でスイートはおかしいだろう」 「そうなんですか?子供なのでその辺の機微に疎いんです」 「ああそう。そりゃ初耳だ」  機嫌が直ったらしい神坂と一緒に、改めて室内を探検し、三つも部屋が繋がっていることに二人は盛り上がる。独立した寝室は、まさかの巨大なダブルベッドだった。巨大だから、ダブルという規格ではないのかもしれないけれど、佐川にはよくわからなかった。神坂はそのベッドを目にして、こめかみを指で押さえてため息をつく。 「コレなら一緒に寝ても、史織くん、大の字になれますよ」 「そういう問題じゃねぇよ!!」 「きれいなシーツと布団ですね。汚したら怒られますかね」 「絶対汚すなよ。死守しろ」 「えー……難しいなぁ……すっげぇむずい……」  汚したら、僕は恥ずかしさに泣くぞと神坂に脅されて、そんな神坂を見たい気もするけれど、怒らせるのは不本意で、だけど怒りつつも恥ずかしくて涙する神坂なら、怒鳴られ蹴られてでもその価値はあるかもしれないと佐川は悩んだ。  どうでもいいくだらない事で煩悶する佐川を急かして、マリちゃんのいる水族館へ向かう。避けようがなくてレセプションの前を通ると、先ほどのお姉さんと他のスタッフたちがにこやかにいってらっしゃいませと見送ってくれた。佐川は、普通の客室に泊まっても、こんなに愛想がいいですかね?ホテルってすごいですねと、無表情にはしゃいでいた。神坂は居たたまれなくて、半眼でそそくさとホテルを出た。  大阪市内にあるホテルの最寄り駅から兵庫県の水族館までは、結構距離があるし電車の乗り換えもある。関西初上陸の佐川は、神坂のあとをはぐれないように付いていくのが精一杯だ。混雑する駅構内や車内が、連休に起因したものなのか日常の風景なのか判断できない。  神坂はほとんど迷いなく歩を進め、あっという間に神戸方面へ向かう電車の空席に腰掛けて息をついた。 「よし。あとは寝てても着く」 「寝ますか?」 「わかんない。朝早かったし寝ちゃうかも」 「ですね。でも乗り過ごすとまずいですよね」 「まあ、終点まで行くことはないだろう……行っても、引き返してもたいした時間じゃない」 「はい。寝てもいいですよ。俺、起きてますんで」  知らない土地で電車を乗り過ごすなんて、佐川にしたら途方にくれる事態だけれど、神坂は気にならないらしい。コレが大人の余裕というものかと、佐川は感心しきりだ。本当はただ、神坂も浮かれていただけなのだが。  満員に近い乗車率の車内で、キャッキャウフフの会話は難しく、静かにしていたら、神坂の肩にじわじわと重さが乗ってくる。かわいいガキのいたずらかと思ってちらりと見れば、ガキはガキらしくおやすみになっていた。神坂は笑いをこらえながら、馬鹿でかい筋肉の塊が寝やすいように、できるだけ動かないで、車窓から見える海を眺めながら目的地までを過ごした。 「すいません……」 「別に謝ることじゃないだろ」 「だって……」 「ああそうか。超重かったからな。ホテルに戻ったら肩を揉め」 「はい!望むところです!」 「あ。あれだ。すぐ入れそう」  昼が近いけれど、新幹線の中でたらふく食べたので二人とも空腹を感じていない。とりあえず入館することにする。ほどほどに混雑した中で、適当に歩いて展示されている海洋生物を見学していたら、やがてクラゲゾーンにたどり着いた。  薄暗い室内で、青く光るような身体を揺らめかせ、たくさんのクラゲが浮遊している。その中のどれがマリちゃんなのかは、判然としない。しかし佐川は、感慨深いような気分で両方の手のひらを水槽に押し当て、じっとクラゲの群れをみつめた。 「マリちゃんがどれか、わかんないな」 「……これじゃないですかね」 「なんで?」 