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第31話

本編より数年後のお話になります ◆  人生に何度か訪れる、大切な局面がある。今後の人生を左右するかもしれない判断を迫られるとき、誰でも悩むものだろう。佐川は就職の時期を控えて、色々と悩んでいた。神坂はそんな佐川の相談には乗らないと決めていた。それを本人に宣言してもいた。感情的になるかもしれないからだ。 「妥協はするな。同じ業種でも、似たような会社でも、絶対に違う。よく考えろ」 「はい」 「うん」  例えば、この家から通えない距離にあるすごく行きたい会社と、通えるまあまあな会社があったとして、神坂は自分と離れるからという理由で、迷ったり妥協したりして欲しくなかった。そこまで説明はしなかったけれど、多分佐川にも通じていると思っている。  佐川がやりたい仕事は決まっていて、後は会社を選ぶ事と、その会社に選んでもらう事だけ。優秀な人材は、どんな不況であっても望まれるものだ。  佐川は友達や教授や先輩たちに相談しながら、色々と模索していた。今後の自分の生活の方向性が決まるのだ。大学を選んだときもそんな気分だったけれど、判断材料と知識と手放したくないものは、数年前の比ではない。  やりたい仕事に携われる会社を探す。今はインターネットでいくらでも情報が出てくる時代だ。自分のために、妥協せずに、ひたすらに。  佐川が得た結果は、自分にとって最高とも言える環境の職場だった。ただひとつ、神坂と離れる事を除いては。 「おめでとう。いいところに決まってよかった」 「……はい」  選んだのは佐川なのだから、落ち込むのはお門違いだ。だけど未だに、これでよかったのだろうかと不安を覚える。  ほかに内定をもらえた企業の中には、同等の環境もあったし、何より神坂の部屋から通えた。それでも佐川は、神坂が唯一くれたアドバイスを必死に守った。妥協はしない。一番行きたい所を目指す。決まる前から、神坂は気づいていただろう。だけど今日報告するまで、一度も聞かないでいてくれた。本当に強い人だと尊敬を深くする。 「神戸なら、いい街だと思うし。焼肉もきっと美味いぞ」 「安月給じゃ、美味い焼肉なんて、そうそう食えませんよ」 「安くて美味い店を探せよ。僕も知り合いに聞いとく」 「ですね……」  お祝いだと称して、近所の焼肉屋さんに出かけた。お互い、核心を避けていた。  逢えなくなりますね。  その一言はどうしても言いたくなかった。普段は気にならない会話の空白が、ほんの少し気まずく思える。  神坂は必死で、穏やかでいるように努めていた。社会に出て働くのは大変な事だ。佐川ならきっとうまくやれるだろうとは思うけれど、ストレスやプレッシャーは相応にあるはずだし、本人に不安もあるだろう。新しい土地で始まる未知の生活に慌しくなる中、自分の面倒まで見させられないと考えた。  あと数ヶ月で訪れる次の春で、関係が切れるわけじゃない。佐川の選んだ道を、神坂はこころの底から支持できる。寂しさは、いくらでも誤魔化せる。たいした距離でもないし、交通の便も発達している場所だ。逢いたくなれば、ほんの数時間で行ける。大丈夫だ。  自分が取り乱せば、佐川が動揺する。きっと、無理をする。それを知っている神坂は、これは自分の問題だと切り取っていた。佐川だってさみしいと思ってくれている。それで十分だ。  新しい生活が始まる佐川は、多分その忙しさで気が紛れる。そのくらい落ち着かないだろうし、それが普通だ。だけど神坂が弱さを見せれば、佐川は仕事に忙殺される自分を責めるかもしれない。史織くんはさみしい思いをしているのに、と。 「トラ」 「はい」 「……帰ろう」 「はい」  だけど今は、一緒にいたい。今だけは、甘えたい。かわいい佐川を、甘やかしたい。

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