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第32話
就職先が決まっても、佐川は卒業するために学業を修める必要がある。神坂には神坂の日常がある。それが救いにもなった。二人で過ごす、有り余る時間がもしあれば、きっと理性を保てない瞬間があっただろう。二人ともが、せめて離れる日まで変わらない毎日を過ごしたいと願っていた。
佐川は卒業に向けた準備と並行して、就職に向けた準備を進めなくてはいけない。一つ一つの作業が、神坂と離れるのだと思い知ることになる。できるだけ考えないようにした。悩んだって、何も変わらないから。
佐川が新生活にまつわる事のために、日をまたいで家を空けることはない。必ず日帰りで、神坂の部屋に戻ってくる。神坂の出勤するくらいの時間に、ちょっと行ってきます、とだけ言い残して出かけて、神坂の帰宅と変わらない時間に戻ってきている。
神坂は佐川の引越しを手伝うつもりだった。しかし佐川は、神坂が会社に行っているような平日の日中にさっさと済ませてしまった。荷造りをされる気配もなく、荷物がいつまでも運び出されないことを不思議に思った神坂が、いつ搬出するのかと聞いたときには、もう終わっていたのだ。それ以前の部屋探しも、いつの間にか決めていた。
自分の関知しないところで佐川が動く事に不安を覚えた神坂は、一度だけ、どういう部屋に住むのか見に行きたいと言ったことがある。佐川は自分のスマートフォンを取り出して、がらんとした部屋の画像を見せ、わざわざ行く場所じゃないですと答えた。何もわざわざ、離れて暮らすのだと確かめに行く事は不要だと。大事な、貴重な休日を、そんな事でつぶしたくないのだと言った。
「史織くんに隠したりしてるわけじゃないです」
「……旅行がてらでも、いいのに」
「だったらもっと楽しいところへ行きましょう」
「トラ」
「おねがいです。考えたくないんです」
この数年で、何度か二人で旅行した。春はいつも、桜を見に出かけた。だけど今はまだ早いし、今年はきっと、一緒に桜を見るのは無理だろう。
結局この家でゆっくりしたいという話になり、二人ともが黙って、何も変わらない風を装って、その日が来るまで息をひそめて過ごした。佐川は出会ったころのように口数が減り、その分神坂をじっと見つめるようになった。
ものが少なくなった佐川の部屋を見たくない神坂は、彼の部屋に寄り付かなくなり、いつも佐川を自分のベッドに呼んだ。佐川もいつも自分の部屋のドアは閉め、廊下を歩く神坂の目に触れないようにしていた。そして毎晩、神坂のベッドにもぐりこむ。
佐川が家を離れるまであと一週間というある日、彼が外出していて、神坂はなんとなく、佐川の部屋のドアを開けた。パッと見はそれほど変わらない。大きなベッドも大きな鏡もそのままだし、佐川のお気に入りの筋トレ用のベンチも、パソコンもデスクも置いたままだ。
だけど、収納の中は空っぽだろう。バーベルはそのまま置いてあるけれど、ダンベルはない。パソコン周りに置いてあった、ちょっとした文具や写真立てもない。
神坂は部屋を覗いたことを後悔した。こういう気分になりたくなくて避けていたのに。しかしなぜか、ふらりと部屋の中に入って、そのままベッドの脇の床にぺたんと座り込む。
床暖房が入っているのはリビングだけなので、無人の部屋の床は冷たい。これから先、この部屋が、床が、暖かい日はあるんだろうか?神坂は、自分がそんな風におかしな方へ考えてしまうのが嫌で仕方がなかった。
ちゃんと佐川は、休みになれば帰ってきてくれる。別々の場所にいても、電話もできるしメールもくれる。きっと、好きだって言ってくれる。かわいいと言ってもらえるように、ちゃんと努力もする。
さみしいなどと、言葉どころか顔にさえ出したくない。そう思って、神坂は我慢を重ねる。歯を食いしばって、自分を叱りつけ、絶対に佐川の前では弱音を吐かないと決めたのだ。
だけど、こうして静まり返った部屋の中で一人でいるときは、ほろほろと緊張の糸がほどけて、切ないため息が漏れる。
「はじめ……」
床に座ったまま、ぽすんとベッドに顔を伏せる。なんとなくいいにおいがする。だけど、きっとそれだってすぐに薄れていくだろう。部屋の主がいなくなるのだ。神坂は、この部屋の掃除をするのが今から憂鬱に思えた。いっそ、鍵をかけてしまおうか?そうすれば、この部屋から佐川の気配が消えていくのを感じなくて済む。そこまで考えて、神坂は自分の考えを一蹴した。佐川はきっと、そんなに間を置かずに帰ってきてくれるはずだと。
ぐるぐると思考はめぐり、答えはなく、ただひたすら不安だけが募る。神坂は緩慢な動作で、床に置いていた手を持ち上げて、ベッドのシーツを軽く握った。そして、頬をさらに押し付ける。泣きそうだ。さみしいのか悲しいのかも、よくわからない。
「史織くん?」
「……!!」
神坂は弾かれたように顔を上げ、がばっと後ろを振り向いた。戸口には、佐川が心配そうな無表情で立っている。神坂が慌てて立ち上がるのと、佐川が神坂の目の前まで近づくのはほぼ同時だった。