「一番器量よしだから」 「トラ、器量よしって言葉も大概古臭いし、クラゲの器量をはかる物差しを、僕は持ち合わせてない」 「あ、ほら。ね?やっぱりこいつだと思います、マリちゃん」 「何がほら、だ。どけよ、僕が探す」 「いや、絶対こいつで間違いないですって」 「お前、知らないくせに偉そうに言うな」 「そもそも、クラゲが匍匐前進ってどういう状態ですか」 「どうって?」 「第一匍匐?第二匍匐?」 「第四っぽかったけど」  クラゲの展示の前を陣取って、男が二人、激論を交わす。マリちゃん探しを諦めても、ずっと見ていたいような幻想的な景色だった。ふわり、ゆらり、と半透明の生物が舞う。いつの間にか二人とも、無言でそれを眺めていた。 「……綺麗ですね」 「うん……綺麗。写真撮ってもいいのかな?」 「えーっと……ああ、いいみたいですよ」 「うん、ありがと」  神坂は尻のポケットから携帯電話を取り出して、何枚か写真を撮った。肉眼で実物を、好きな人と見ている感動ほどは写し撮れないけれど、なんだかいい写真が撮れて神坂は満足した。 「撮れました?」 「うん。お前はいいのか」 「同じ画像がいいので、あとで送ってもらえませんか?」 「……うん」 「はい」  佐川が目元を緩めながら、眼鏡のブリッジを押し上げる。神坂はそれを見て、なんだか照れてしまった。そそくさと携帯をポケットに突っ込み、行こう、と佐川を促してようやくクラゲのマリちゃん(達)に別れを告げる。  その後ものんびりと館内を回り、神坂は、クラゲと同じような雰囲気のイカの水槽が気に入った。キラキラしていてすごくきれいだった。佐川は大きな何かが泳ぐ水槽がいいらしい。エイだったり、サメだったり、名前も種類もわからないほとんど動かない魚だったり。 「ショーを見ますか?」 「そうだな……ああ!!イルカさんに触れる!?」 「え?ほんとですね。……って、これ、次まで結構時間ありますよ」 「飯食って、買い物して、ちょっとウロウロしてたらすぐだろっ!いいじゃん!」 「いいですけど……史織くん、イルカが好きなんですか?」 「この世に、イルカさんが好きじゃない人間がいるとは思えない」 「……」 「……トラ、嫌いなのか?」 「いえ。でも、見る分にはいいですが、触りたいとは思わないです」 「なんで?」 「え……なんか、怖いでしょ?口とんがってるし」 「は!?イルカさんの口が若干とんがってるからキスしてもらえるんだろうが」 「史織くん、ここのイルカは触られるだけの受動的な日々を送ってるんです。キスなんか、したことないと思います。ていうか、史織くんにはさせません」 「お前にここのイルカさんたちの何がわかるんだ」  神坂は休憩のために座ったベンチで館内案内のリーフレットを見つめて、息巻いている。佐川は正直、動物にふれあうのは好きではない。子犬や子猫ならまだしも、成犬成猫をはじめとした自我の芽生えたペット一般も得意じゃないし、ましてや毛の生えていない生物とはできるだけ距離を取りたいほうだ。見るのはいいのだ。クラゲもそうだし、どの海洋生物もかわいいと思う。でも、触るのは避けたい。 「史織くん、参加してきてください。俺は、えーっと、そう、イルカに触ってる史織くんの写真でも撮ろうかな」 「えー……」 「……とりあえず、飯食いませんか」 「うん。えっとね、何食べる?」  神坂は手元のリーフレットを裏返して、館内の飲食店マップを佐川に見せる。顔を寄せ合って、それほど豊富ではないラインナップから、満場一致で明石焼きを選ぶ。土地のものを食べずして何が旅行か。  二人して初体験の明石焼きをほおばっている最中に、館内アナウンスで、次の回のイルカの破廉恥お触り会は中止だと流れた。詳細な事情を説明してくれるわけではないけれど、生き物なのだから気分が乗らないこともあるのかもしれない。  佐川は少し困った顔で神坂を見る。熱烈なイルカさんフリークの神坂には、残念すぎるお知らせだろう。しかし当の本人は、じゃあ、ショーを見よう、と割とあっけらかんとしている。 「イルカさんだって、色々あるだろう」 「ですね」  佐川は、神坂にそんな風に慮ってもらえるイルカさんはしあわせ者だなあと思った。  神坂はイルカさんのショーを大いに楽しみ、飼育員の人がキスしてもらっているのを心底羨ましそうに見ていた。佐川は、ものすごい量の水を客席に飛ばすことに驚いた。もちろん、イルカたちの多芸ぶりも素晴らしかった。  その後も館内をくまなく回り、マリちゃんグッズも吟味して、楽しかった水族館を後にした。  それから再び電車に乗り、神戸に移動して、歩いて行ける観光スポットをいくつか回り、夜は神坂の選んだ店で、神戸牛を食べた。目の前の鉄板で、白いシュッとした帽子をかぶったコックさんが焼いてくれるスタイルだ。あまりのおいしさに感動し、二人して最後の晩餐はこの肉がいいと絶賛した。  ホテルに戻ったのは十時近かった。改めて見ると本当にいい部屋だ。どちらからともなく口数が減り、珍しく神坂の方が、佐川の服をちょっと引っ張ることで意思表示をする。佐川は嬉しくて、神坂をぎゅうっと抱きしめると、かわいい小さな顔を両手で包み込んでキスをした。 「ん……」 「風呂、入りましょう」 「ん、はぁ……トラ、先に入っていいぞ」 「…………あとから史織くんも入ってきてくれるんですよね?」 「見た?バスルームのアメニティ。すごいテンション上がる感じだった。あ、お湯はためなくていいぞ。僕、自分でバブルバス作るから。さっき覗いたらすぐたまりますって書いてあった。あれだな。給湯力甘く見て、あふれさせちゃう客が多いんだろうな」 「いや、あのね」 「あんな広くて開放的な風呂、なかなか入れないし。ゆっくりしたいから、お前先に入れ。あ、別にお前もゆっくり入っていいぞ」 「…………シャワーで、いいです、俺は」 「そうか?お湯、すぐたまるんだから、お前も泡風呂とかすれば?」 「一人で泡風呂を楽しむスキルがないので……」  佐川はがっくりと肩を落として、意地悪でも恥ずかしさでもなく、素で風呂を満喫するつもりの神坂を腕から解放した。  佐川がいつも通りシャワーを浴びて出てくると、神坂は鼻歌を歌いながら入れ違いにバスルームに消えた。覗きたい衝動を必死にこらえ、佐川はテレビをつけたり携帯をチェックしたりして、落ち着かない時間を過ごす。  やがて神坂は、ツルツルのピカピカに洗いあがって、ホカホカになって戻ってきた。寝室の一人掛けの豪勢な椅子に座って待っていた佐川は、いそいそと立ち上がって神坂に近寄る。 「ふあー最高。気持ちよかったぁ」 「よかったですね。……マッサージ、しましょうか」 「え?本当に?やったね」 「どうぞ」  なんだか二人で外泊というのが照れてしまって、いつものように振る舞えない。佐川はその照れくささを誤魔化すように、神坂の手を取ってベッドに移動し、彼にうつぶせになるように言う。 「トラ、マッサージ得意なのか」 「ちょっとだけ、勉強しましたね。トレーニングの一環で、テーピングとかと一緒に」 「へぇ」  ふっかふかー!と叫びながら、神坂がベッドにうつぶせで倒れこむ。柔らかくて大きな枕に顔を埋め、深い息を吐く。佐川はそんな神坂の腰のあたりを跨ぐようにして、首筋と肩を摩った。 「痛かったら、言ってくださいね」 「うん。でも、ちょっと痛いくらいがいいんだろ?」 「いいえ。痛いと変なところに力入るんで。素人のマッサージは、痛いのはだめです」 「ふぅん」 「ここ、痛いですか?」 