今何時だ?神坂は自分がどれくらいここにいたか、とっさにはわからなくなって、ひどく動揺した。
「な……に、お前、早くない?実家にちゃんと」
「どうしたんですか」
「あーこんな早く帰ってきたんなら、どっか、行く?デートだぞ」
「史織くん、なんで?ちゃんと言ってくださいよ。どうしたんですか?」
「何が?別に何でもない」
一瞬、佐川が泣きそうな顔をした。それを見た神坂が、どうしたのかと逆に問うより先に、あっという間に抱きしめられる。抱きしめ返せば、縋っていると思われないだろうか。そう考えて、神坂は動けなかった。
「好きです。俺、史織くんが好きなんです」
「知ってる」
「置いていきたくない……離れたくないです」
「……ばーか……」
神坂は何度も、こころの中で謝っていた。こんな間際になって、動揺させてしまった自分の不注意を呪う。堰を切ったように駄々をこね始める佐川を、必要以上に軽く受け流して、落ち着かせようと躍起になった。おどけて、派手な音をさせて頬にキスをし、バーベルは置いていくつもりか?と笑いながら聞く。
「あっちでトレーニングしなくていいのか」
「しますけど、置く場所もないので」
「そうなの?でもお前、あのバーベルずっと大事にしてるんだろう?持っていけば?」
「いいんです。大事なものは、ここに置いておくんです」
「……あっそ。好きにすれば」
「ねえ、史織くん」
「トラ。明日の約束、忘れてないよな?」
「忘れるわけないでしょ。デートなんだから」
「じゃあ、うん。僕、楽しみにしてる」
「俺だってそうです」
「嫌がってただろ」
「違います。嫌がってたんじゃないです」
神坂はぼてんと身体を佐川に預けて、たくましい腰に腕を回す。とっさに佐川も、神坂を腕に閉じ込めた。
「なんか今日、寒くない?」
「え?寒い?風邪ですかね……大丈夫ですか」
「うん……ちょっと寒い」
神坂は自分の狡さを申し訳なく思った。だけど今は、仮病でも狂言でも構わないから、佐川の気を逸らしたかった。歩きにくいほどに佐川に抱き付いたまま、リビングに行こうと神坂が言えば、佐川は強く頷いて神坂の肩を抱き、自分のマフラーを外して神坂を包む。
佐川の優しさに、神坂はまた胸が詰まる思いをした。自業自得だと、その感情は後ろ足で踏みつぶす。
「コーヒー飲む?」
「はい、俺がしますから、座っててください」
「んー……くっついてた方があったかい」
「そんなに寒いですか?……あっためましょうか」
「エロトラになってるぞ。熱いコーヒーでいい」
「そうですか?コーヒーより、絶対俺のほうが、史織くんをあったかくできるのに」
「知ってる。なあ、出かける?どっか出かけて、そのまま外で飯とか」
「雪降ってきましたよ。今日は家にいましょう」
「うん」
明日は一緒に、佐川の就職祝いを買いに行く約束をしている。身につけてくれるものが渡したくて、神坂は張り切って佐川に何が欲しいかと聞いたけれど、史織くんの買い物は高いものが多すぎると、佐川は逃げ腰だった。挙句の果てに、携帯ストラップがいいですとか言い出す始末だ。
「携帯ストラップもいいけど、それが就職祝いってどうなんだ。そもそも、お前の携帯にストラップつけられないだろう。カバーもつけてないくせに」
「えー……もー……また、何万もするやつ、買おうとするんでしょう?」
「しょうがないだろう、金持ってるんだから。遠慮するな」
「ささやかでいいんですって」
「やだ。ねぇ、何にする?時計?財布?あ。眼鏡とか。スーツ……は着なくていいんだっけ?自転車通勤なら定期も使わないし……」
「はい、じゃあ、史織くん動画」
「お。センスのいいリクエストだな」
「どこが!?聞き流してくださいよ!」
パソコンを置いていくならタブレットを持っていくか、とか、携帯電話そのものをお揃いで買おうとか、とにかく神坂はいろいろと案を出して、佐川はどれも高すぎますと固辞し続けた。結局答は出ず、デートがてら一緒に探しに行こうという話になったのだ。
身体を寄せ合うようにして一緒に淹れたコーヒーを、暖かいリビングで飲みながら、神坂はまだ少し動揺していたけれどそれをひた隠し、佐川の腕にもたれかかる。佐川も落ち着いたらしく、時々神坂にキスするだけで、明日はどこへ行きましょうかとのんびりと聞いた。
「百貨店がいいよな。いっぺんにいろいろ見られるし」
「ですね」
「あーマジで寒い。ちょっと、厚着してくる」
さっきは方便だったけれど、神坂は実際に少し寒気を感じた。風邪をひくと厄介だから、マグをテーブルに置いて立ち上がる。佐川はそんな神坂の手を握って引き止め、自分も立ち上がった。
「ほらね。だから言ったでしょう」
「お前のそのドヤ顔の理由を聞かせてもらおうか」
「俺があっためます。得意ですから、任せてください」
「……あっそ」
身体の繋がりがすべてだとは思わない。ただ、安心できる。自分たちは触れ合えるほど傍にいるのだと、確かめられる。
寒さを感じずに済む。
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