「ぅあー……きもちい……んー……」  その声に、佐川はどきんと胸を高鳴らせる。神坂の薄い背中を軽く揉み解し、痛くしないように気遣いながら、筋肉の流れを指で辿っていく。時々、軽く詰めた息をんふ、と吐きだす神坂に、否応なしに劣情を煽られる。  首、肩、背中、腰を順にマッサージして、最後は腕まで撫で摩り、佐川は達成感を覚えながら神坂の上から退く。 「はい、おしまいです」  返事はない。佐川がそうっと神坂の髪を指で避けると、気持ちよさそうな寝顔が現れた。  佐川基、一生の不覚。素敵な部屋での甘いセックスの前戯になるはずの渾身のマッサージは、そのクオリティゆえに、神坂をものの見事に眠りに誘ってしまったようだ。起こすわけにもいかず、佐川は黙って神坂をあお向けにして布団をかける。  大きく息を吸い、吐き出して、満足げに四肢を伸ばす神坂の隣で、彼の邪魔にならないように横になると、佐川はそっと涙を拭った。至福のマッサージのあとの極上のベッドの寝心地を、大変にダイナミックな寝相で満喫する神坂は、佐川の煩悶を知る由もなかった。  ◆ 「……ごめん」 「いえ……」  神坂は素晴らしくいい目覚めを迎えた。  のびのびと大の字で横たわり、高い天井を見上げ、脚の方向にある大きな窓からの穏やかな春の日差しに、いい部屋だなぁと満足の吐息を吐いた。そしてギクッと固まる。何気なく首を回すと、佐川がしょんぼりした顔で神坂を見ていたからだ。そこでようやく、自分が昨日先に寝てしまったことを思い出す。 「トラのマッサージが、気持ちよくて……」 「……今日は、しませんから」 「う、うん」  今日の晩は、ほかのことをするのだろう。神坂は寝癖のついた髪のままで起き上がり、まだ寝そべっている佐川の頭を撫でる。佐川は気持ちよさそうに目を伏せて、されるがままだ。 「朝ごはん、食べよう」 「はい」  本物のラグジュアリホテルではないので、朝食は合理的なクーポン制で、一階のダイニングでもルームサービスでもどちらでもいいらしい。二人で、ここはルームサービスだろ、と一致した意見で電話をかけたけれど、映画で見るような銀のカートで執事風な人がエレガントに給仕……自分たちはガウンのままで、新聞を片手に……というわけではない。にこやかなスタッフによって届けられた朝ごはんをドアのところで受け取り、程よい広さのリビングらしき部屋で、寛ぎながら自分たちの好きに食べるという程度だ。明日はダイニングでブッフェにしようと言いながら、とろけるオムレツを堪能する。  十分においしい朝食の後、二人は身支度を整えて京都へ観光に出かけた。神坂の選んだ駅は本当に便利で、京都まで乗り換えなしでたどり着くことができた。 「京都って言っても広いし、電車の駅もいっぱいあるからな。確かに京都には着いたけど、観光地にはさらに移動するんだぞ」 「はい。ああ……なんか、京都っぽい……気がします」 「多分、気のせいだ」  バスと徒歩で、京都市内の観光地は結構網羅できる。そもそもたった一日なので、欲張るのは得策ではない。各自がここだけは、という場所を一か所ずつピックアップし、あとは地図や人の流れを見ながら、ほどよく適当な行動とした。  お昼ご飯は京都のおばんざいが売りの観光客向けの店で摂り、晩ご飯は昨晩同様、神坂チョイスで京料理の懐石だ。恐ろしく高級そうな店構えに、佐川は怖気づく。 「うえー……これ、あれでしょ?舞妓さんとか芸妓さんがいて、一見さんお断りーとか、そういうやつですよね?トラやっこどすーとか」 「確かに紹介がないと予約は取りづらいし、舞妓さんたちを呼んでる座敷もあるけど、僕たちは普通に、個室で食べるだけだ。ビビるな」 「ビビりますよ……」 「嫌ならやめるけど」 「まさか。入ります」 「うん。足元に気を付けろ、トラやっこさん姐さん」  馴染みのなさは、お店に入るところから始まる。看板らしい看板もなく、陽の暮れた暗い中に提灯が点される。完全に雰囲気にのまれたまま、佐川は恐る恐る神坂の後ろをついていき、出迎えてくれた、意外なほど京都っぽくない話し方の、さっぱりしたおかみさんに笑顔で案内される。  通された個室で、さすがに丁寧な京言葉で挨拶をされて、今日の予約がタカミネさん経由だと知る。佐川はおかみさんが出て行ってから胡坐をかいて、ようやく息をついた。  どこからか、綺麗な音楽が聞こえてくる。誰かが舞妓さんや芸妓さんを呼んで、三味線でも弾いてもらっているのかもしれない。 「はー緊張する。ちゃんと食べられるかな」 「なんで?箸で食べる和食だぞ。それに、個室だから、ちょっとくらいお行儀が悪くたって構わない」 「はい。京都の人って、話し方がのんびりなんですね。それでかな?聞き取りやすいし訛りも少ない気がします」 「どこの地方でもそうだけど、年齢が上がれば訛りは強くなるんじゃないか?」 「へぇ……大阪と京都と神戸じゃ、違うんですかね」 「タカミネ曰く、大阪府民の間であっても、言い回しに関する議論は日常的に持ち上がるそうだ。他府県民とは、それぞれ文化も方言も違うんじゃね?」 「奥が深いですね~三都」 「そうどすなぁ」  やがて料理が運ばれてきて、どれもこれも見た目も味も最高だった。京都はよく全体的に薄味だとか聞くけれど、物足りないとは全く思わなかった。二人で、昨日のと、最後の晩餐はどっちにしようかと真剣に話し合うほど美味しい。  ものすごく満足のいく食事をして、おかみさんと年配の男の人に、今度こそ佐川の想像通りの京言葉で見送ってもらい、二人はホテルへ戻った。  昨晩同様、バッグをその辺に放り出してどちらからともなくキスをする。お互い、今日はたっぷりイチャつくつもりなので、勢いこのまま寝室へ移動しそうになる。  佐川はそれをグッと堪え、やせ我慢で物わかりのいいふりをして、昨日と同じように先にシャワーを浴びた。さらに、ソワソワと待っていた神坂に、余裕をぶっこいて、ゆっくりしてきていいですよと言って風呂場に送り出す。  神坂は佐川の優しさに感動し、遠慮なく二夜連続のバブルバスをたっぷり満喫した。気の済むまでお湯につかり、一応この後のことを考えて、念入りに身体を綺麗にする。  バスルームに続く横に長ーい洗面台の鏡で髪を整え、前髪を横に流して耳にかけて軽く撫でつけると、よし、と呟いてパタパタと寝室へ向かった。  かわいい佐川は、あどけない顔ですっかり眠り込んでいた。 「…………マジか」  佐川の頬を少し突いてみる。しかし、一向に起きる気配はない。神坂は苦笑いで、顔に乗ったままの眼鏡をそうっと外して、軽くキスをすると、佐川の隣に横になり、いい夜だなと思いながら眠りについた。  ◆ 「すいません……」 「いいってば。旅行って、疲れるし」 「でも……」 「さっさとしろよ。朝ごはんが遅いと、次が入らないだろう」  翌朝、神坂はただならぬ重みで目が覚めた。自分の上に巨大な筋肉の塊がしがみついている。身の危険を感じてペシンと頭を平手で叩くが、佐川は離れようとせず、半泣きで謝っていた。  しょぼくれる佐川を適当にあしらい、神坂はさっさと身支度をして荷物をまとめる。佐川もブツブツと、なんで寝たし俺……と呟きながら出立の準備を整えた。  光のたくさん入る、広々としたダイニングで朝食を食べてチェックアウトをし、駅のロッカーに荷物を預けて、大阪観光に繰り出す。  大阪は食い倒れだろう、と意見が一致し、あちらこちらと移動しつつ、たこ焼きを食べていか焼きを食べてお好み焼きを食べる。どれもおいしい。一応ランドマーク的なスポットも訪れ、雑踏の中で看板を見上げたりもした。  夕方の新幹線で帰るつもりなので、食べ納めとばかりに最後に有名な串カツ屋さんの暖簾をくぐる。中途半端な時間帯だからか、それほど混雑もしていなかったので、独特のシステムの串カツを、ゆっくり楽しむことができた。 「トラ吉、次、何食べる?」 「えっとね……」 「お?兄ちゃん、虎党か?今年、どや?いけそうか?」 「とらとー?」 「あ……すみません。違うんです。ただのあだ名です」 「そうかいなーすまんな、ごめんごめん」  よくわからないけれど、神坂が少し申し訳なさそうだったので、佐川もとりあえず突然話しかけてきた隣のテーブルの男性にすみません、と謝っておいた。  今日は飲食店などで、見知らぬ人によく声をかけられる。これが大阪コミュニケーションかっ!と佐川は若干興奮したけれど、神坂は慣れているらしく適当に受け流している。 「しかし兄ちゃん、えーらいごっつい身体しとんな。何してんの?」 「筋トレです。趣味なんで」 「ほーん、そうかー。僕もな、若い時はそら、腕から脚からナニから太かったんやで。喧嘩も強かったしやんちゃもしてなぁ」 「はぁ」 「ほんで?そっちの兄ちゃんはまた、きっれーな顔してんな。何?芸能人?モデルさん?」 「いえ、普通の会社員です」 「へー!そうなん。うちのおかーちゃんよりよっぽどべっぴんさんやで」  何杯目かわからないビールジョッキを空けて、気のいい男の人は、周りの客たちも巻き込んで神坂と佐川に構う。旅行なのか、どこへ行ったんだ、ああ、あそこはよかっただろう、まあええやないか、一杯奢らせんかいな……予想外に地元の人たちと触れ合えた時間だった。  二人は店を出るとき、自然とお勘定をしてくれた店の大将に、ごちそうさまでした、また来ます、と挨拶してしまっていた。  楽しかった初めての二人旅も、あとは自宅へ戻るだけとなった。寂しさはない。道中どころか、帰る家も同じなのだから。新幹線に乗り込み、並んだ席に腰かけて、車内アナウンスの後にベルが鳴り響いたとき、神坂は佐川の顔を覗きこんで、ひどく嬉しそうに笑った。 「ありがと、トラ。すごーーーーーーく、楽しかった」 「俺もです。また、一緒にどこか行きましょう」 「うん!」  静かに滑らかに動き出す車内で、佐川と神坂は穏やかにこの三日間の思い出を語り合い、笑い合い、京都駅を通過するときには、昨日訪れたランドマークが見えて窓の外を指さしてはしゃいだ。  やがて二人とも寝てしまい、心地よい疲労感を纏いながら自宅へたどり着く。  朝からずっと食べていたので空腹ではない。三日ぶりの我が家は相変わらず居心地がいい。佐川は漸く、何の気兼ねもなしに神坂を抱き寄せた。神坂は佐川の分厚い胸に、ぎゅうっと頬を押し付けて甘い息を吐く。 「お帰りなさい、史織くん」 「うん。お帰り、トラ吉……」 「そう言えば、とらとーって何ですか?」 「阪神タイガースファンのこと。虎党」 「ああ……トラキチもでしたっけ」 「そう」  お互いの唇を啄みながら、目線で相手を求めながら、二人の言葉は囁きに変わっていく。 「いいですか?」 「……うん」  二日連続空振りだった。今日はどうだろうか?神坂が佐川の手を握って、大きな目でじいっと見上げる。神坂の頬が少し赤いのが、佐川にとってはたまらなくかわいく思える。 「今夜は満塁ホームランです」 「……なかなか微妙な予告だな」 「え!?なんで!?」 「何打席立つつもり?」  神坂は笑って、かわいい佐川の頬にキスをし、僕の魔球を打ってみろ、と挑発した。

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